僕らの居る意味
第九十四話
僕らの居る意味
祭りの熱が背中に残ったまま、屋敷へ戻る道は静かだった。
気づいた時には、僕の手の中に少女の手があった。
強く握っているわけでもない。ただ、離れていないだけ。
「……無事、戻ってきたみたいだな」
先に気づいたのは運び屋だった。
広い庭先で羽を休めていた彼は、僕らを見るなりそう言って、軽く息を吐く。
「どうやら、問題はなかったようですね」
濁将の視線が、ふたりの手元に一瞬だけ落ちる。
「……町で、何かありましたか?」
その問いかけに、僕は一拍置いて答えた。
「人が多かったのと……この子が、結構強引だったから」
「ちょっと!」
少女がすぐに抗議する。
「楽しかったんだから、いいじゃないか」
その言葉に、運び屋は何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
それ以上、踏み込む必要はないと判断したみたいだった。
濁将もまた、それ以上は何も聞かない。
ただ、ほんのわずか、口元に笑みを浮かべる。
「……なるほど」
それだけで話は終わった。
僕自身、その時になってようやく気づいた。
手をつないでいることを、誰も問題にしていないことに。
そして、僕も少女も、
それを気にしていないことに。
客間に通されると、そこにはすでに準備が整っていた。
卓の上、床の間、壁際。
整然と積まれた書物の山が、部屋の一角を占めている。
「……これは」
思わず声が漏れる。
「戦術、戦略、武術、魔法術……それに鍛錬に関する記録ですね」
濁将が淡々と説明する。
「この街では、人の書物も金で手に入ります。
人と魔族の文化が入り混じっているからこそ、可能なのでしょう」
僕は一冊を手に取り、頁をめくる。
見慣れた人の文字。
それだけで、頭の中が自然と切り替わっていくのが分かった。
――今、僕はどこにいるのか。
――何をすべき立場なのか。
「……不思議ですね」
濁将がぽつりと言う。
「これだけの書が、この街には揃っている。
それなのに、山向こうの人の領域でしか、こういった知識はほとんど見当たらない」
少女は、書物を前にしても、どこか上の空だった。
視線が落ち着かず、さっきまでの高揚が、まだ抜けきっていない。
「……ちょっと、忘れてた」
小さく、そう呟く。
僕は顔を上げて彼女を見る。
「それが普通だよ」
少女がこちらを見る。
「でも僕らは、生き残らないといけない」
言葉を選ぶ必要はなかった。
「じゃなきゃ、ここもなくなっちゃう」
少女は何も言わなかった。
けれど、ぎゅっと自分の手を握りしめて、小さく頷いた。
その時、僕ははっきりと理解した。
この街は、守られている場所だ。
だからこそ――守るために、戦う世界が外にある。
そして僕らは、もうその外側に戻らなければならない。
気づけば、部屋はすっかり静かになっていた。
食事の名残は片づけられ、香の匂いだけが淡く残っている。
僕は自然と、卓に積まれた書物の前に戻っていた。
頁を開く。
文字を追う。
それだけで、呼吸が整っていくのが分かる。
さっきまでの祭りの熱も、人の多さも、
少しずつ遠くへ押し流されていった。
「……それ、なに?」
背後から、少女の声。
振り返らなくても分かる。
すぐ後ろに立って、肩越しに覗き込んでいる。
「戦術書。人のものだよ」
「ふぅん……この線、なに?」
指先が、頁の端をなぞる。
「陣形。人数が少ない側が、囲まれないための工夫」
「へえ……」
少女は文字が読めない。
でも、不思議と退屈そうにはしていなかった。
「じゃあさ、こっちは?」
「魔法と武器を組み合わせた時の話だね。
力のある一撃より、続けられる形を選べって書いてある」
「……難しいけど、なんとなく分かる」
そう言って、少女はそのまま僕の背後に腰を下ろした。
近い。
けれど、邪魔じゃない。
僕は頁をめくり続ける。
少女は時々、思いついたように質問を投げてくる。
そのやり取りが、妙に自然だった。
――その時。
「……失礼する」
低く、張りのある声。
振り向くと、そこに若頭が立っていた。
和装をきっちり整え、腰を落として一礼する。
「少年。
灼将様がお呼びだ」
少女が一瞬、息を呑む。
「……今、ですか?」
僕が聞くと、若頭は頷いた。
「今だ。
お前さんと……その娘も一緒に、とな」
少女は思わず僕を見る。
僕は本を閉じ、立ち上がった。
「分かりました」
若頭はそれ以上何も言わず、踵を返す。
その背中について、廊下を進む。
畳の感触。
木の香り。
屋敷の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。
軽い話も、雑音も、
すべてが遠ざかっていく感じがした。
一枚の戸の前で、若頭が立ち止まる。
「……灼将様。
お呼びの者、参りました」
内から、落ち着いた声が返る。
「入るがよい」
若頭が戸を開け、僕らに視線を向ける。
「どうぞ」
僕は一歩、踏み出した。
少女も、その隣に並ぶ。
――ここから先は、
もう“街”の話じゃない。
そう、はっきり分かる場所だった。
静かな広間だった。
灯りは落とされすぎず、しかし明るくもない。
畳の匂いと、微かに残る湯の気配が混じっている。
上座に灼将。
その視線は、まず僕ではなく、少女に向けられていた。
「……して、街を歩いてどうじゃった?」
少女は一瞬だけ考え、はっきりと答える。
「楽しかったです。
知らないものがたくさんあって……もっと、いろんなところを見たいと思いました」
灼将は、満足そうに小さく頷いた。
次に、その視線が僕へ移る。
「おぬしは?」
僕は言葉を探した。
街の景色。
人と魔族が並んで笑っていたこと。
争いを前提にしない空気。
「……すべてが、ここみたいなら。
僕らは、もっと――」
そこまで言いかけて、言葉が詰まる。
灼将の手が、静かに上がった。
「よい」
制止は柔らかいが、はっきりしていた。
「わかっておる」
灼将は、視線を少しだけ落とす。
「今も世界中で、人と魔族は生き残りをかけて戦っておる。
それは事実じゃ」
言葉は淡々としている。
だが、その奥にあるものは重い。
「わらわの街では、争うことをよしとせん者が多い。
だから、こうして共に暮らせておる」
一拍。
「手を取り合って生きていければ、どれほどよいか。
わらわも、それはよう分かっておるつもりじゃ」
灼将は、ゆっくりと顔を上げる。
「じゃがな……」
声が、少し低くなる。
「恨みの連鎖は、もう断ち切れん」
静寂。
「殺した。
殺された。
そして、また殺した」
その言葉は、誰かを責める調子ではなかった。
ただ、積み重なった事実として、そこに置かれる。
「……悪かったの。
話の流れとはいえ、こんな話をしてもうて」
灼将は、ふっと息を吐く。
「もう、濁将がこの街でするべきことを終えとることも、わらわの耳には入っておる」
視線が、まっすぐ僕に向いた。
「じき、ゆくのじゃろう?」
「……はい」
僕は迷わず答えた。
「僕は、僕のできることをやります」
灼将は、ゆっくりと頷く。
「うむ。いい返事じゃ」
そして、ふいに視線が少女へ移る。
「して、少女よ」
「は、はい!」
将に呼ばれ、少女は背筋を伸ばす。
「将としての頼みではない。
じゃが……この子は、力がないのじゃ」
灼将は、僕を見る。
「我が子の隣で、足りぬ力の代わりになってもらえんだろうか」
少女の思考が、完全に止まった。
僕と灼将を、交互に見て、指まで使って確認する。
「え……え?」
「灼将様……それは……」
「わらわが決めたことじゃ」
灼将は、少しだけ微笑む。
「驚くのも無理はないのう。
じゃが、事実じゃ」
そして――
ゆっくりと、頭を下げた。
「将ではなく、母として頼む。
この子の隣で、力になってもらえんか。
このとおりじゃ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
少女は完全に慌てた。
「灼将様!
頭をあげてください!
そんな……そんなことされる理由、私には――」
「わかった、わかったから……ね?
ほんとに、あげてください!」
灼将は小さく笑い、頭を戻す。
「少々、立場を使った脅しのようになってもうたかのう。
将というのは、つくづく面倒じゃ」
一拍。
「……じゃが、約束してくれたのじゃな?」
少女は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……はい」
迷いを振り切るように、きちんと頷く。
灼将は満足そうに目を細めた。
「安心じゃ。
おぬしたちなら、困難も切り抜けられるじゃろう」
「戦いとなったら、わらわも力を貸す。
じゃから……頼んだぞ」
僕は少女を見る。
少女も、僕を見る。
「……だからさ」
少女が、少し照れたように言った。
「これからも、一緒に空だな」
「……うん」
それだけで、十分だった。
広間の灯りは変わらない。
けれど、確かに何かが決まった空気が、そこにあった。
二人の気配が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
戸が閉じられる音は、立てられなかった。
それでも、確かに去っていったと分かる静けさが残る。
灼将は、しばらくその場から動かなかった。
やがて、視線だけを横に向ける。
「……そこにおるのじゃろう」
返事はない。
だが、気配ははっきりとあった。
「分かっとるな」
声は低く、迷いがない。
「わらわに、万が一のことがあった時には……」
その先は、口にしなかった。
襖の向こうで、わずかな衣擦れの音。
「――はっ」
若頭の声は短く、重い。
「心得ております」
それ以上、言葉は交わされない。
灼将は、ゆっくりと目を閉じた。
守るべきものは、もう決めた。
送り出す覚悟も、とうに済ませている。
母としての時間は短くとも、
将として、やるべきことは残っている。
灯りは、まだ消えない。
つづく




