手を引かれて
第九十三話
手を引かれて
最初に届いたのは、音だった。
腹の底に響く太鼓。
踏み鳴らされる足音。
重なり合う声と、火が弾ける乾いた響き。
さっきまで歩いていた通りとは、空気そのものが違う。
温泉の湿った熱じゃない。
もっと生き物に近い、ざらついた熱だった。
気づけば僕と少女は、祭りの縁に立っていた。
人が円を描くように集まり、その中心で火が揺れている。
赤でも橙でもない、黒を含んだ火。
エンショウ族が身を低くして、その周りに伏せていた。
歌がある。
意味は分からない。
けれど、意味を知らなくても体が引っ張られる調子だった。
「……すごい」
少女が、息を吐くように言った。
そのときだった。
輪の内側から、ひとりの女の子がこちらを見た。
少女と、ほとんど同じ背丈。
年も、たぶん近い。
服装は街の者らしいけれど、
それ以上のことは分からない。
人か、魔族か、あるいはそのどちらでもないのか。
女の子は一瞬だけ首をかしげ、
それから、にっと笑った。
「いっしょに、どう?」
言葉より先に、手が伸びてきた。
気取らない、当たり前みたいな動き。
少女は驚いたように目を瞬かせて、
それから、ちらりと僕を振り返った。
許可を求めているわけじゃない。
ただ、確認しているだけの目だった。
僕は何も言わなかった。
止める理由も、ためらう理由もなかった。
少女は、すぐに前を向いた。
輪の中へ、一歩。
その手を取られて、もう一歩。
女の子が足を動かす。
それを見て、少女が真似をする。
最初はぎこちない。
すぐに、笑い声が混じる。
誰かが調子を取って、
誰かが声を上げ、
火の揺れが少しだけ大きくなる。
少女の表情が、みるみる変わっていった。
警戒も、緊張もない。
ただ、楽しい、という顔。
僕は少し離れたところに立ったまま、
その様子を見ていた。
音は変わらず鳴り続けている。
火も、変わらず燃えている。
けれど――
少女だけが、もう一歩、内側に入ったように見えた。
置いていかれた、という感覚じゃない。
ただ、踏み出す順番が違っただけだ。
僕は、踊りの輪の中で笑う少女を眺めながら、
この街の熱を、静かに息に取り込んでいた。
太鼓の音が一段、強くなった。
輪の中で、少女がこちらを振り返る。
さっきまでの戸惑いはもうなくて、頬が少し紅潮している。
「ほら、ぼーっとしない」
短く呼ばれて、次の瞬間には腕を引かれていた。
「ちょ、待っ――」
「もう手、取ったでしょ」
「なら踊る」
言い終わる前に、足元の感覚が変わる。
踏み鳴らされる地面。
周囲の体温。
音に合わせて、自然に動く人の流れ。
少女は迷いなく輪の中心へ戻っていく。
僕の手首を掴んだまま。
「こうだよ」
足を踏み出し、肩を揺らし、
音に身を預けるように体を動かす。
……無理だ。
頭では分かっている。
今、どう動くべきか。
周囲の動きも見えている。
でも、体がついてこない。
一拍遅れる。
足が合わない。
重心がずれる。
さっきの作法とはまるで違う。
あれは順序があった。
覚えれば再現できた。
これは違う。
考えた瞬間に、遅れる。
「ぎこちない」
少女が笑った。
責める声じゃない。
「考えすぎ」
そう言って、今度は僕の手を握り直す。
指と指が絡むほど、近く。
「音、聞いて」
太鼓。
足音。
歌声。
「それだけでいい」
引かれるまま、一歩。
合わせようとして、また遅れる。
少女が一瞬だけ眉をひそめて、
それから、歩幅を落とした。
僕に合わせて。
「ほら」
今度は、合った。
完璧じゃない。
揃ってもいない。
でも、輪から弾かれない。
少女の手は、ずっと離れない。
離す必要がないから。
不思議だった。
これほど近くで、誰かと体を動かすのは久しぶりだった。
戦いじゃない。
訓練でもない。
ただ、同じ音を聞いて、
同じ地面を踏むだけ。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
その輪の外で。
ひときわ背の高い影が、静かに立っていた。
灼将だ。
派手な装いでも、威圧する気配でもない。
祭りの中の、ただの一人としてそこにいる。
けれど、視線だけは確かだった。
踊る人々。
エンショウ族。
そして――僕と少女。
灼将は、何も言わない。
近づきもしない。
ただ、目を細めていた。
まるで、
この光景を壊さないように。
太鼓が鳴る。
少女が笑う。
僕は相変わらず不器用だ。
それでも、手はつながれたまま。
灼将の視線の奥に、
ほんのわずか、柔らかな熱が宿っているのを、
僕は気づかないふりをしていた。
踊りはまだ続いていた。
太鼓の音も、歌声も、火の明かりも、少しも衰えていない。
だけど僕だけが、輪の外に押し出されたみたいに立ち止まっていた。
息が切れている。
額から流れる汗が、目に入りそうで、思わず手の甲で拭った。
「……はあ……」
情けない声が漏れる。
隣を見ると、少女はまだ動いていた。
息は上がっているはずなのに、足取りは軽く、目は楽しそうに輝いたまま。
頬に汗は浮かんでいるけれど、それすら祭りの熱に溶け込んでいるように見えた。
「もう、疲れたの?」
からかうように言われて、返す言葉に少し詰まる。
「……正直に言うと、かなり」
少女は一瞬きょとんとしてから、くすっと笑った。
「変なの。さっきまで、あんなに必死だったのに」
必死だったのは、踊りよりも、周りに合わせようとしていたせいだ。
そんなことは口に出さず、僕はもう一度、広場を見回した。
火の明かり。
踊る人々。
歌声に混じる笑い声。
――あれ?
気づいた時には、違和感ははっきりしていた。
さっきまで、確かにあそこにいたはずの影がない。
祭りの輪の少し外で、静かに見守っていたはずの、あの赤黒い尾も、
若頭や、あの艶やかな女の姿も、いつの間にか消えていた。
「……いないな」
僕の視線の先を追って、少女も首を傾げる。
「さっきまで、誰かいた?」
「うん。……でも、もういいんだと思う」
説明するには言葉が足りなかった。
ただ、邪魔をしない距離で、必要な時だけ姿を見せる。
そんな人たちだった。
祭りは続いている。
けれど、僕たちの時間は、もう少しだけ静かな場所へ移ったみたいだった。
少女は僕の前に立って、少しだけ背伸びをする。
「じゃあ、休憩ね」
当然みたいに言って、僕の袖を軽く引く。
引かれるまま、一歩下がると、太鼓の音が少し遠くなった。
熱気はまだ背中に残っているのに、胸の奥は不思議と落ち着いている。
汗をかいて、疲れて、息が切れて。
それでも、嫌じゃなかった。
少女は相変わらず元気で、
僕は少しだけ遅れて歩いている。
――それで、ちょうどいい。
祭りの灯りが、ゆらゆらと揺れていた。
僕は肩で息をしながら歩いていて、
気づけば背中も首筋も、じっとりと汗ばんでいる。
横を歩く少女も同じだった。
額に浮いた汗を、乱暴に袖で拭っている。
「……暑いな」
「踊ったからね」
そう言いながら、少女はどこか楽しそうだった。
少し歩いたところで、ふと思い出したように立ち止まる。
「ねえ」
「なに?」
「温泉の人、言ってたでしょ」
さっきまでの騒がしさが、少し遠くなる。
「湯に入ったあとは、
またすぐ恋しくなるって」
少女は、自分の腕に残る汗を見てから、僕を見る。
「……本当だったね」
僕も、自分の手のひらを見下ろした。
祭りの熱。
踊った後の体。
乾ききらない汗。
「……うん」
たしかに、もう一度、湯に浸かりたくなっていた。
それは疲れのせいだけじゃない。
この街の熱に、体ごと触れてしまったからだ。
僕は何も言わず、
汗の残るまま、少女の隣を歩き続けた。
つづく




