風の帰るところ
第百話
風の帰るところ
意識が、浮かび上がってくる。
闇の底から引き上げられるような感覚じゃなかった。
ただ、夜の中で目を開けた、そんな自然さだった。
……重い。
胸の奥が、鈍く痛む。
息を吸おうとして、
そこでようやく、自分が横になっていることに気がついた。
天井がある。
石の、古い天井。
視線をずらすと、窓が開いていて、
そこから夜風が入り込んでくる。
冷たい、けれど懐かしい風。
「……」
声を出そうとして、やめた。
喉が乾いているのもあるけど、
それ以上に、この空気を壊したくなかった。
胸に、違和感がある。
ゆっくりと視線を落とす。
服の下、胸の中心に、
包帯の上からでも分かるほどの治療の痕。
……ああ。
思い出す。
光。
衝撃。
空。
そして、落ちていく感覚。
「……」
視線が、自然と横へ向いた。
そこに――
小さな体があった。
毛並みの柔らかい、
白い耳。
静かな寝息。
ハク族の赤子だった。
……いや。
もう、「赤子」じゃない。
胸元で丸くなって眠るその姿は、
幼い子供のものだった。
「……この子……」
声に出さずに、名前のない言葉を転がす。
そうか。
時間が、経っている。
その子の体温が、
じんわりと伝わってくる。
胸の痛みと、同じくらいはっきりとした、
生きている温もり。
ふと、反対側に気配を感じた。
椅子がある。
そこに、
少女が座っていた。
背もたれにもたれかかるように、
そして、僕の肩に寄りかかるように。
眠っている。
深く、静かに。
顔には、緊張の名残があって、
それでも、今は完全に力が抜けている。
……ああ。
胸の奥で、
いろんなことが、静かにつながっていく。
ここは――
「……砦……」
名もなき砦。
僕が、初めて
知識で生活を支えた場所。
主任がいて、
守護者がいて、
ネム族がいて、
ハク族がいて。
そして、
運び屋が、いた。
「……そうか……」
運び屋が、ここへ運んだ。
あの空から。
あの島から。
視線を、再び窓へ向ける。
夜だ。
静まり返った砦。
灯りは最小限で、
見張りの火だけが、かすかに揺れている。
全部、変わっていない。
それなのに――
胸に残るこの傷だけが、
確かに続きを生きている証だった。
僕は、息を整えた。
起き上がろうとはしない。
ただ、
この場所に戻ってきたことを、
ゆっくりと受け入れる。
肩にかかる重み。
胸元の温もり。
夜風の冷たさ。
「……戻ってきたんだな……」
誰にでもなく、
心の中でそう呟いた。
朝だった。
差し込む日差しで、僕はゆっくりと目を覚ました。
夜に一度、意識は戻っていたはずなのに、
その記憶は霧のように薄く、輪郭だけを残して消えている。
隣を見る。
少女の姿は、もうなかった。
代わりに、
ハク族の子供が、僕の懐に丸くなって眠っていた。
小さな体温。
確かめるように、僕はそっとその背を撫でる。
それだけだった。
子供は、嬉しそうに喉を鳴らした。
くるくると小さく身じろぎして――
ふと、何かに気づいたように目を開く。
そのまま、じっと僕を見る。
……ああ。
僕はつい、口にしていた。
「おはよう」
すると、子供はぱっと顔を明るくして、
「おにいちゃん、おはよう」
元気よく、そう返してきた。
――話せるようになったのか。
一瞬、驚いて、
それから思い出す。
ハク族は成長が早い、
誰かが、そんなことを言っていた。
挨拶を終えた子供は、
嬉しそうに鼻先を僕にこすりつけてくる。
……大きくなっても、あまり変わらないな。
そう思いながら、もう一度撫でた。
その時だった。
子供の声につられたのか、
部屋の外で、気配が動く。
すぐに、戸が開いた。
影がひとつ、室内に入ってくる。
僕は反射的に、そちらを見た。
主任だった。
驚いたような顔。
それから、ほっとしたような表情。
いろんな感情が入り混じったまま、
主任は僕を見つめている。
「……主任」
僕の口から出たのは、それだけだった。
主任は、
何か言おうとして、いったん口を閉じる。
言葉を選ぶように、
少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「――おかえりなさい」
その一言が、
胸の奥に、すとんと落ちた。
……少し、照れくさい。
僕は、そんなふうに思いながら、
その言葉を受け取った。
主任は、僕の横に腰を下ろした。
手際よく包帯をほどき、
新しいものに取り替え始める。
「もう、どこかから取ってこなくてもね」
淡々と、けれどどこか誇らしげに言う。
「砦で作れるようになったのよ」
包帯を当てながら、続けた。
「みんな、あなたの残した知恵を
ただ使うだけじゃなくて、
ちゃんと自分のものにしようと努力してきたの」
「……僕が?」
思わず、そう聞き返していた。
主任はうなずく。
「そう。繋ぎ手。
あなたが繋いだ結果よ」
少しだけ、間を置いて。
「時間はかかったけどね。
今はこうして、生活が安定しているわ」
僕は、視線を落とした。
「僕は……ただ、読んだだけです」
言葉を選びながら続ける。
「頑張ったのは、みんなです」
主任は、包帯を巻く手を止めずに答えた。
「だから、繋ぎ手なのよ」
「……?」
「みんなから、あなた自身の働きを
直接求められていないってこと」
そう言われて、少し考える。
「……そう思われてたんですね」
「ええ。でも、役割って、そういうものだから」
その言葉に、
妙に、腑に落ちた。
包帯が、慣れた手つきで巻き直される。
さっきまで感じていた締め付けが、嘘みたいに和らいだ。
「……主任が、一晩面倒を見てくれたんですか」
ふと浮かんだ疑問を、そのまま口にする。
主任は片付けをしながら、さらりと言った。
「十四……いえ、今日で十五の朝ね」
思わず息を呑み、
胸を押さえて身をすくめる。
「まだ動ける状態じゃないわ」
主任は、少しだけ声を強めた。
「生き残れるかどうか、
本当に、そんな状態だったのよ」
そして続ける。
「歩けるようになったら、シャル族に感謝しておきなさい」
「彼らが、よく効く薬草を見つけてくれたから
今こうして、生きているの」
……シャル族。
砦にいた頃、
話したことはほとんどなかった。
いつも壁の上で、見張りをしているだけの存在。
「……わかりました」
そう言いながら、胸を押さえる。
主任は、その様子を見て首を傾げた。
「きつかったかしら」
「……さっきより、かなり楽です」
正直に答える。
「きつかったので」
そう言うと、主任は小さく息を漏らした。
「まだ、あの子には早かったかしらね」
「重症の繋ぎ手の包帯巻き」
――あの子。
すぐに、顔が浮かぶ。
「あの……一緒にいた少女は……」
思い出したように尋ねた。
主任は、窓の外に目を向ける。
「あなたが寝ている間、
ずっとこの砦の仕事を手伝っていたわ」
「その間にね、
手当の仕方、薬草の選び方、治療の方法……」
「いろんな人に聞いて、回っていたわ」
……僕が倒れている間に。
「あなたは、今は寝ていなさい」
主任はそう言って立ち上がる。
「いずれ、あちらから来るわよ」
扉に向かいながら、振り返る。
「動くのはだめ。でも、本を読むくらいならいいわ」
そう言い残して、部屋を出ていった。
気づけば、
ベッドの横の机に、何冊かの本が置かれていた。
ハク族の子供を懐に抱えながら、本を開いていた。
項目に目を向けて、ほんの少し――
そのときだった。
どたどたどた、と荒々しい足音。
僕は反射的に先のことを考え、
子供を胸に抱き寄せる。
ハク族の子供は、状況も知らず、
嬉しそうに体を預けてきた。
次の瞬間、
勢いよく扉が開いた。
息を切らし、
今にも泣き出しそうな目をした少女が立っていた。
「お前……!」
一歩、また一歩と近づきながら、
「起きた。起きたんだな」
「ゴーストじゃないよな。
アンデッドじゃないよな」
そう言いながら、
僕の腕、肩、背中、胸――
あらゆるところを触り、叩く。
納得したように、
少女は胸をなでおろした。
顔を伏せたまま。
「……無事でよかった」
「ほんとに」
その声が、少し震えていた。
ぽたり、と
床に落ちる水滴に気づいて、
僕は自分の状態をなんとなく察した。
「さっき主任が言ってた」
「まだ動けないけど、
いずれ歩けるようになるって」
少女は、伏せた顔を服で拭い、
顔を上げた。
「そっか」
「……よかったな」
なんでもないような笑顔。
「うん」
僕も、安心して少し顔が緩む。
ハク族の子供も空気を察したのか、
小さく喉を鳴らした。
しばらくして、
少女が思い出したように言った。
「そうだ」
「お前、ここじゃ
“繋ぎ手”って呼ばれてるんだって?」
「そう」
「でも、あんまり期待されてなかったみたい」
話題を作るような、
軽い返事。
少女は即座に首を振った。
「それ、お前だけが思ってるだけだぞ」
「みんな、お前が教えてくれたこと、
ちゃんと大事にしてた」
それを聞いて、
悪い気はしなかった。
「それとな」
少女は少し間を置いてから続ける。
「お前が治るまで、
迷惑かけないようにって思ってさ」
「いろんなところ、手伝ってたら――」
立ち上がり、
少し胸を張る。
「私も、もらった」
「役割」
僕は、その空気を察して聞いた。
「……どんな役割?」
少女は一瞬だけ間を置いて、
「“支え手”だってさ」
支え手。
いろんなところを手伝った結果だろう。
「ここらしい付け方だね」
そう言うと、
少女は少し照れたように視線を逸らした。
あっという間に、砦の一員だ。
少女――いや、支え手が
どれだけ動き、どれだけ考え、
どれだけ踏ん張ったか。
その名前だけで、
僕には十分、伝わっていた。
つづく




