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第32話

不快な、金属の擦れる音がした。


耳の奥で、まだあのチェーン刃の咆哮が鳴り止まない。


『ガガガガッ』という、肉と骨を咀嚼し、熱線で焼き切るような不協和音。


アキトは、自分がいつの間にそこに座っていたのか、分からなかった。


視界の端がぐにゃりと歪んでいる。頭が重い。額には嫌な脂汗が浮き、こめかみを大型の歯車で締め付けられているような鈍痛が、心拍に合わせてドクンドクンと突き上げてくる。


「……様」


霧の向こう側から、掠れた声が聞こえた。


アキトは、泥の中から顔を上げるように、ゆっくりと視線を上げた。


無駄に長い、黒檀のダイニングテーブル。


その遥か向こう側、対極の位置にミサキが立っていた。


広すぎる食堂の静寂が、二人の間の距離を実際以上に遠く、そして異様に引き伸ばしているように感じられた。

彼女は、何かを言いかけて止まっていた。


アキトを見つめるその瞳には、射抜くような鋭さと、底知れない困惑が同居している。


ミサキは、口を開きかけて、閉じ、視線を微かに落とした。その沈黙が、アキトには永遠のように長く感じられた。


(何を、考えている……?)


アキトの混濁した思考が、恐怖を餌に加速する。


ミサキはいつも以上に言葉が少なかった。何かを慎重に選び、こちらの出方を伺っているような、その異常な「間」。


「…………将軍様。……お食事を」


ようやく発せられたミサキの声は、酷く硬かった。


彼女はそこから動かず、ただじっとこちらを見ている。


アキトは震える手で、手元のナイフを握った。自分の食事を口に運ぶためだけの道具。だが、今の彼には、それが自分を守るための唯一の武器であり、同時に、いつ自分を刺しに来るか分からない凶器に見えた。


ナイフの刃がシャンデリアの光を反射して、ギラリとアキトの目を焼く。


(あの刃だ。昼間に見た、あの光だ)


視界が真っ赤に染まる。


手の中の銀食器が、広場で老婆の首を撥ねたミオの電光を纏うチェーン刃と重なり、アキトの脳内で爆発した。


「――っ!!」


アキトは悲鳴にならない呻きを上げ、椅子を蹴立てて立ち上がった。


ガシャン、と床に叩きつけられたフォークが高い金属音を立てて跳ねる。その音が、アキトには処刑開始を告げる鐘の音に聞こえた。


「……っ、来……来るな! 近寄るな!」


「…………っ」


遠く離れた位置で、ミサキが身を竦めた。


彼女は何かを言い返そうとして、けれど唇を強く噛み締めて黙り込んだ。その「何も語らない」という不気味な空白が、アキトを恐怖のどん底に突き落とす。


その騒動を聞きつけた扉の向こうから、暴力的な足音が迫ってきた。


「カミシロ様!」


扉を蹴破るようにして飛び込んできたのは、ミオだった。


背負った機械剣からは、まだ焼けた肉の匂いが漂っている気がした。返り血を拭っただけの、空っぽの殺戮機構。


ミオが状況を把握しようとアキトに一歩踏み出し、その手を伸ばした瞬間。


「来るな……! お前も、誰も来るな!!」


「カミシロ……様?」


ミオの困惑した目。しかし、その瞳の奥には、昼間に見た「無感情な虐殺者」の影がはっきりと宿っている。


アキトは自分の頭を抱え、逃げるように食膳の間を飛び出した。


背後でミサキが何かを呟いた気がしたが、今の彼には、それが自分を死へと誘う呪文にしか聞こえなかった。


宮殿の廊下は、どこまでも長く、冷たかった。


将軍という立場は、皮肉なことに、このパニック状態の男をどこへでも自由に行かせてしまう。


「将軍様!」「ハッ!」


敬礼する兵士たち。その無機質な目が、自分を監視し、いつ背中から刺そうかと伺っている。


リョウカの元へは行けない。自分がこの「地獄」を拒絶したと知れば、あの女は何をするだろうか。


思考が、唯一の逃げ場を探して彷徨う。


(あの、村長なら)


いつか視察した村の、キタハラ村長。


あの時、自分の手を握り、「期待しています」と微笑んでくれたあの老人。


この狂った世界の中で、自分を「人間」として扱ってくれた、唯一の拠点。


あそこなら、この震えを止められるかもしれない。この地獄の歯車から、逃れることができるかもしれない。


アキトは深夜の厩舎に向い、運転手に機械車を強引に発進させた。


早く早く。


夜の闇を切り裂き、ただ一人の「人間」に会うために。


その希望が、自分の命を繋ぐ最後の一本鎖だと信じて。

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