第44話
隔離が始まってから、数日が過ぎた。 宮殿の中の日常が、劇的に崩壊したわけではない。むしろ、世界は不気味なほど「いつも通り」を演じようとしていた。
アキトは執務室に籠もり、山積みの書類を捌く。対面に座るリョウカも、淡々と筆を動かしている。 だが、その距離はいつもより数歩分、遠い。
真冬の冷気が、僅かに開けられたままの窓から入り込み、書類の端をパタパタと震わせる。換気という名目のもとに招き入れられた寒さが、二人の間に透明な壁を作っていた。
扉の向こうからは、廊下を鋭く見張るミオの気配が伝わってくる。 見えない敵——目に見えぬ病魔、あるいは「外」の空気を持ち込もうとする不届き者——からアキトを守るため、彼女は以前にも増して一振りの研ぎ澄まされた刃のようになっていた。
廊下に出れば、人影はさらに疎らになった。中庭の向こうに見える宮殿の正門は、巨大な鉄の塊となって固く閉ざされている。かつては一日に何度も響いた門の開閉音は、もう何日も聞こえていない。
「……今日の献立です」
運ばれてきた食事は、驚くほど質素なものに変わっていた。
大陸全土を襲う飢饉に加え、経済活動そのものが凍りついたのだ。物資の流通は止まり、市場からは音が消えた。
皮肉なことに、宮殿には外出せずとも数ヶ月は耐えられるだけの食糧庫がある。本来、民に放出するはずだったその備蓄も、人の往来がなくなったことで、石造りの冷たい闇の中に閉じ込められたままだった。
さらに数日が過ぎる。
世界の鼓動が、だんだんとゆっくりになっていくのを感じた。
執務室に届く報告書の数が、日に日に減っていく。あれほど激しかった西部戦線の報告すら、今は途絶えた。戦争という巨大な暴力ですら、この音もなく広がる「死の斑点」の前には、膝を折るしかなかったらしい。
やがて、デスクに届く紙束は、国内の死者数だけを記したものになった。
飢饉による餓死者の数は、日を追うごとに跳ね上がっていく。それに比べれば、感染症による死者の増加はまだ緩やかだ。だが、それは決して「止まった」わけではない。暗闇で着実に根を張る植物のように、一歩ずつ、確実に宮殿の喉元へと這い寄ってきていた。
高い壁に隔てられた宮殿と、死の影に覆われた外の世界。
アキトは、ペンを置き、冷え切った自分の指先を見つめた。ここには清潔なシーツがあり、温かいスープがあり、静寂がある。
何事もなかったかのように。
まるで、世界など最初から存在しなかったかのように、美しい日常だけが続いていた。




