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油断とは無縁の精神

第百一話

油断とは無縁の精神


濁将を始末した、その直後。


フィロは岩の割れ目の縁に立ち、眼下を見下ろした。

はるか下――入り江に停泊する一隻の船が、点のように見える。


一瞬、ためらいもなく踏み出す。


身体が宙に放り出された。


 


落ちる。


ただ、落ちていく。


 


風が、遅れて追いついてくる。

耳元で唸り、外套をはためかせ、髪を後ろへ引きちぎろうとする。


それでも、地面は遠い。


時間が、異様に長く感じられた。

落ちているという感覚よりも、終わらない静止に近い。


海面が、少しずつ大きくなる。

船の輪郭が、ゆっくりと形を持ち始める。


甲板に立つ三人の姿が見えた、その時――


 


ストン


 


乾いた音。


衝撃は最小限だった。

まるで最初からそこに立っていたかのように、フィロは甲板に降りていた。


「――この列島の安全は確保した」


淡々とした報告。


「残党は、警備と地域兵で十分だろう」


リラが息を呑み、すぐに問い返す。


「……倒したんですか。濁将を」


フィロは短くうなずいた。


それを見て、シェリスが鼻で笑う。


「どうせまた分身体とかだろ。また出てくるんじゃね?」


フィロは即座に否定も肯定もしなかった。


「その可能性は否定しない。

 だが、二度に渡って殲滅した」


視線を海へ向けたまま、続ける。


「少なくとも、しばらくの間はこの海域に姿を現すことはないだろう」


オリヴェットが、風の流れを読むように空を仰いだ。


フィロはその様子を見て言う。


「オリヴェット。

 今回は最大の脅威を排除した」


「空の魔族については、いずれ巣を叩けばいい。

 今、追う必要はない」


オリヴェットはその言葉に深くうなずき、何も言わずにフィロの手を取った。


その仕草に、リラが気づく。


「……フィロさん。その血」


フィロは手を軽く返した。


「ダメージですか?」


「いや」


フィロは即答した。


「亜人に対して、光の剣で誤って突いた。

 指が刺さった際に、返り血をもらっただけだ」


「亜人……?」


リラが首を傾げる。


「こんな小島に?」


「濁将の近くにいた」


フィロは淡々と答える。


「何か利用価値があったのだろう。

 この高さから落ちた以上、問題はない」


リラは一瞬だけ考え、それから頷いた。


「一応、洗浄します。

 亜人とはいえ魔族です。

 フィロさんの繊細な指に、影響が残る可能性もあります」


「頼む」


フィロは即答した。


「些細な影響が、次の戦闘に出るようでは問題だ」


船はゆっくりと進路を変え、島影を離れていく。


背後で、切り立った岩山が静かに遠ざかっていった。


大きな港を抱えた交易都市の夜は、

遅くまで完全には静まらない。


遠くで波が桟橋を叩く音、

荷の積み下ろしを終えた船がきしむ音が、

薄く重なって宿まで届いていた。


部屋の奥では、シェリスが大の字で爆睡している。

オリヴェットも同じく、椅子に座ったまま眠りに落ちていた。

二人とも、戦いのあとの疲労に素直だった。


灯りの下に残っているのは、フィロとリラだけ。


卓の上には、地図、報告書、引き継ぎ用の資料。

インクの匂いと、紙を擦る音が、夜を占めている。


リラがふと顔を上げ、フィロの手元に目を留めた。


「フィロさん。

 もう私の回復魔法で治療してますし

 ……手の包帯、取っても大丈夫ですよ」


フィロはペンを止め、自分の指を一度だけ動かして確かめる。


「うむ。痛みも痺れもない」


それでも、包帯には手を伸ばさなかった。


「だが、念のためだ。

 一晩は保護しておく。不意に負担をかけないよう、今日は残す」


「……慎重なんですね」


「戦場では、慎重すぎれば仕損じる」


フィロは書類に視線を戻したまま続ける。


「だが、休息の間に慎重すぎて損をすることはない」


「……私も、心得ます」


リラはそう答え、ペンを走らせる。

フィロは一度だけ、小さくうなずいた。


少し間が空いてから、リラがぽつりと口を開く。


「フィロさんでも……

 さすがに不意に亜人が出てきたら、剣を抜かずに攻撃してしまうんですね」


「あぁ」


即答だった。


「将の懐だ。

 予想していなかったのもあるが、あのまま落とす方が確実と判断した」


「亜人種には、光の魔法は効果ありませんからね」


「だが、通常亜人だったのが幸いした」


フィロは淡々と言う。


「軽い突き指で済んだ。

 特異種であれば、指の何本かは覚悟していた」


リラはその言葉を、驚きもせずに書き留める。


「……濁将の居た場所には、何か残っていましたか?」


「濁将は、逃げ道を自ら封じたと言っていた」


フィロは思い出すように、わずかに間を置いた。


「転送魔法の出入り口を塞いだか。

 転送用の魔力を拾い直したか……

 私が到着した時には、すでに終わっていた」


「なるほど……確認できず、ですね。書き足しておきます」


紙にペン先が触れる音が、また規則正しく続く。


「四将、と言っていたな」


フィロが静かに言う。


「良く見積もっても、あと三体。

 今後は、ただ情報を集めるだけでは足りない」


「我々で判断し、探す必要がありますね」


「濁将も、最初は偶然の遭遇だった」


「……今後の方針は、決まりましたね」


「うむ」


フィロは書類をまとめながら言った。


「明日一番で、別の大陸に向かう船を手配しろ」


「はい。すぐに動きます」


「私は、報告書に一通り目を通したら休む。

 リラ、お前も休め」


「はい。おやすみなさい」


リラはそう言って灯りを少し落とした。


こうして、港町の夜は静かに更けていく。


朝日が港の水面を照らし始めた頃、

すでに船は岸壁につけられ、

帆は畳まれ、積み荷の最終確認が行われていた。


人の往来が増え始めた港で、

彼女らは船の前に集まっている。


リラが手元の書類を閉じて、顔を上げた。


「すでに手配は完了しています。補給もまもなく終わります」


その横で、シェリスが伸びをしながら海を見た。


「あーあ。ここのロブスター、うまかったんだけどなあ……」


フィロは思わず額に手を当てる。


「大量に食ったな。予算の増額に、どれほど時間がかかったか……」


軽く頭を押さえる仕草に、シェリスが鼻で笑った。


「いいじゃねえか。将とやらの一つを倒したんだろ?

 もうちょっと贅沢したって文句ねえだろうが」


「まだ終わったわけではない」


フィロは即座に返す。


「散々食い荒らしたんだ。今後はもっと働くんだな」


シェリスがひとつ舌打ちをした。


その間に、リラが一歩前に出る。


「まぁまぁ……予算超過の件は、丸く収まりましたし。

 私の管理不行き届きでした。今後は気をつけます」


フィロはそれに答えず、短く息を吐くだけだった。


そのとき、港湾作業員の張りのある声が響く。


「騎士様方! 準備、整いましたぜ!

いつでも出られまさあ!」


声がかかると同時に、

オリヴェットが何も言わず、シェリスの背を掴み、そのまま船へと運ぶ。


シェリスは文句も言わず、流れに任せられていた。


リラは装備を一つひとつ確認し、頷いて乗り込む。


最後にフィロが、岸壁に立つ港湾作業員へ一瞥を送り、船に足をかけた。


「イカリを上げろ! 帆を解け! 出航だ!」


号令とともに、船がゆっくりと動き出す。


全員が、進み出した船の先――

これから向かう海の向こうを見据える。


フィロは歩みを止めずに言った。


「行くぞ」


そう告げながら、

指に巻かれていた包帯を、静かに解いた。

つづく

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