隣にある力
第九十九話
隣にある力
落ちていた。
――そう理解するより先に、風が体を引き裂いていた。
空だ。
視界が白く流れ、音が遅れて追いついてくる。
胸が、熱い。
いや、違う。
重い。
息を吸おうとして、うまくいかない。
何かが詰まっているみたいで、空気が入ってこない。
そのとき――
衝撃。
身体が引き戻される感覚と同時に、
視界の端で影が重なった。
「――っ!」
少女の声だった。
腕が、背中に回る。
細いはずの腕が、必死に僕を抱き寄せる。
次の瞬間、
運び屋の背中に、強く叩きつけられた。
「離れるぞ!」
低く短い声。
運び屋は一気に高度を上げた。
島が、急速に遠ざかる。
「……危ないって、言ってたの……これか……」
少女の声は、まだ軽かった。
少し息を切らしながら、無理に落ち着こうとしている声。
「風向きが変わったって……だから、足を踏み外し……」
そこで、言葉が止まる。
「……え?」
手が、僕の胸に触れた。
次の瞬間。
「――血!?」
叫び声。
それだけで、運び屋は理解したらしい。
聞き返すこともなく、身体を捻り、進路を変えた。
島から、完全に離れる方向へ。
「おい、なんだこれ……血?
どこからだ……胸……?」
少女の声が震える。
「どうしたんだ、おい!
しっかりしろ! おい!」
声が、遠い。
胸が、冷えていく。
「落ち着け」
運び屋の声は低く、強い。
「血が出てるなら抑えろ。
できるだけ揺れないように飛ぶ」
風が変わる。
揺れが、嘘みたいに減った。
「急げ。
何か布で傷口を押さえろ」
「わ、わかった!」
少女は慌てて荷物を探り、
取り出した布――浴衣を、胸に押し当てた。
ぎゅっと。
「……ダメ……
全然止まらない……」
声が、かすれる。
「止まらない……止まらない……!」
「落ち着けと言った」
運び屋の声は変わらない。
「治療できるところにアテがある。
とにかく、少しでもいい」
空気を切る音だけが続く。
「そのままより、ましだ。
傷を押さえろ」
一拍。
「……お前に、かかってる」
少女の呼吸が乱れる。
「……っ」
涙が、僕の頬に落ちた。
「……おい……」
声が、近いのか遠いのかわからない。
「お前……
まだ、やることあるんだろ……」
震える声。
「約束……しただろ……
一緒に、空に……」
風が冷たい。
「……まだ……
知らない事……いっぱいあるだろ……」
喉が、詰まる。
「なあ……
なあ……」
意識が、白く滲む。
空が、遠ざかる。
――でも、落ちてはいない。
誰かに、必死に繋ぎ止められている。
それだけは、
はっきりと、わかった。
「……雲の上まで行くぞ」
運び屋の声が、風を切って届く。
「隠れるためだ。
空気が薄くなる――深く呼吸しろ」
身体が、さらに上へ引き上げられる。
空が、遠くなる。
「私はできるけど……」
少女の声が、焦りを帯びる。
「こいつはどうするんだ」
一瞬の間。
「行き先が見つかると、もっとまずい」
運び屋の声は淡々としている。
「どうにかしろ。
お前にかかってると言ったはずだ」
その言葉に、
少女は一度、息を止めた。
――そうだ。
一瞬で、何かが繋がった。
「……私が、呼吸すればいいんだ」
理屈じゃない。
考えたわけでもない。
ただ、
自分ができることを選んだだけだった。
少女は大きく息を吸い込む。
胸いっぱいに、空気を溜めて。
迷いはなかった。
唇が、触れた。
――温かい。
次の瞬間、
空気が送り込まれる。
肺が、無理やり押し広げられる感覚。
咳も、反射も、起きない。
意識が、そこまで辿り着いていない。
もう一度。
少女は深く息を吸い込む。
さっきよりも、落ち着いて。
「……そうだ」
自分に言い聞かせるように。
「私が……
お前の力になるって……約束したんだ」
再び、唇が重なる。
空気が、流れ込む。
少女の呼吸は荒い。
それでも、迷いはない。
三度目。
四度目。
そのたびに、
少女はしっかりと息を吸い込み、
確実に、空気を送り込んだ。
風の音が、少しだけ変わった。
雲が、近づく。
「……よし」
運び屋の低い声。
「そのままだ。
揺らすな」
白い霧が、視界を覆う。
空も、島も、すべてが隠れていく。
少女は、額を主人公の額に当てたまま、
小さく息を整える。
「……大丈夫だ」
誰に言ったのかは、わからない。
「まだ……終わってない」
雲の上で、
三つの影が、静かに消えた。
つづく




