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仁義の将

第八十六話

仁義の将


静寂は、まだ解けていなかった。


灼将の言葉が終わっても、

畳の上の空気は動かないままだった。


「……行くのじゃ」


灼将は、それだけ言った。


母としての言葉ではなく、

将としての、区切りの声。


僕は小さく頷いて、部屋を出た。


廊下を進むと、待っていたのは三人だった。


運び屋は柱にもたれて立っていて、

少女は落ち着きなく、その周りを行ったり来たりしていた。


僕の姿を見つけると、少女が真っ先に駆け寄ってくる。


「だ、大丈夫だったか?」


声が少しだけ上ずっている。


「怒らせてないか?

将さま……灼将さま、機嫌悪くなかったか?」


「大丈夫」


僕は、それだけ答えた。


嘘ではなかったし、

それ以上説明する言葉も、まだ見つからなかった。


少女は少し安心したように息を吐いて、

それ以上は何も聞かなかった。


運び屋は、僕の顔を一度だけ見て、

それきり視線を外した。


何も言わない。


それが、いつもの反応だった。


少し離れた場所で、濁将が静かに待っていた。


僕と目が合うと、濁将は小さく頷く。


「なるほど」


それだけで、だいたいを察したようだった。


「では」


濁将は、ゆっくりと歩き出す。


「今度は、私が出向く番ですね」


その背中は、どこか軽い。


重たい話を抱えているはずなのに、

決断の済んだ者特有の、迷いのなさがあった。


「少し、お時間をいただきます」


それが、こちらに向けた最後の言葉だった。


濁将はそのまま、灼将の間へと向かっていく。


僕たちは、残された。


少女は黙って、僕の横に立つ。


運び屋は、相変わらず何も言わない。


ただ、濁将の背が障子の向こうに消えるまで、

じっと見送っていた。


そして、静かに扉が閉じた。


――ここからは、将の話だ。


僕はそう理解して、

胸の奥で、息を整えた。


灼将の間に、再び静けさが満ちる。


畳に落ちる影は二つだけ。

赤黒く鈍い光を帯びた尾が、わずかに揺れ、

対する影は、水面のように輪郭を曖昧にしていた。


「……さて」


濁将が、ゆっくりと口を開く。


「お時間をいただき、ありがとうございます。灼将殿」


灼将は返事をしない。

座したまま、湯気の向こうから濁将を見据えている。


「わらわは忙しい身でのぉ」


低く、しかしよく通る声。


「用件があるのなら、端的に申せ」


「承知しております」


濁将は一礼し、言葉を選ばずに続けた。


「――私の領域が、人の手に落ちました」


その言葉に、灼将の尾がぴくりと止まる。


「異常な事態です」


濁将は淡々と告げる。


「ふん」


灼将は鼻で笑う。


「珍しい話ではあるまい。

人も魔族も、愚か者はどこにでもおる」


「ええ。通常であれば」


濁将は否定しない。


「ですが、今回の相手は“通常”ではありませんでした。

力、判断、連携、そのどれもが、想定外の動きだった」


灼将の視線が、わずかに鋭くなる。


「……続けよ」


「四将が個別に対応する段階ではない」


濁将は、静かに言い切った。


「将が、集う必要があります」


一拍。


「翼将、鎧将、そして――私」


「準備は、すでに整っております」


灼将は、しばらく黙っていた。


湯気が揺れ、

どこかで木が軋む音がする。


「……急かす気はないのじゃろ」


灼将が言った。


「ええ」


濁将は素直に頷く。


「下手に動けば、崩れる」


「だからこそ、十分にご判断いただきたい」


灼将は、しばらく天井を仰いだ。


「……少し、待て」


短い言葉だった。


だが、その声色に迷いはない。


「わらわは将じゃ。

だが、この地の“母”でもある」


濁将は黙って聞いている。


「すぐに刃を抜くわけにはいかぬ」


「じゃが」


灼将の目が、再び濁将を捉える。


「協力せぬとは言っておらぬ」


「……感謝いたします」


濁将が、深く一礼する。


「それから」


灼将は続けた。


「先ほどの少年の話じゃな」


濁将の表情が、わずかに柔らぐ。


「はい」


「人の文字を読み」


「知識を引き出し」


「拠点を、いくつも立て直した」


灼将は、濁将の言葉をなぞるように繰り返す。


「……面白い子よの」


「ええ」


濁将は、少しだけ誇らしげに言った。


「私は、彼を

われら四将の“参謀”として据えたいと考えております」


その瞬間。


灼将の眉が、きつくねじれる。


「――戯言を申すな」


声は低い。


「おぬし、われら四将ともあろう存在が、

一般の魔族を危険に晒すと、本気で思うておるのか?」


「はい」


濁将は、即答した。


「私は、その可能性を承知の上で申し上げています」


灼将の尾が、床を叩いた。


「愚か者め」


吐き捨てるように言う。


「そちの考えていることは、わかる」


「じゃがな」


灼将は、身を乗り出した。


「一つ、思い違いをしておる」


濁将は、黙って待つ。


「言葉で説明するより」


灼将は、ゆっくりと立ち上がる。


「この街を、おぬし自身の目で見よ」


「この街がどう生きておるか」


「その上で、答えを出すがよい」


一拍。


濁将は、静かに頷いた。


「……わかりました」


「私の過ちを」


「自分の眼で、確認させていただきましょう」


灼将はそれ以上、何も言わなかった。


湯気が、再び二人の間を満たす。


話は終わった。


――将同士の、静かな合意だった。


灼将の間を出た濁将は、歩調を変えないまま待たせていた部屋へ戻ってきた。


障子が静かに開く。


その瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰めたのを、僕は肌で感じた。

運び屋も、少女も、同時に濁将へと視線を向ける。


「緊急事態というものは」


濁将が、いつも通りの穏やかな声で言った。


「どうやら、本当に続くもののようですね」


運び屋の翼が、わずかに揺れる。


「……何か、あったのか」


低く、即座に返す声。

冗談を許す場面ではないと判断したときの声だ。


少女も、遅れて息を呑む。


「え、えっと……その……」


言葉を探しているが、視線は濁将から離れない。


僕は、何も言えなかった。


反応しなかった、というより――

それどころじゃなかった。


胸の奥が、ざわついている。

頭の中で、さっきの光景が何度も再生される。


抱きしめられた腕の感触。

あの声。

あの目。


「いやはや」


濁将が、ひとつだけ笑った。


「灼将を怒らせてしまいました」


一拍。


「なんたる失態でしょう」


運び屋の視線が鋭くなる。


「……失敗か?」


短い問い。

結果だけを求める、彼らしい言葉。


濁将は、口元にわずかな含みを残したまま、答えようとした。


――おそらく、ここで冗談めかして説明するつもりだったのだと思う。


だが。


「大丈夫です」


僕の声が、それを遮った。


自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


三人の視線が、一斉にこちらへ向く。


「……僕が」


言葉を探す必要はなかった。


「僕が、灼将の機嫌を戻します」


濁将が、ほんの一瞬だけ目を見開く。


「だから」


僕は続けた。


「濁将は、濁将のすべきことをしてください」


部屋が、静まり返る。


運び屋は何も言わない。

少女も、口を開いたまま固まっている。


濁将は、しばらく僕を見つめていた。


探るようでもなく、試すようでもなく。

ただ、確かめるように。


そして、ゆっくりと息を吐いた。


「……分かりました」


いつもの丁寧な口調に戻る。


「お任せします」


少しだけ、声音が柔らぐ。


「本当に、頼りになりますね」


その言葉に、誇張も評価もなかった。

ただの事実として、そこに置かれた言葉だった。


濁将はそれ以上何も言わず、踵を返す。


障子が閉まる音が、やけに遠く聞こえた。


部屋に残ったのは、僕と、運び屋と、少女。


誰も、すぐには口を開かなかった。


……戻せるかどうかなんて、分からない。


でも。


さっき、抱きしめられたとき。

あの人の腕は、迷っていなかった。


だったら。


今度は、僕の番だ。


そう思った。

つづく

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