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母の街

第九十話

母の街


屋敷の外へ出ると、空気がはっきりと変わった。


湯気だ。

建物の隙間や、路地の奥から、白い湯気が絶えず立ちのぼっている。

木造の平屋が並び、屋根は低く、通りは広すぎない。

だが窮屈さはなく、人が行き交っても余白が残る造りだった。


看板には、人の文字と、魔族の記号が並んでいる。

どちらかが添え物というわけではなく、どちらも同じ大きさで刻まれている。


「……これは」


濁将が、周囲を見回しながら小さく息を吐いた。


「人の文化と、魔族の生活が、ここまで自然に混ざり合っている街は初めて見ました。

なるほど……素晴らしい」


感嘆の色が、隠しきれずに声に混じる。


少女は、その横で少し緊張した様子だった。

人と魔族が同じ通りを歩き、同じ店に立ち寄っている。

けれど怯えてはいない。

視線は忙しなく動き、建物や看板、行き交う人々を追っている。


「……変なの。怖いはずなのに、怖くない」


「ここでは、それが普通なんだ」


そう答えながら、僕も街を見渡した。


やがて通りが開け、広場に出る。


石畳の中央には空間があり、周囲を囲むように屋台や店が並んでいる。

人の数は多いが、押し合うほどではない。

余裕のある客層だということが、空気から伝わってきた。


「お、旅のお客さんだね」


団子を並べた屋台の主が、軽く手を振る。


串に刺さった白い団子。

横には湯気の立つ茶釜。


少女が一歩前に出かけた、その瞬間。


「……お金。いるんですよね」


僕は、先に声を出した。


屋台の主は一瞬きょとんとし、それから笑う。


「もちろんだ。ここは商いの街だからな」


「これ一本で、どれくらいですか」


値段を聞く。

物から、金額を引き出す。


「一本でこれだ。茶を付けるなら、少し足す」


僕は頷き、懐から銭を出した。


「じゃあ、三本ずつ。お茶も」


屋台の主は、銭を受け取ると両手を揃えた。


「毎度あり。ゆっくりしていきな」


その一言に、商いの街だという実感が宿る。

売ったから終わり、ではない。

この街では、売る側も、買う側も、役割を果たしている。


団子を受け取ると、少女は少し驚いた顔でそれを見た。


「……ちゃんと、聞いてから買うんだね」


「この街では当たり前」


受け取った団子は、まだ温かかった。

串を持つと、ほんのりと米の匂いが立つ。


少女は少し迷ってから、一口かじった。


「……あ」


次の瞬間、目を見開く。


「甘……っ。え、なにこれ」


噛みしめるたびに、はっきりした甘みが広がる。

鎧将の拠点で口にしていた蜂蜜の甘さとは、質が違う。

舌に残る、押しの強い甘さ。


「甘すぎる……でも……嫌じゃない」


そう言いながら、もう一口。


僕も食べてみる。

確かに甘い。

だが、茶を一口含むと、その甘さがすっと引いていく。


「……合わせてるんだ」


団子と茶。

単体じゃなく、組み合わせて完成する味。


運び屋は、それを横目で見て一言。


「甘そうだな」


そして、すぐに続ける。


「俺は食わない」


そう言って、広場の人の流れから一歩離れ、石畳に腰を据えた。


「狭いところには付き合わない。ここで待つ」


大きな体を畳み、羽を休めるその姿は、街の風景に溶け込んでいた。


濁将は、広場全体をゆっくり見渡し、満足そうに息を吐く。


「人の文化が、ここまで街に根付いているとは。

……これは見事ですね」


感嘆に、嘘はない。


少女はまだ団子を見つめている。

甘さに驚きながらも、確実に惹かれている顔だ。


その様子を見て、濁将は穏やかに続けた。


「私は少し、調べたいものがあります。

申し訳ありませんが、街の様子を見てきていただけますか」


僕が返事をする前に、


「はい!」


少女が即答した。


そして、僕の手を掴む。


「行こ。気になるところ、いっぱいある」


引かれるまま、広場の奥へ。


背後では、湯気が立ち、商いの声が続いている。

この街が、今日もちゃんと生きている証みたいに。


湯気は、絶え間なく立ち上っていた。


川というには妙だった。

水面の向こうが、ゆらゆらと歪んで見える。


「……ねえ」


少女が立ち止まる。

川縁まで近づいて、じっと流れを見下ろした。


「湯気、ずっと出てる。

 これ……熱いんだよね?」


「うん」


僕も並んで覗き込む。


「こんな川から、飲み水なんて汲めないね」


言ってから、少し可笑しくなる。

当たり前のことなのに、声に出すと改めて実感が湧く。


少女は川に指を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。


「触ったら、火傷する?」


「たぶん。

 少なくとも、冷たくはない」


「へえ……」


少女は怖がるでもなく、面白がるでもなく、

ただ不思議そうに湯気を目で追っている。


「川なのにさ、

 生きてるみたい」


その言い方が、妙にしっくりきた。


そのときだった。


「おや、旅のお方かい」


背後から、落ち着いた声がかかる。


振り返ると、年配の人間が一人、籠を担いで立っていた。

この街では、よく見る顔立ちだ。


「それ、驚くよなぁ」


老人は川を一瞥して、くつりと笑う。


「火山から流れてきた湯だ。

 そのままじゃ熱すぎるから、こうして流して、冷ましてる」


「……冷ましてる?」


少女が即座に食いつく。


「じゃあ、ずっとこのまま?」


「そうそう。

 下に行くほど、ちょうどよくなる」


老人は、川の流れに沿って顎をしゃくった。


「このまま下流へ行けばな、温泉に着く。

 肩まで浸かるには、ちょうどいい温度だ」


「……温泉」


少女が、その言葉を噛みしめるように繰り返す。


「入れるの?」


「入れるとも。

 金はかかるがな」


老人は当然のように言った。


「湯は、勝手に湧いても、

 世話するのは人の手だ。

 掃除も、道も、橋もな」


なるほど、と僕は思う。

理屈は単純だ。


「……行きたい」


少女が、ぽつりと言った。


声は小さいのに、迷いがなかった。


「行ってみたい。

 だって、こんなの初めてだもん」


僕は、彼女の横顔を見る。


期待と好奇心が、そのまま顔に出ている。

無理に抑える気も、様子を見る気もない。


「……いいんじゃないかな」


そう答えた自分の声は、驚くほど自然だった。


「急ぐ理由も、ないし」


「ほんと?」


少女がぱっと振り向く。


「止めないの?」


「止める理由がない」


そう言うと、少女は一瞬だけきょとんとして、

次の瞬間、にっと笑った。


「じゃあ決まり!」


彼女はもう、川の流れに沿って歩き出している。


僕はその背中を追いながら、

自分が何も決めていないことに気づく。


でも、それでよかった。


この街では、

この二人では、

流れに乗ること自体が、選択なのだから。


湯気の向こうに、

まだ見ぬ場所が待っている。


それだけで、十分だった。

つづく

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