第36話
ペンを走らせる音、書類をめくる音。 アキトは執務机に向かい、完璧に「将軍」という公務をこなす機械……いや、巨大な国家機構を回すための「歯車の一部」になりきっていた。
感情を殺し、言われたことをただやる。 かつての世界でサラリーマンとして働いていた頃を思い出す。あの閉塞感、無力感。 アキトはかつて、その絶望に耐えかねて、自ら人生の盤面を投げ出した。一度は「投了」を宣言した身だ。
一度は捨てた命、もう一度終わらせることに躊躇う必要がないはずだ。 だが、この宮殿を支配する、あまりに生々しく暴力的な「死」の気配が、アキトの生存本能を無理やり叩き起こしていた。ここでは死は救済ではなく、ただの「処理」に過ぎない。その無残な結末への恐怖が、皮肉にも彼の思考をかつてないほど鋭敏に走らせていた。
書き残すことはしない。それは自分を絞め殺す証拠になる。 だから、ただ淡々と数字を処理しながら、頭の中だけで一人、自分を取り巻く四つの「死」を反芻していた。
(まずは、リョウカ……) 彼女が向けるのは、愛情などではない。この「西ルガン」という歪な体制を維持するための、純粋で狂った忠誠だ。もし自分が裏切り者だと発覚したとき、彼女は今日と全く同じ平然とした調子で、自分の処刑を兵士たちに命じるだろう。その瞳に、一瞬の揺らぎも浮かべないまま。
(そして、ミオ……) あの少女にあるのは剥き出しの感情だけだ。一緒にいるリョウカに対してすら敬う素振りを見せない。反乱を起こした村人たちに見せたあの底知れない怒りが、もし何かの拍子に自分に向けられた瞬間、あの電子を帯びた刃は躊躇なく自分の喉を撥ねるだろう。
(……ミサキはどうだ) そもそも、彼女は本当に「妃」なのか? 言葉を頻繁に交わすわけでもない。夜を共にすることもない。転生して以来、彼女との関わりといえば、安全な外出先への同行と、あの胃の痛くなるような食事の席だけだ。 妃らしいことは何一つせず、ただ静かに佇む彼女。あの沈黙は刺し殺すチャンスを窺っている「刺客」なのか。それとも「監視の目」なのか。
監視といえば、サラだ。 あの女は、自分の言動のすべてを把握している。だが、なぜだ? どこから情報が漏れている? 執務室の外に立つ衛兵か? 廊下ですれ違う使用人か? それとも、あの音もなく茶を運んでくる給仕の中に、サラの間者が混じっているのか? あるいは……食事の席で対極に座る、ミサキがやはりサラの手先なのだろうか?
(誰もが、怪しく見える……)
視線を上げれば誰とも目は合わない。だが、外せば視線が刺さる。 執務室の壁に彫られた瞳の紋章すら、本物の「目」として自分を覗き込んでいるような気がしてならない。
(……レイジ。君は、こんな中で生きていたのか)
唯一の味方だったレイジの顔が浮かぶ。 彼には一切の闇を感じなかった。あの屈託のない笑顔はこの四人の影が交差する地獄の中でどう生きて来たのだろうか。そして、彼の死についていまだに詳細がわからない。偶然死んだわけではない。明確な意図を持って殺された。まさか……この中の誰かに殺されたのか?
誰が犯人であってもおかしくない。 リョウカの忠誠のためか、ミオの理不尽な暴力か、ミサキの隠された殺意か、あるいはサラの謀略か。 その答えを知ったとき、自分もレイジと同じ末路を辿るのではないか。
「……カミシロ様? ペンが止まっておりますが」
リョウカの冷ややかな声に、アキトはハッと我に返った。
「……いや、少し考え事をしていた。続ける」
アキトは再び、インクの切れたペンを書類に走らせた。 盤面を頭の中で並べ、情報を整理する。悟られないようにしながらも突破口を探る。
そんな中なんど消しても「投了しますか」、というゲームの画面が頭の中にちらついた。




