第45話
石炭酸の匂いに鼻を焼かれながら、アキトは今日も「将軍」という名の虚像を演じている。 隔離が始まってからというもの、宮殿は巨大な墓標のように静まり返っていた。廊下を過る足音も、遠くで響く蒸気の噴出音も、どこか現実味を欠いて聞こえる。
リョウカと過ごす時間は、今や一日のうちわずか五分程度にまで削ぎ落とされていた。 以前の彼女は、テキパキと仕事をこなし、アキトが言葉にする前に必要な書類を揃え、不備を先回りして修正する「完璧な右腕」だった。彼女との時間は、激流に揉まれるような忙しなさの中にも、ある種の機能的な信頼関係があった。
だが、今の彼女は違う。 扉の隙間から差し出される報告書を受け取り、死者数の推移という「冷たい記号」に目を通す。リョウカは常にアキトから数歩離れた位置に立ち、窓は真冬の冷気を招き入れたまま開け放たれている。 「……本日分です。目を通していただければ」 彼女の声にはもはや熱量も、国家の行く末を案じるような焦燥もない。ただ、アキトという「国家の資産」を無菌状態のまま維持するためだけに、完璧な機械として振る舞っている。署名が必要な案件すらなく、事務的な生存確認が終われば、彼女は音もなく去っていく。
その五分間という「冷たい現実」が終われば、アキトは自室という名の檻に引きこもるしかない。 そこには、妃であるミサキがいる。
アキトにとって、ミサキとの時間はリョウカとの仕事よりも遥かに心力を削るものだった。 ミサキの所作には、一切の淀みがない。 リョウカのように効率を求めるテキパキとした動きでもなければ、ミオのように感情を撒き散らすガチャガチャとした騒がしさでもない。強いていうなら空気感はサラに近いのかもしれない。だが、サラが隠しきれない「毒蛇の刺すような冷たさ」を纏っているのに対し、ミサキはどこまでも無害だ。 殺意も、打算も、欲望も感じられない。 消毒液の匂いが充満し、死者の報告書が積み上がるこの暗鬱とした世界で、彼女だけが「光」そのものとして存在している。その眩しさが、今のアキトにはどんな闇よりも不気味で、暴力的にすら思えた。
アキトはソファに深く腰掛け、手元の本に視線を落としたまま、視界の端で彼女を「観察」し始めた。これは、ある種の防衛本能だ。
ミサキは、窓際のテーブルで静かに刺繍をしていた。 アキトはページの端を無意味に指でなぞりながら、じっと彼女の横顔を盗み見る。 白磁のような肌に、長く伸びた睫毛。彼女は時折、針を止めて窓の外を見つめる。そこには中庭の冷え切った空気が漂っているはずだが、彼女の瞳には春の陽光でも映っているかのような穏やかさがあった。
アキトは本のページをめくるふりをして、再び視線をミサキに向けた。 すると、まるで予見していたかのように、ミサキがふっと顔を上げた。
「……カミシロ様?」
心臓が大きく跳ねた。アキトは慌てて視線を本に戻す。あまりの勢いに、本の背表紙がミリッと嫌な音を立てた。
「な、なんだ。何か用か」
「いえ……。視線を感じたものですから」
ミサキは小さく首を傾け、それから花が綻ぶような微笑みを浮かべた。 何を考えているかはわからない。だが、彼女が「アキトと過ごす時間が増えたこと」を肯定的に捉えていることだけは、その声のトーンから伝わってくる。思えば「アキト」になってからミサキと二人きりで過ごす時間は限られていた。ちゃんと顔を合わせるのは夕食の時だけ。その時でさえまともな会話はない。
もっと話すべきだ。だが、アキトにはその勇気がない。 彼女が優しく近づこうとすればするほど、自分の中の「偽物」が暴かれそうで、反射的に防衛本能が働いてしまうからなのか。いや。それだけでは説明がつかない。ミサキは出会った瞬間から苦手だった。執務室で書類と格闘している時。国のいく末を決めてしまうような決断が迫られた時。自分は将軍アキト・カミシロという偽りの姿を鎧に着る。その仕事をまっとうにこなせば、殺される心配はない。
自室でミサキの前にいる自分もまたアキト・カミシロだ。だが将軍としての鎧を脱ぎ捨て、人として、夫としての振る舞いが求められる。アキトには異性と恋仲になった経験がほとんどない。それはまるで、恋愛経験の乏しい男子高校生が、クラスで一番綺麗な女子と二人きりにされた時のような、情けない狼狽だった。
「……茶を淹れましょうか」
「あ、ああ。頼む」
ミサキが立ち上がり、音もなくアキトの傍に歩み寄る。 彼女がカップを置く際、ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐった。あまりの至近距離に、アキトは思わず息を止め、身体を硬直させる。
「熱いので気をつけてください」
「ありがとう。」
カップを置いてもミサキはその場を離れようとしない。飲まず、本も読まず、ただ目の前のカップを凝視しているアキトを不思議そうに見つめていた。
「ふうふうしましょうか?」
「いや、いい。」
反射的な反応だった。すぐ振り返るとミサキは小さく礼をし、どこか姿が見えないところに消えた。
顔が燃えるように熱くなる。よかった。こんな情けない姿を見られずに済んだ。
ふうふう。隙がなく完璧だと思っていた妃の口から出たあの言葉に完全に不意をつかれていた。あまりにも間の抜けた言葉の響き。その可愛さに思わず口角が上がってしまう。
反射的な否定は経験の少なさから来るものだった。後ろめたさに苛まれる。傷ついてないだろうか。もっと嫌われてないだろうか。
どこかに消えてしまったミサキの気配を探りながら、そっと呟いた。
「してもらったらよかったな。ふうふう」
いつか経験した長く孤独な隔離の日々。
しかし、例えそれがミサキであったとしても、誰かがそばにいてくれる。アキトはカップにそっと手を当て、その温もりを感じた。




