空に増えた影
第八十話
空に増えた影
出立の朝は、驚くほど静かだった。
要塞の石壁に沿って流れる風は、いつもと変わらない。
水路の音も、炉場の残り火も、すべてが昨日の続きみたいにそこにある。
僕と運び屋は、鎧将の居る奥の区画へ向かった。
「行くのか」
鎧将は、こちらを振り返らなかった。
鎧の並ぶ広間で、ただ石の床を見下ろしたまま、短く問いを投げる。
「はい。次の場所へ」
それ以上の説明はいらなかった。
鎧将は頷きもせず、止めもしない。
「壊れたら戻れ」
それだけだった。
評価でも命令でもない。
戻る場所がある、という事実だけがそこに残る。
僕は一礼して、その場を後にした。
外に出ると、すでに何人かが集まっていた。
ミュル族の一団が、木箱を運んでいる。
その中から、女王がひとつ果実を取り上げ、こちらに投げてよこした。
「少年」
高く、よく通る声。
受け取った果実は、ずっしりと重く、皮が硬い。
表面に傷がつきにくく、長く保つ種類だと一目で分かる。
「長旅になるのであろう。
腐らせるでないぞ」
命令口調だが、そこに棘はない。
当たり前の注意を、当たり前に言っただけ。
「……ありがとうございます」
女王は満足そうに頷き、もう興味を失ったように背を向けた。
ミュル族が管理する林から実ったものだ。
彼らなりの、最大限の餞別だった。
次に現れたのは、テンゲ族とグラード族だった。
彼らは言葉より先に、物を差し出した。
革製の背負い鞄。
厚くなめされた革に、金属のバックル。
角の付け根に当たる部分には、擦れを防ぐための保護材が縫い込まれている。
「壊れねえぞ」
テンゲ族が笑う。
「岩に引っかけても、火の粉浴びてもな」
グラード族は、無言で頷いた。
その目は、仕事の出来を保証する職人のそれだった。
「……大事に使います」
言葉はそれだけで十分だった。
運び屋の方を見ると、最後の餞別が用意されていた。
軽量だが、強度のある鞍。
体重の分散と、掴まりやすさを考え抜いた形。
運び屋は一瞬それを見て、何も言わずに装着した。
翼を一度広げ、違和感がないことを確かめる。
「悪くない」
短い一言。
それで十分だった。
荷を背負い、準備を整えたところで、僕は振り返った。
「……また、」
言いかけた、その時。
「まったー!」
石段の上から、声が落ちてきた。
息を切らしながら、少女が駆け下りてくる。
革袋を背負い、簡単な装備を整えた姿。
「待って」
僕と運び屋の前に立ち、胸を張る。
「私も行く」
一瞬、言葉が出なかった。
「……でも、ここを離れるのは」
「分かってる」
被せるように、少女は言った。
「足手まといになるかもしれない。
ここから出たこともない」
それでも、と。
「知識って、面白いって思った」
鎧将の前で言った言葉を、今度は真正面から向けてくる。
「力で負けても、生き残れる。
それを、私は見た」
視線を逸らさない。
「もっと近くで見たい。
それが、どう使われて、どう生きる力になるのか」
僕は言葉に詰まった。
運び屋に視線を向ける。
「……負担が」
その瞬間、運び屋が口を開いた。
「何をいまさらだ」
静かだが、はっきりと。
「お前が考えた作戦で、
俺は大人二人を乗せて 飛ばせただろ」
「お前がそれをやらせたんだ」
一拍。
「今さら一人増えたところで、変わらん」
少女が、にやりと笑う。
「じゃあ、決まりだな」
強引に、でも迷いなく。
僕は小さく息を吐いた。
「……分かった」
そう言うしかなかった。
運び屋が翼を広げる。
僕が先に乗り、少女が続く。
革鞄の背に当たり、少し重い。
でも、嫌な重さじゃない。
風が持ち上がる。
石の要塞が、少しずつ遠ざかる。
下で、職人たちがそれぞれの持ち場へ戻っていくのが見えた。
誰も大きく手を振らない。
それでいい。
僕たちは、空へ出た。
三人で。
次の場所へ向かって。
つづく




