安心した朝
第八十九話
安心した朝
灼将は、何も肯定しなかった。
否定もしなかった。
ただ、僕を見下ろして、静かに言った。
「……これ以上はな」
「おぬしの頭と体が、もたぬ」
その声には、将としての重さも、裁く気配もなかった。
灼将は布団の端を持ち上げると、ぽん、と軽く叩いた。
「今日は休もうぞ」
「……だ、大丈夫です」
自分でも驚くほど、声が遠い。
「自分で、寝られますから……」
灼将は、ふっと息をついた。
「わらわの機嫌を取りに来たんじゃろう?」
その言葉に、何も返せなかった。
否定できなかった。
結局、言われるままに布団へ潜り込む。
畳の冷たさはもう感じなかった。
代わりに、身体を包む温もりだけが、はっきりと分かる。
灼将は、背中を叩いた。
一定の間隔で、ゆっくりと。
強くもなく、弱くもなく。
考えが、ほどけていく。
さっきまで頭を埋め尽くしていたはずの言葉も、理由も、選択も、
まるで湯気のように、消えていった。
瞼が、重い。
遠くで、声が聞こえた。
知らない歌だった。
言葉も、意味も分からない。
でも、不思議と——
怖くなかった。
胸の奥に、ゆっくりと温かいものが広がっていく。
そのまま、意識は沈んでいった。
朝は、思ったよりも穏やかに訪れた。
畳の匂いが、まだ残っている。
障子越しの光は柔らかく、昨夜の混乱が嘘だったみたいに静かだった。
広間に通されると、すでに食事の準備は整っていた。
漆塗りの膳に、白い飯。
湯気の立つ汁物は、根菜と海藻を中心にした澄んだ味で、塩気は控えめ。
焼き魚は小ぶりだが、皮目が香ばしく、添えられた漬物が食欲を刺激する。
豪奢ではない。
けれど、整っている。
僕が席に着くと、少女が隣に座った。
小声で、探るように言う。
「……昨日は。灼将様の機嫌、取れたか?」
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「……うまくいったと思う」
それだけで、十分だったらしい。
運び屋はそれ以上何も聞かず、肩の力を抜くように息を吐いた。
広間の上座には、灼将がいた。
その隣には濁将。
少し距離を空けて、若頭。
さらに奥には、露出の多い衣装に身を包んだ女や、見覚えのない幹部らしき魔族、人間たち。
誰も騒がない。
誰も余計な視線を向けない。
灼将が、場を見渡して口を開いた。
「皆の者」
声は低く、よく通る。
「あえて説明はいらんじゃろうが、この者たちは各将の使いじゃ」
広間の空気が、わずかに引き締まる。
「今、魔族は危機に瀕しておる。が、まだ十分な時間がある状況じゃ」
灼将は、淡々と続けた。
「こやつらには、この街のあり方を見せる」
「可能性の一つを、な」
一拍。
「わらわの屋敷では賓客じゃが、町では客人として扱え」
「すべての者に、共有せえ」
一斉に。
「ハッ!」
短く、揃った返事。
僕は、思わず背筋を正した。
少女も、少し目を丸くしている。
灼将は、ふっと表情を和らげた。
「この街ではな」
「金で取引しとる」
そう言って、扇子で軽く手招きする。
「来い」
「はっ」
若頭が進み出て、膝をついた。
そのまま、布に包まれたものを広げる。
大判の束。
紐で括られた銭。
それを、濁将、僕、少女、運び屋の前に並べた。
「それが金じゃ」
灼将は、当たり前のことのように言う。
「飯を食いたければ、値を聞け。金を渡せば飯が食える」
「風呂に入りたければ、値を聞け。金を渡せば風呂に入れる」
そして、少しだけ声を落とした。
「足りねば、わらわの者に言え」
「遠慮はいらん」
最後の一言だけ、はっきりと僕を見て告げられた。
「……」
濁将が、ゆっくりと頷く。
「金、ですか」
「これは人の文化ということですね」
視線を巡らせ、静かに続ける。
「少しばかり……」
「灼将の伝えたいものが、見えてきた気がします」
灼将は、満足そうに微笑んだ。
「それでよい」
立ち上がり、衣擦れの音を立てる。
「では、食事を楽しむとええ」
「わらわは将としての仕事がある故、ここで失礼するぞぇ」
そう言って、灼将は若頭と数名の重役を連れて広間を後にした。
残された僕たちは、しばらく誰も言葉を発せなかった。
湯気だけが、静かに立ち上っていた。
広間に、灼将の気配が消えたあとも、食事はそのまま続いた。
――が、問題はすぐに露呈した。
箸。
僕はそれを、しばらく眺めてから、そっと持ち上げた。
持ち方が分からない。
指がどこに来るのか、力をどこに入れるのか、見当もつかない。
隣を見ると、少女も同じだった。
箸を一本ずつ持って、固まっている。
運び屋はというと、最初から迷いがなかった。
大きめの皿に盛られた料理に、そのまま嘴を突っ込み、気にした様子もなく食べている。
――どうやら、最初から想定内らしい。
「ふふ」
そのとき、低く艶のある笑い声がした。
「困ってる顔、丸見えよ」
声の主は、奥に残っていた姐さんだった。
気配もなく近づいてきて、膳の向こう側に腰を下ろす。
露出の多い衣装。
人と何も変わらない肌の色。
動きはゆったりしているのに、視線だけが妙に鋭い。
「箸、初めて?」
僕が答えるより先に、少女が小さく頷いた。
「だよねぇ」
姐さんは、にっこり笑った。
「じゃあ――特別講座、開いてあげる」
言い方が、やけに含みがある。
でも、距離は詰めてこない。
触れもしない。
代わりに、彼女は自分の手元を高く上げて見せた。
「いい? 見るだけ。真似するだけでいいから」
そう言って、箸を持つ。
指の置き方。
動かすのは上だけだということ。
力を入れすぎないこと。
「箸はね、支配しちゃだめ」
「添えるの。任せるの」
声音が、やけに艶っぽいだけで、言っていることは至極まっとうだ。
少女が、ぎこちなく真似をする。
僕も、見よう見まねで動かす。
「そうそう。ほら、ほら」
姐さんは笑いながら、言葉だけで誘導する。
「焦らない」
「落ちても気にしない」
「食べるって、楽しむことなんだから」
その調子で、少女は一口、ようやく飯を掴めた。
成功した瞬間、目を丸くする。
「……できた」
「でしょ?」
姐さんは、満足そうに頷いた。
「人の道具って、案外優しいのよ」
僕も、遅れて一口。
確かに、悪くない。
その様子を見て、姐さんはふっと表情を緩めた。
「――ああ、そうそう」
何気ない調子で、付け足す。
「私のこと、人間だと思ってたでしょ?」
一瞬、空気が止まった。
「違うの?」
少女が、素直に聞く。
姐さんは、くすっと笑った。
「魔族よ」
その言葉に、少女が固まる。
僕も、一瞬だけ箸を止めた。
「見た目で判断しないほうがいいわ」
「この街じゃ、それが一番危ない」
そう言って、何でもないことのように食事を続ける。
濁将が、静かに納得したように頷いた。
「……なるほど」
「だからこそ、共存が成立している」
姐さんは肩をすくめる。
「成立してるから、続いてるだけ」
「続いてるから、成立してるように見えるの」
その言葉が、胸に残った。
食事が終わり、膳が下げられる。
姐さんは立ち上がり、僕たちを一瞥した。
「じゃ、そろそろ街に出る?」
「“客人”としてね」
外では、湯気が立っているはずだ。
金で回る街。
魔族と人が混じる場所。
僕は、箸を置いて、深く息を吸った。
ここからだ。
そう、思った。
つづく




