また争いの空へ
第九十五話
また争いの空へ
朝の庭は、ひどく静かだった。
夜の熱を残していた石畳もすっかり冷え、
屋敷の奥からは、湯を焚く音すら聞こえない。
運び屋は庭先で腰を落とし、翼を畳んだまま首を傾けていた。
「……さすがに、重いな」
ぼやきながら、背に固定された鞄を確かめている。
この街で仕立てられた、運び屋用の鞍兼鞄。
軽量で、重心がずれにくく、飛行時の負担を極力抑える作りだ。
にもかかわらず、今日はずっしりとしている。
原因は明白だった。
「……本を詰めすぎではありませんか?」
濁将が、悪びれた様子もなく、最後の一冊を押し込む。
「必要なものですから。
戦術、戦略、鍛錬、補助魔法、そして各地の地誌……」
「全部必要か?」
「全部です」
即答だった。
運び屋は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
濁将は一歩下がり、全体を見渡す。
「さて。次は翼将の拠点に向かってください。」
淡々とした声だった。
「場所も距離も把握しています。
このまま真っすぐ進めば、比較的すぐに到着するでしょう」
そう言ってから、少しだけ言葉を区切る。
「――それと」
視線が、僕に向いた。
「途中、私がかつて居た領域の島があります。
そちらに少しだけ降りていただけると助かります」
僕が何か言う前に、濁将は続ける。
「なに、すぐに済みます。
どうか、よろしくお願いいたします」
頼み方は丁寧だったが、断る理由は見当たらなかった。
「……分かりました」
そう答えると、濁将は満足そうにうなずいた。
庭の縁側では、灼将が腰を下ろしていた。
朝の光を背に、いつもより少しだけ穏やかな表情で。
僕は荷物の最終確認をしながら、その前に立つ。
「それは、ええ革鞄じゃの」
灼将が言った。
「そんな代物、そうそう手に入るものでもあるまいて」
「鎧将のところの人たちが、餞別でくれたんです」
僕は鞄の肩紐に触れながら答えた。
「僕の体に合ってて……
荷物が、軽く感じるんです」
灼将は、くすりと笑った。
「おぬしは、いろんな者に託されて、ここまで生き抜いてきたのじゃな」
少しだけ、声が柔らぐ。
「これも、わらわに似た影響かのう」
僕は、ほんの少しだけ照れた。
「……だから、頑張れるんです」
それだけ言うと、灼将は立ち上がり、
何も言わずに僕を抱きしめた。
強くもなく、弱くもなく。
ただ、確かな温度があった。
「行くがよいぞ」
耳元で、静かに告げられる。
「次に会うときは――戦いを控えるときじゃ」
「……うん」
短く答え、僕は一歩下がった。
荷物を背負い、庭に立つ。
そして、振り返る。
「いってきます」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
少女と、運び屋と、濁将の輪に加わる。
その背中を見送りながら、灼将が小さく漏らす。
「……わらわだけでなく」
誰にも聞かせるつもりのない声で。
「父親にも、しっかり似とるのう」
朝の風が、庭を抜けていった。
少女が、少しだけ距離を詰めてきた。
声は周りに聞こえないくらい小さい。
「……灼将様、いや……お母さんに、挨拶は済んだのか?」
「うん」
短く答えると、少女は一歩だけ下がった。
「じゃあ、大丈夫だな」
それだけ言って、ふっと肩の力を抜く。
「それにしてもさ。今度は翼将様のところ、だろ?」
少し呆れたように、でも笑いを含んだ声だった。
「ほんとにお前の周り、将様ばっかり出てくるな」
「もともと、翼将のところにいたからね」
そう言うと、少女は思い出したように頷く。
「ああ……そう言えば、そうだったな」
少し間を置いてから、ぽつりと続けた。
「どんな方なんだろうな、翼将様」
僕は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……会えば、わかるよ」
「そうだな」
少女は納得したように笑って、
「じゃあ、行こうか」
と、軽く言った。
「そうだね」
僕は運び屋のほうを見て声をかける。
「運び屋、飛べる?」
「問題ない」
即答だった。
「今度は、楽な空を飛ぶからな」
その言葉に、どこか安心する。
僕と少女が背にまたがると、濁将が一歩前に出た。
「それでは」
丁寧に一礼してから、
「よろしくお願いします」
そう言って、アクアイアへと戻っていく。
青い光が一瞬だけ揺れ、胸元で静かになった。
少女はくるりと振り返り、
「ありがとう!」
と、屋敷の人々に向かって手を振った。
若頭や、顔見知りの者たちが、
「またな!」
「今度はもっとゆっくり来いよ!」
と、思い思いに声をかけてくる。
僕は、最後にもう一度だけ、灼将を見る。
灼将は、何も言わず、ただひとつ、うなづいた。
「……じゃあ、行こう」
「掴まってろ」
運び屋の声と同時に、体がふわりと浮く。
庭が遠ざかり、屋敷が小さくなり、
手を振る人々の姿が、点になっていく。
風が、翼を打った。
そして僕たちは、また空へと向かった。
つづく




