第34話
アキトの心臓は、喉のすぐ裏側で鳴っているようだった。 「あんた……誰や?」 その問いが夜の静寂に溶けた瞬間、アキトは呼吸の仕方を忘れた。指先から血の気が引き、膝が笑い、月明かりの下で自分が透けて消えてしまいそうな錯覚に陥る。
否定しなければならない。だが、サラの射抜くような瞳を前にして、どんな嘘も喉に張り付いて出てこない。沈黙が、アキトの正体を雄弁に物語っていた。
どれほどの時間が流れただろうか。 不意に、サラがふっと顔を離し、何事もなかったかのように朗らかに笑い声を上げた。
「……あはは! ごめんて、そんなに怖い顔しんといて。冗談やんか。いくらなんでも、この国を統べる将軍様が、中身だけ全くの別人に入れ替わってはるなんて……。そんなん、現実離れしすぎてはるわなぁ」
サラは、ぱちんと指を鳴らした。その拍子に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
「ほんまにそんなことができるんなら、私にもそのタネ教えてほしいくらいやわ。私も仕事柄、変装はよぉするけど……あんたみたいに完璧に『将軍さん』になれるんならな」
アキトは、震える唇を開こうとしたが、やはり言葉は出なかった。 サラは彼を嘲笑うように、村長の家の壁に背を預け、長い足を組んだ。
「……僕を、どうするつもりだ?」
アキトの声は、自分でも驚くほど震えていた。この女が自分を告発すれば、明日の朝には断頭台の上だ。
だが、サラは意外そうに目を丸くすると、くすくすと鈴を転がすように笑った。
「あかんわぁ。そんなん言わはったら、自分から『偽物です』って言うてるようなもんやんか。変装は120点やのに、演技の方は……60点やねぇ」
「…」
「言うたやんか。あんたは声も姿も、完璧にアキトちゃんや。うちが何言うたところで、この国にあんたを裁くことなんてできひん。
でも、近しい人間に言うてみよか。……リョウカちゃん? あの子はアキトちゃんに忠誠誓うてはるけど、偽物やと気づかはったら……確実に処刑台に送る方法、見つけはるやろねぇ」
「やめろ…」
「それともミオちゃん? そっちの方が早いし、あんたは楽やろねぇ。命乞いする暇もあらへんうちに、頭飛ぶわ。……でもせっかくやし、縦に割いてもらおか。ちょっとでも苦しみが増すようにねぇ」
「やめてくれ…」
「ああ、ミサキちゃんでもよろしいね。あの子もこの国の立派な女の子やし。毎日出してもらうお茶、美味しいごはん……。どれに毒が入ってるか、あんたがビクビクしながら毎日過ごす姿、目に浮かぶわぁ。で、油断した時にナイフで……」
「頼む!もうやめてくれ!」
アキトが叫び、うずくまった。
「ええよ。その代わりあんたには戻ってちゃんと将軍さん演じてもらう。やめてくれとは言わせんで」
「……どうして僕なんだ。リョウカがいれば、国は回るだろ。……偽物の僕なんて、いない方がマシじゃないか」
「リョウカちゃんな。あの子は確かに賢いし、何でもしはるけど……あの子は『神さん』にはなれへんのよ。この国の荒くれもんを黙らせるんは、やっぱりその顔と、その声……『将軍さん』っていう絶対的な旗印やないとあかんねん」
「あれだけ幹部がいるんだ。この地域屈指の軍事大国なのだろう。僕は必要ないだろう」
「……お見事。ちゃんと言わはりますねぇ、いかにもこの国の人間らしい、立派な言い草。……けどなぁ。ほんの少しだけ、足りひんのよ」
サラはアキトの目の前まで歩み寄り、その瞳の奥を覗き込むようにして言葉を継いだ。
「この国の人ら、みんな口ではそう言わはるわ。そう言わんと何されはるか分からへんしねぇ。……でもね。頭の中も、心の中も……。みんな、分かってはるんよ」
彼女の声は、もはや嘲笑ですらなく、冷酷なまでの「事実」の羅列だった。
「ノヴァにカカ、それにダルク……あっちらはもう、住んではる世界が違うわぁ。西ルガンなんて、自分をちょっとでも大きく見せようと必死につま先立ちして、今にもひっくり返りそうな国。……ふふ、それがうちらの『国』の正体なんやわ」
軍事力。まともな倫理観に則った経済活動。国民が飢えないくらいの最低限の食糧供給。親身で自分のことを助けてくれる仲間たち。それらの牙城が崩れ、西ルガンを攻略可能なレベルに留める最後の要塞が脆くも崩れた。
「ホンマに頼むわぁ。うち、アキトちゃんのこと、これでもめっちゃ好きなんやもん。……せいぜい歯車焼きつかへん程度には、おきばりやす? やないと、うちが困るわぁ」
サラは、まるで恋人に触れるような手つきでアキトの頬を撫でた。 その指先の熱が、今の状況が現実であることを嫌というほど突きつけてくる。
「……」
「その代わり――」
ふっと、彼女の指が離れた。 夜風が急に冷たくなったように感じた。
「がっかりさせんといてな。この恋が醒めてしもたら……」
「うち、何するか分からへんしねぇ……」
急に温度の消えた、低い声。 そこには先ほどまでの茶目っ気など微塵もなかった。ただ、獲物を仕留める直前の蛇のような、冷徹な真顔があった。
「ほな、おうち帰ろか。奥さん泣かしたままなんは、男としてあかんわぁ。……それにリョウカちゃんもミオちゃんも、えらい心配してはったしねぇ」
サラは、アキトが宮殿で何を引き起こし、どうやって逃げ出してきたのか、そのすべてを最初から把握しているかのようだった。その事実が、どんな脅し文句よりもアキトを絶望させた。
「……追手が来ているのか」
「さあ。でも、はよ帰らんとあの子ら探しに来はるやろねぇ。……今のうちに帰って、『気分悪うなったし、外の空気吸いたかっただけや』とか適当な言い訳考えとき。……ねぇ?」
サラはひらひらと手を振り、闇の向こうへと消えていった。
光に照らされた村の広場に残された。 先ほどの脅し文句が耳に響く。きっとサラは僕をどこかで見張っているに違いない。逃げて宮殿に戻らなければ確実な死を迎えるだろう。宮殿に戻っても死。だが将軍アキト・カミシロを血も涙もなく演じれば、もうしばらくは生きられるかもしれない。
どうせ死ぬなら……
1日でも長く生きられる方がまだマシか……
恐怖に震えながらアキトは重い足取りで、待たせている機械車へと戻った。




