将と母
第八十七話
将と母
夜の気配が、屋敷の奥から静かに染み出してきていた。
昼間のざわめきが嘘みたいに、廊下は音を失っている。
灯りは落とされ、障子越しの行灯だけが、床に細い影を落としていた。
その中を、若頭が歩いていく。
歩幅は大きくない。
だが迷いがない。
草履の音ひとつで、この屋敷の“内側”の人間だと分かる歩き方だった。
灼将の間の前で、若頭は膝をついた。
背筋は真っ直ぐ、視線は伏せすぎない。
「……灼将様」
低く、腹の底から出す声。
「先ほどの客間の件、簡単にご報告を」
返事はない。
若頭は続ける。
「濁将殿が来られました。
表向きは挨拶、ですが……中身は将同士の話でございやす」
一拍。
「例の少年の件で、少々、場が張りました」
言葉を選ぶように、間を取る。
「少年は、弁明も抗弁もせず。
ただ、灼将様に会いたいと、それだけを申しておりやした」
少しだけ、声を落とす。
「……機嫌を損ねたまま、話を終わらせるつもりはない様子で」
ここで、はっきり言う。
「自分の言葉で、きちんと向き合うつもりだと」
沈黙。
障子の向こうから、灼将の声。
「……ふむ」
若頭は余計な解釈を足さない。
「以上でございやす」
間。
灼将の声が、少しだけ低くなる。
「……わらわは休む」
若頭は目を伏せる。
「じゃが、何をするかは知っておきたい」
若頭は黙って待つ。
「寝室へ招け。
そこで話を聞こうかのぉ」
若頭は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
立ち上がると、きびすを返す。
その背中に、もう迷いはなかった。
客間では、僕たちは静かに待っていた。
少女は正座のまま、そわそわと落ち着かない。
運び屋は壁にもたれ、目を閉じている。
ほどなくして、先ほどとは別の者が現れた。
所作が丁寧で、声も柔らかい。
「お休みの準備が整っております」
一礼。
「お食事が必要でしたら、ご案内いたしますが……」
僕は首を振った。
「……灼将に、もう一度会いたいです」
一瞬、空気が止まる。
使いの者は、表情を変えずに答えた。
「少々、お待ちください」
そのまま下がっていく。
少女が、小声で言った。
「……だ、大丈夫だったか?」
「うん。たぶん」
運び屋は何も言わない。
ただ、目だけがこちらを見ていた。
しばらくして、足音。
今度は別の人物だった。
近づくと、耳元で囁かれる。
「灼将様より――
少年の“意図”を知るため、寝室へお呼びとのことです」
顔を上げる。
「ご案内いたします。こちらへ」
そして、運び屋と少女の方を向いた。
「ほかのお客人は、こちらへどうぞ」
運び屋は短く言った。
「……頼んだぞ」
少女も、少し強がって笑う。
「無理、するなよ」
僕はうなずいた。
そして、案内に従って歩き出す。
廊下の奥。
灯りの数が、ひとつ、またひとつと減っていく。
――この先が、寝室。
そう思った瞬間、
胸の奥が、静かにざわめいた。
案内されていた廊下の突き当たりで、足が止まった。
灯りは落ち着いていて、
木の床は磨かれているのに、どこか人の気配が薄い。
先を歩いていた構成員が、一歩前に出て、戸の前で姿勢を正す。
「——灼将様。少年をお連れいたしました」
一拍。
部屋の内から、低く、しかしよく通る声が返る。
「……入れ」
構成員は静かに戸を引き、僕に向かって一歩退いた。
「どうぞ」
それだけ言って、すぐに踵を返す。
足音は、戸が閉まるより先に遠ざかっていった。
僕は一人、戸の前に立つ。
少しだけ息を整えてから、手を伸ばした。
戸を開ける。
中は、思ったよりも簡素だった。
畳の匂い。
低く抑えられた灯り。
部屋の中央には、布団が敷かれていて——
灼将が、そこに座っていた。
背筋を伸ばし、尾を静かに畳み、
まるで最初から待っていたかのように。
「そこへ座れ」
短く、促される。
僕は戸を閉め、言われた通り布団の端に腰を下ろした。
距離は、思っていたより近い。
灼将は、しばらく僕を見てから言った。
「……わらわに、何か用があるのじゃろう」
核心を突くような一言だった。
僕は、正直に答える。
「……灼将の機嫌を損ねたと、聞きました」
一瞬、灼将の眉が動く。
「それで?」
「僕に、何かできることがないかと思って」
言い終えると、部屋に静寂が落ちた。
灼将は、しばらく何も言わない。
やがて、ふっと息を吐く。
「……なら」
声が、少しだけ柔らいだ。
「わらわと、話さんか」
僕は、即座に頷いた。
「……わかりました」
それだけで、十分だった。
灼将は、こちらをまっすぐに見据えた。
灼将は、しばらく黙っていた。
火の気配はあるのに、熱は抑えられている。
湯の湧く音だけが、部屋の奥で静かに続いていた。
「……さて」
灼将が、ゆっくりとこちらを見た。
「将の使いになった経緯、じゃな」
声は柔らかい。
だが、逃げ場を与えない響きがあった。
「どうして、おぬしがそこにおる」
僕は、少しだけ考えてから答えた。
「濁将に頼まれました」
「理由は?」
「……知りません」
正直に言った。
取り繕う意味はないと思った。
灼将は、ふう、と小さく息を吐いた。
「そうか。あやつらしい」
責めるでも、探るでもない。
それ以上、この話を深掘りする気はないらしい。
次の問いは、少し間を置いてから来た。
「……集落の者たちは」
言葉の続きはなかった。
だが、意味は分かる。
生きているか。
まだ、そこにいるか。
僕は、視線を落とした。
「……全滅しました」
それだけ言った。
灼将の表情が、わずかに揺れる。
悲しそうに、しかし驚いた様子はなかった。
「……そうか」
短い一言だった。
「覚悟は、しておった」
それだけ告げて、灼将はそれ以上何も言わなかった。
慰めも、怒りもない。
ただ、事実を受け取った顔だった。
しばらくして、ふっと空気が変わる。
「ところでじゃ」
唐突に、声が軽くなる。
「さきほど一緒におったあの子は」
一拍。
「がぁるふれんど、というやつかの?」
……来た。
僕は即座に首を振った。
「違います」
「ふむ?」
「鎧将のところの子です。
知識に興味があって、ついてきました」
灼将の耳が、ぴくりと動いた。
「……なんじゃ、違うのか」
明らかに、がっかりしている。
「ふむ……」
さっきの全滅の話より、反応が分かりやすい。
母というより、将というより、
ただの感情だった。
気を取り直したように、灼将は咳払いを一つ。
「では、次じゃ」
今度は、少し含みのある目で僕を見る。
「人の文字が、読めるようになっておると聞いた」
僕は、頷いた。
「はい」
言いながら、ずっと懐に入れていた本を取り出す。
角の擦り切れた、古い書物。
何度も読み返した跡が残っている。
「集落にいた頃、迫害されて……
時間だけはあったので」
言葉を選びながら続ける。
「人から奪われた物資の中に、本がありました。
最初は意味も分からなかったけど……」
灼将は、無言で本を受け取った。
ためらいなく頁を開く。
視線が走る。
迷いはない。
ほんの数息で、頁を閉じた。
「……人の伝記じゃな」
次の頁をめくり、
「戦の記録。しかも前線のものじゃ」
淡々と、正確に言い当てる。
その一言で、全てが伝わった。
灼将は、人の文字を読める。
しかも、理解している。
「なるほどのぉ……」
ぽつりと、そう呟く。
「これが、濁将の言うておった意味か」
声に、少しだけ誇らしさが混じった気がした。
しばらく沈黙が落ちる。
湯の音が、遠くで続く。
僕は、胸の奥に溜まっていたものを、ようやく言葉にした。
「……今度は」
灼将が、こちらを見る。
「僕が、聞いてもいいですか」
その問いに、灼将は少しだけ目を細めた。
「よい」
短く、そう答えた。
——そこで、話は一区切りついた。
つづく




