灼将
第八十五話
灼将
沈黙が落ちた。
誰も動かない。
灼将は、ただ僕を見ている。
値踏みされている感じはしなかった。
敵意も、警戒もない。
それなのに、胸の奥がざわつく。
――どこかで、見た顔だ。
そう思うのに、思い出せない。
理由が分からないまま、視線だけが外せなくなる。
そのときだった。
胸元が、熱を持った。
「……?」
アクアイアが、光っている。
淡い青が、石の表面から滲み出し、畳に反射する。
灼将の視線が、ほんの一瞬だけ、そこへ落ちた。
次の瞬間。
ぼとり、と音がした。
影が、床に零れ落ちる。
水のようで、水ではない。
土のようで、土でもない。
黒い影が広がり、盛り上がり、ゆっくりと人の形を作っていく。
見覚えのある光景だった。
「やはり」
穏やかな声が、その場に落ちる。
「この距離なら、今頃だと思っていましたよ。さすがです」
濁将だった。
僕に向けて言った言葉だと、すぐに分かった。
褒めているようで、評価ではない。ただの確認。
濁将は、そこで初めて灼将に向き直る。
「おや、灼将殿。失礼」
そう言って、きちんと一礼した。
「今はこうして出てくるしか手がないものでして」
そして続けようとする。
「重要なお話が――」
「濁将」
灼将の声が、静かに割り込んだ。
低く、よく通る声だった。
「久しいのぉ」
濁将は、それ以上言わない。
口を閉じ、次の言葉を待つ。
灼将は、再び僕を見る。
「しかしじゃ」
間を置いて。
「わらわは、そこの少年と話がしたい」
心臓が、一度大きく跳ねた。
「二人でな」
その一言で、空気が変わった。
若頭が、何も言わずに一歩前に出る。
それを合図にしたように、構成員たちが一斉に動き出した。
「こちらへどうぞ」
低く、しかし丁寧な声。
「お飲み物をご用意いたしますので、別室でお待ちください」
命令ではない。
だが、逆らう余地のない促し方だった。
運び屋が、わずかに僕を見る。
違和感があるのは、はっきり分かった。
それでも、運び屋は肩をすくめるように言った。
「……あとでな」
それだけ言って、素直に身を引く。
少女は、状況がよく分かっていない様子で一瞬きょろきょろしたが、
促されるまま、小さく頷いて下がっていった。
――社会を知らないから、言われた通りに。
濁将は最後に、少しだけ言葉を残す。
「こちらがお願いする立場である以上、そちらの頼みも聞くのが筋」
穏やかな声だった。
「ここは灼将殿の仰せの通り、おとなしく別室で待たせていただきましょう」
そう言って、濁将も後に続く。
扉が閉まる。
音が、完全に途切れた。
残ったのは、灼将と、僕だけ。
灼将は、ゆっくりと一歩、こちらへ近づいてきた。
胸の奥で、確信だけが強くなる。
――やっぱり、この人を、僕は知っている。
どこで、じゃない。
もっと近いところで。
そう思った瞬間、灼将の姿が、妙に近く感じられた。
次の瞬間だった。
言葉は、なかった。
灼将は、何の前触れもなく距離を詰めてきて――
そのまま、僕を抱きしめた。
強くはない。
けれど、逃がさない腕だった。
胸に顔が埋まり、視界が塞がれる。
熱がある。
火のような熱じゃない。生きている体の温度だ。
時間が、止まったみたいだった。
一秒か、二秒か。
それとも、もっと長かったのか。
分からない。
僕は、完全に固まっていた。
考えが追いつかない。
理解も、拒否も、驚きも、全部が一緒に来て、
結果として、頭の中が真っ白になる。
情報が多すぎると、人は何も考えられなくなる。
今が、まさにそれだった。
やがて、灼将はそっと腕を緩めた。
完全に離れることはせず、
両手で、僕の肩を掴んだまま。
距離は近い。
吐息が分かるほど。
そのまま、僕を真っ直ぐに見て、言った。
「ひとめで分かったぞ」
静かで、迷いのない声。
「わらわの、可愛い子よ」
衝撃が、遅れて来た。
胸の奥を殴られたみたいな感覚。
言葉の意味が理解できる前に、身体が反応する。
――ああ。
そうか。
その瞬間、
今までばらばらだった記憶が、一気に繋がった。
水汲みの桶を覗き込んだとき。
揺れる水面に映った、自分の顔。
飛び散ったガラス片に、偶然映った輪郭。
磨かれた鉄の表面。
鈍く光る金属に、歪んで映る自分。
見ていた。
何度も。
何度も。
忘れていたわけじゃない。
ただ、
覚えようとしていなかっただけだ。
理由なんて、考えなかった。
見慣れている顔だから、流していただけ。
でも、今なら分かる。
この人は――
僕に、似ている。
いや。
似ていなきゃ、おかしかったんだ。
灼将は、まだ僕の肩を掴んだまま、
少しだけ目を細めていた。
その表情に、威圧も、演技もない。
あるのは、
揺るぎようのない確信だけ。
世界が、少しずつ色を取り戻していく。
でも、心臓の音だけは、やけに大きくて。
僕はまだ、
何一つ、言葉を返せないままだった。
灼将は、僕の肩から手を離さなかった。
逃がさない、というより――
確かめるように。
その赤黒い尾が、微かに揺れる。
炎ではない。
でも、確かに生きているものの気配だった。
「……おぬしは」
静かに、灼将が口を開く。
「リーフォークと、わらわの混血じゃ」
言葉は、ゆっくり。
逃げ場を与えない速さで、でも乱暴ではなく。
「わらわの腹から生まれた」
一瞬、息が詰まった。
「……その、小さな角」
灼将の視線が、僕の角に落ちる。
「生まれた時と、変わっておらん」
頭の奥で、何かが音を立てて崩れた。
赤子の頃のことなんて、覚えていない。
この土地を出た理由も、事情も、何も。
知らなくて当然だ。
それでも――
「……灼将」
声が、思ったより低く出た。
「あなたが……母さん?」
灼将は、一瞬だけ目を伏せた。
そして、はっきりと頷く。
「そうじゃ」
迷いはない。
「母じゃ」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「迎えに行けんで、すまなかったのう」
その声には、初めて――
後悔が混じっていた。
「リーフォークとは、少しばかり問題があってのぅ……」
灼将は、そう言って、
無意識のように眼帯をさすった。
何があったのか。
誰と、どんな問題だったのか。
聞くべきことは山ほどあるはずなのに、
今は、どれも言葉にならない。
「話せば、長くなる」
灼将は、そう前置きしてから、
「今はせめて――」
一歩、距離を詰める。
「おまえを、ここまで導いてくれたことに」
その腕が、また僕を包んだ。
今度は、さっきよりも確かに。
「感謝したいのじゃ……」
抱きかかえられる形で、
僕は灼将の胸に顔を埋めることになった。
逃げようとは、思わなかった。
頭の中はまだ混乱しているのに、
この腕の中だけは、不思議と落ち着く。
火山の奥で育ったはずの存在なのに、
この温もりは、怖くない。
僕は、何も言えないまま、
ただ、そこにいた。
――母だと言われて、
否定する理由も、拒む力も、
今の僕にはなかった。
つづく




