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街に馴染む

第九十一話

街に馴染む


川沿いに見えてきた建物は、思っていたよりずっと立派だった。

石垣を土台に、太い木材で組まれた建屋。

湯気は建物全体を包むように立ちのぼり、どこか神域めいた雰囲気すらある。


「……すごい」


少女が素直に声を漏らす。


正直、僕も同じ気持ちだった。

さっきまで歩いていた街並みとは、明らかに格が違う。


――それと同時に。


僕は、自分たちの姿を意識せざるを得なかった。

埃まみれの靴。

補修を繰り返した服。

旅の途中そのままの、ボロボロの格好。


案の定だった。


入口の番台にいた男が、僕たちを見るなり眉をひそめる。


「……悪いが、ここは湯屋だ」

「冷やかしなら、別の場所へ――」


少女が一歩前に出かけて、僕はそれを手で制した。


「金、いるんですよね」


自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。

僕は懐から、大判の束を取り出す。


番台の男の視線が、ぴたりと止まる。


「……」


数瞬の沈黙。

それから、男は小さく息を吐いた。


「……失礼しました」

「ただし、その格好のままでは入れません」


そう言って、棚の奥から布を取り出す。


「せめて着替えてください」

「浴衣です。湯に入る前の作法は守ってもらいます」


少女が、目を丸くする。


「……いいの?」


「金を払う客なら」


それだけだった。

理由も、言い訳もない。

ここでは、それで十分だった。


浴衣に着替えてから、再び奥へ案内される。

木の床はよく磨かれていて、裸足でも心地いい。


湯船の前で、少女が立ち止まった。


「……湯気、すごい」


「火山の水だからね」


先に入っていた年配の客が、こちらを見て笑う。


「怖がることはないよ」

「熱はあるが、体を壊すもんじゃない」


少女は少し考えてから、ためらいなく足を入れた。


「……あ」

「熱い……でも、痛くない」


「だろう」


そのまま、肩まで沈む。


「変な感じ」

「なのに……落ち着く」


僕も湯に入る。

確かに水じゃない。

柔らかく、重い熱が、じわりと体に広がる。


「普通の水とは、全然違うね」


「うん」

「ここ、好きかも」


短い言葉だったけど、嘘はなかった。


湯から上がると、体が軽かった。

熱は確かに残っているのに、のぼせる感じがない。


番台の脇で腰を下ろしながら、僕は自分の腕を見下ろす。


「……普通のお湯と、温まり方が違う」


自分でも意外な言葉だった。

ただ温かい、だけじゃない。


少女が髪を絞りながら、首をかしげる。


「不思議な水だな」

「熱いのに、ずっと中にいたくなる」


「火山の水だから、かな」


そう答えながら、僕は湯屋の奥を見回す。

湯気の向こう、同じように湯上がりの人たちが、当たり前の顔で腰を下ろしている。


特別なものなのに、特別扱いされていない。

ここでは、この温もりも日常の一部なんだ。


「……変な街だね」


少女がぽつりと言う。


「うん」


否定はしなかった。


番台の男が、静かに声をかけてくる。


「着替えは、こちらで」

「外は風がある。冷えないように」


差し出された浴衣は、思ったより上等だった。

厚みがあって、肌触りがいい。


少女がそれを受け取り、少しだけ笑う。


「さっきより、ちゃんとした格好だな」


「たぶん、今までがひどすぎた」


そう返すと、少女は小さく肩を揺らした。


着替えを済ませて外に出る。

木の戸を開けた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。


――でも、寒くない。


さっきまでの湯の熱が、体の奥に残っている。


浴衣に着替えて外に出ると、湯屋の前の空気は少しだけ冷えていた。

それでも体の芯はまだ温かい。


少女が一歩、二歩と歩いたところで、不意に止まる。


「……」


何も言わないまま、腹を押さえた。


「お腹、鳴った?」


「鳴ってない」

一拍置いて、

「でも、鳴りそう」


正直すぎる返答に、思わず息が漏れた。


「じゃあ、何か食べようか」


そう言ってから、僕は振り返って番台の方を見る。

湯屋の奥から様子を見ていた番台の男と、目が合った。


「すみません」

「この辺で、食事ができる場所はありますか」


番台の男は一度うなずき、指で外を示す。


「ここでも軽いものなら出せるが」

「しっかり腹に入れたいなら、川沿いを上がった先だな」


「川沿い?」


「ああ。湯の流れを追っていけば分かる」

「飯屋が並んでる一角がある」


少女が即座に反応する。


「行こう」


即決だった。


「……金は」


「ある」


僕は革鞄に手を入れて、大判の感触を確かめる。

足りないとは思えなかった。


番台の男が、少しだけ口元を緩める。


「気をつけてな」

「戻る頃には、また湯が恋しくなる」


礼を言って、外へ出た。


川沿いの道は、湯気が薄く漂っていた。

足元を流れる水はまだ温かく、ところどころで白い湯気が立ちのぼっている。


「さっきの川だ」


少女が覗き込む。


「下は熱かったのに、ここはちょうどいいな」


「流して、冷ましてるんだと思う」


「考えられてる」


感心したように言って、また前を見る。


少し進むと、においが変わった。

湯の匂いに混じって、だしの香りが鼻をくすぐる。


「……あれ」


少女が足を止めた。


視線の先に、屋台とも店ともつかない店構えが並んでいる。

湯気の向こうで、細長い器を手にした客が腰を下ろしていた。


「細い……ひも?」


「麺、かな」


見たことはある。

でも、ここまで整った形で出されているのは初めてだった。


店の前に立つと、年配の店主が顔を上げた。


「いらっしゃい」

「そばだ。腹に入れるかい」


少女が僕を見る。


「これ、なに」


「穀物を細くして、茹でたものだと思う」


「おいしい?」


「……たぶん」


「じゃあ食べる」


即断だった。


「二人分、お願いします」

「値はいくらですか」


僕は浴衣の懐から大判を取り出す。

それを見た店主は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頷いた。


「確かに預かる」


器が置かれ、湯気が立つ。

だしの香りが、さっきまでの温泉の匂いを押し流した。


「箸は……これか」


少女が構えたまま止まる。


その様子を見て、隣の席の客が声をかけてきた。


「おう、初めてか」

「遠慮せず、思いきって吸い込むんだ」


「吸い込む?」


「そうそう。ずずっとな」


少女は一瞬だけ僕を見る。

そして――


「……!」


思いきり吸い込み、盛大にむせた。


「っ、げほっ……!」


「わははは!」

客が腹を抱えて笑う。

「勢いが良すぎる」

「ほら、そっちの坊主を見てみろ」


視線が集まる。


僕は、器に顔を近づけて、静かに。


ちゅる……

ちゅるちゅる……


「……こうか」


「そうだ、それだ」


少女は咳を落ち着けてから、もう一度挑戦する。


「……ちゅ、ちゅる……」


さっきより、だいぶ控えめだ。


「……おいしい」


「温かいし、軽い」


「味が薄いからだと思う」


二人で黙々と食べる。

器の底が見えたころ、店主が近づいてきた。


丁寧に紐銭を揃え、余った分を差し出す。


「これはおつりだ」

「落とさないよう、気をつけな」

「毎度あり」


「ありがとうございます」


少女もぺこりと頭を下げる。


店を出ると、また湯気混じりの空気が広がっていた。


少女が腹を押さえる。


「……満足」


「よかった」


一拍置いて、少女が言う。


「次は、どこ行く?」


答えは、もう街の奥から聞こえていた。

つづく

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