強者の戦い
第九十八話
強者の戦い
胸に、何かが触れた。
そう思った瞬間、息が抜けた。
空気を吐いたわけじゃない。
胸の奥から、勝手に外へ流れ出た。
――あれ。
音が遅れて聞こえた。
風。
いや、違う。
風じゃない。体が――
足元が、無い。
理解する前に、身体が前へ持っていかれた。
重力という言葉を思い出すより先に、世界がひっくり返る。
視界が空になり、空が下になった。
胸が、熱い。
痛みかどうかも分からない。
何かが刺さった気がした。でもそれを確かめる余裕はない。
落ちている。
たぶん。
そう思った時には、もう下しかなかった。
声を出そうとしたのかも分からない。
肺に空気が入らない。
身体が回っているのか、真っ逆さまなのか、それすら曖昧だ。
――ああ。
そういえば、さっきまで誰かと話していた気がする。
濁将と。
それから、光。
次の瞬間には、もう空だった。
岩肌の上。
血の匂いが、遅れて広がる。
《……視線すらくれないのですね》
濁将の言葉にフィロは視線を動かさない。
落ちていくものに、目を向ける必要がないからだ。
《私がこの場を離れてからしばらく経つと言うのに
まだいらっしゃったんですか》
濁将の声は落ち着いていた。
空気が張りつめているのは確かだが、慌てた様子はない。
《そうだ。分体だとお前が教えてくれた》
短い返答。
その言葉の間にも、フィロの意識は一切揺れていない。
《そうでした。私は余計な事を話したがるタチでしてね》
自嘲気味に、濁将は続ける。
まるで雑談の続きをしているかのように。
《今度は、逃がさん》
その一言に、感情は含まれていない。
宣告でも、怒りでもない。
ただ、事実として置かれた言葉。
《困ったものです。今しがた逃げ道を消したところですからね》
濁将は軽く肩をすくめる。
冗談めかした仕草とは裏腹に、周囲の空気が静かに変わる。
一呼吸。
濁将の足元、岩肌が濡れた。
次の瞬間、そこから水の槍が生えた。
一本ではない。
十、二十――いや、数える意味がないほどの数。
槍は空気を裂き、一斉にフィロへ向かう。
だが、到達する前に――
フィロの姿が、そこに無かった。
距離が詰められた。
音もなく、加速も感じさせず、ただ在った距離が消えた。
濁将は即座に反応する。
口を大きく開き、肺ではなく魔力で吸い込み、
放った。
水弾。
それは槍とは比べものにならない質量を持ち、
空間を押し潰すように前へ進んだ。
フィロは身を屈める。
躱した水弾は背後の岩肌に直撃し、
爆発音と共に巨大な窪みを刻んだ。
その衝撃が収まるより早く、
濁将の体が――
左右に分かれた。
切り上げられたのだ。
光の剣によって。
血は出ない。
水も、肉も、内臓も、意味を持たない。
《私は切ったところで影響がないと言ったはずですが》
濁将の声は、上下に分かれた体の両方から聞こえた。
《知っている》
フィロの返答は短い。
だが、濁将は気づいた。
空気が――変わった。
フィロの手が、
まだ体の中心線に留まったままだった。
《終わりだ。濁将。》
その言葉が発せられると同時に、
光の魔力がフィロの周囲へ集約される。
背中に、
光の翼が広がった。
純粋な破壊の象徴。
逃げ場を消し、対象を抹消するためだけの形。
《これは……》
濁将の声が、ほんのわずかに低くなる。
《完全に油断しましたね。
人の学習能力が、ここまでとは……》
言い切る前に、
濁将の体が爆散した。
水でも、血でもない。
概念そのものが弾け飛び、霧のように消える。
静寂。
フィロは剣を下ろし、光の放出を止めた。
「濁将。
分体での戦闘が無ければ、苦戦していただろう」
それは勝者の嘲りではない。
強敵に対する、礼儀だった。
フィロは崖の縁へ歩み寄り、
下を見下ろす。
落ちていったものの姿は、もう見えない。
「これで、この領域は安全を確保できた」
その声が風に溶ける頃、
遠方の海に――
船影が見え始めていた。
一隻。
確実に、こちらへ向かってくる船。
その甲板には、
シェリス。
オリヴェット。
リラ。
三つの影が、並んでいた。
つづく




