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第43話

 石灰と石炭酸を混ぜたような、鼻を突く消毒液の匂いが、重厚な執務室の空気を侵食していた。  


アキトは、机の上に広げられた大陸地図の一点……東部、西ルガン共和国とカカ王国との国境付近を、穴が開くほど見つめていた。


「……カカの主要都市は、機能を停止しました。確認された死者は、万を超える勢いのようです。」


伝令の声が震えている。その恐怖は、アキトの肌にも冷たく伝わってきた。伝令の報告によれば、感染した者は高熱にうなされ、付け根が異様に腫れ上がり、全身に黒い痣が広がるとのことだった。この痣が出たら最後、数日のうちに死に至るという。


「例のジャガイモの伝染病……植物の病が、人へ変異した可能性は?」


「可能性は低そうやな」


 リョウカの問いかけに対して、部屋の隅からサラの声が響いた。いつからそこにいたのか、彼女は壁に背を預け、退屈そうにバインダーに入った何かの書類の束をパタンと閉じた。その瞳には隠しきれない疲労の色があった。


「うち、ジャガイモ飢饉の現場を一通り見て回ってきたんやわ。確かにジャガイモの葉っぱにも、今回みたいな不気味な斑点が出てはる。……やけどね、ジャガイモ飢饉の方はほぼ同時期に、国全土へ一気に広まりはったんよ。


やのに、この病気にかかってはる人は、みんなカカとの国境沿いの人らばっかりや。病気の特徴は合うてるし……ジャガイモの病気と、人に感染してはる病気は、別もんやって見て間違いないやろねぇ


サラは一歩、机に歩み寄った。


「テレビの画面、さっきからあっちの騒ぎばっかり映してはるわ。アウリスまでもう火の車みたいやね。あっちの偉いさんらも必死に足掻かはるけど、全然効果あらへんみたい。……ふふ、見てる分には、ちょっとした喜劇やわぁ」


「対処法は、ないっていうことだな」


「強いて言うんやったら、どうも感染は人伝い(ひとづて)みたいやね。一定時間近くにいたらあかんのんか、体に触れたらあかんのんか……そこまでは、うちもよう分からへんけど。

でもね。ほな、近づかへんかったらええんちゃうかな。かかってしもた人は、もうどうしようもあらへん。……でも。かかった人を『助けはらへん』かったら、犠牲は最小限で抑えられる。……かもしれへんねぇ」



「……西ルガン国内の感染者は?」


伝令が答える


「将軍様…私が発った時点では10人ほどでした」


沈黙が流れた。10人。一見少ない数字だ。だが、レイジ、キタハラ村長。そして反乱を起こした村人たちの顔が浮かんだ。ゲームであればただの数字だ。だが、短期間に死を何ども目の当たりにしたアキトにははっきりとその命の重みが感じられた。だが飢餓に瀕しているのは国民全員だ。


「まだ、初期だ。飢饉はもう目の前まで来ているんだ。本格的に拡大する前に農民たちを見舞うことはできないか?数日だけでいいんだ」


「なりません」


「西部はダメなら東部に行く。それならばまだ感染者は出ていないだろう」


リョウカは少し考え込み、そして話し始めた。


「将軍様をはじめとする宮殿のもの。そして兵が共に汗を流せば現場の士気は確かに上がるでしょう。」


「ならば…」


「ですが、この病気は未知のもの。感染の条件も、速さも予想がつきません。この国の最高責任者であらせられる将軍様を無用な危険に晒すには、あまりに利がなさすぎます。」


アキトは反論しようと口を開き、そして、何も言えずに閉じた。 士気は形もなく、上がっても直接関わることができる数少ない地域に限られる。リョウカが正しかった。


「… わかった。中庭に集まっている全員に伝達してくれ。農村への支援は中止。それぞれの持ち場に戻らせよう」


未練がぎゅっと心臓を締め付けた。その間にも対策に関する議論は続いている。


「もし感染源が国の外やいうことやったら、西側の国境も完全に閉ざしてしもたら、感染の広がるんを遅らせられるかもしれへんねぇ」


「ですがシノミヤ局長。国境を閉ざせば支援物資が止まります。飢饉の深刻さはさらに増すでしょう」


「あとは、将軍さんの判断やねぇ……」


議論を聞きながら、かつての日常で、テレビの向こう側の惨状を眺めるしかなかったあの日の無力感が、今の自分を支配していた。あの時はただの一人の国民に過ぎなかった。だが今は国の最高責任者として、決めなければならない。より多くの人が助かる道を。そして、その決断の結果さえも。沈黙が20分続いた後、アキトはその決断を下した。


「……国境を封鎖しよう。もしこの感染病が最悪のものなら、国の外の活動も止まる。そうすれば支援物資どころの話ではない。どのみちすぐ止まるものだから諦めよう。次に隔離を徹底しよう。各自の接触を最小限に。不急の外出を禁ずると国民に伝えてくれ」


その指示を受けて、リョウカは立ち上がり、一礼して部屋から退出した。サラと視線が合うと意味深に微笑み、おどけたように一礼をして出ていった。


中庭に集まっていた人員に「解散」が告げられた音が聞こえる。  執務室の窓越しに、階下の中庭から微かに声が漏れ聞こえてきた。本来の仕事に戻れる安堵。感染地域に行かずに済む安心の声だったのかもしれない。だが、アキトの耳には将軍の出陣を今か今かと待っていた兵士や民たちの、隠しきれない落胆の溜息にも聞こえた。


本当にこれでよかったのか。一人取り残された執務室で自問する。何百、何千回と歯車が回転する音を聞きながら廊下に充満する消毒液の匂いが、段々と強くなるのを感じた。


隔離が始まったのだ。

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