第35話
深夜の冷気を孕んだまま、機械車が宮殿の車寄せに停車した。 蒸気機関の残響が消えると、耳に痛いほどの静寂が辺りを支配した。アキトは鉛のように重い体を引きずり、車外へ出る。
「……おかえりなさいませ。将軍様」
月明かりの下、リョウカが待っていた。 感情を排した副官としての立ち姿。彼女は取り乱すことも、声を荒らげることもない。ただ、夜の闇に同化したような暗い瞳でアキトを見据えていた。
「護衛も連れず、このような深夜まで。……心配いたしました」
「心配した」という言葉。しかし、その声色には一欠片の体温も宿っていない。それは「最高指揮官の紛失」を危惧した、管理者の事務的な確認のように聞こえた。
「……すまない」
「どこに行かれていたのですか。宮殿を出たという報告はありましたが、行き先が不明でしたので」
淡々と、逃げ道を塞ぐような問い。アキトが言葉を詰まらせた瞬間、背後の闇から別の声が響いた。
「近くの森やわ、リョウカちゃん」
サラだった。 彼女はいつの間にかアキトの数歩後ろに立っていた。いつものように持っていた書類をパタンと閉じると、眠そうにあくびをした。
「将軍さん、月が綺麗やし言うて、お散歩してはったみたいやわ。ほんま、気まぐれな猫ちゃんみたいなお人やねぇ」
サラはアキトに視線を送ることなく、淀みなく嘘を上書きした。アキトは背中に冷や汗が流れるのを感じた。サラが「森」と言った瞬間、あの村での出来事は、彼女と自分の二人だけの「秘密」として密閉されたのだ。
リョウカは、サラの言葉を疑う素振りも見せず、ただ静かに頷いた。
「……左様ですか。情報局が同行していたのであれば、安堵いたしました。ですがカミシロ様、次からもしお出かけの際は、必ず私か護衛の者に一声お掛けください。我々には、閣下の身を守る義務がございますので」
「……ああ」
「義務」という名の監視。アキトは小さく頷き、逃げるように宮殿の奥へと歩を進めた。
背後でミオが「なーんだ、お散歩かー」と拍子抜けした声を出すのが聞こえたが、振り返る気力もなかった。
自分の寝室へと続く廊下。 そこには、ミサキがいた。 食堂でのあの混乱などなかったかのように、彼女は完璧な姿勢で控えている。泣き腫らした跡も、乱れた髪もない。ただ、感情を一切削ぎ落とした、優雅で美しい「人形」のような微笑を湛えていた。
「……おかえりなさいませ、将軍様。お休みになれるよう、お召し替えの準備を整えております」
その隙のない所作。先刻、ナイフを見て取り乱した自分を、彼女はどう見ているのか。アキトにはそれが分からない。いや、分からないこと自体が恐怖だった。彼女が何を考えているのか、誰に報告しているのか、その微笑の裏にどんな殺意を隠しているのか。
「……ああ。」
「では、失礼いたします」
ミサキは一度だけ優雅に一礼し、静かに去っていった。その足音すら、アキトの耳には自分を追い詰めるメトロノームのように聞こえた。
自室の重い扉を閉め、鍵をかけた瞬間、アキトはその場に崩れ落ちた。 部屋は静かだった。だが、今の彼には、壁の装飾すら自分を監視する「目」に見えて仕方がない。
宮殿という名の籠、あるいは針の筵。 アキトは震える手で顔を覆った。自分が「良かれ」と思って行動すればするほど、自分を取り巻く「西ルガン」の網は、より強固に、より冷酷に、自分を締め付けてくるように感じた。




