表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/125

また別の空

第八十一話

また別の空


空に出た瞬間、少女は声を失った。


地面が、下にある。

当たり前のことなのに、それが信じられないらしい。


足場は運び屋の背だけで、踏みしめる感触はどこにもない。

革鞍越しに伝わるのは、羽ばたきの振動と、風の圧だけだった。


「……落ちないのか」


ぽつりと、少女が言った。


「落ちない」


運び屋が短く答える。

翼の動きは安定していて、揺れはほとんどない。


僕が初めてこの背に乗ったときとは、

比べものにならないほど静かだった。


「どうして」


「風を読むからだ」


「読めるのか」


「読むってほどでもない。慣れだ」


少女は納得していない顔で、じっと下を見ていた。

切り立った山々が、鋭い刃みたいに連なっている。

その隙間を縫うように、僕たちは進んでいく。


「……山の上は、歩けないな」


「歩く必要がない」


運び屋が言うと、少女は一瞬だけ口を噤んだ。

それから、少し悔しそうに鼻を鳴らす。


「ずるいな」


その言葉に、運び屋は何も返さなかった。

ただ、わずかに翼の角度を変えた。


気流に乗ると、身体がすっと持ち上がる感覚がある。


「今のは?」


少女がすぐに食いついた。


「上昇気流」


僕が答える。


「風は、下からも吹く。山に当たると、上に逃げるから」


「逃げる……」


少女はその言葉を反芻するように繰り返した。


しばらく飛ぶと、景色が変わった。

山の連なりが途切れ、緑の平地が現れる。

細い道、点のような建物、ゆっくり動く集団。


「……人か?」


「たぶん」


「戦ってる?」


少女の視線は、煙の上がる場所に向いていた。

小さな衝突。

武器を持った集団と、逃げる影。


「今は、そういう場所もある」


僕が言うと、少女は唇を噛んだ。


「下から見えないな」


「見えない」


「上からは、全部見えるのに」


その言葉は、問いではなく、

事実として落ちた。


さらに進むと、湖が見えた。

陽を反射して、鏡みたいに光っている。


「水が、溜まってる」


「湖だ」


「川じゃないのか」


「出口がない場所もある。地下に流れることもある」


「地下……」


少女は、少しだけ首を傾げた。


やがて、地面の色が変わる。

白い稜線。雪だ。


「冷たいな」


「高度が上がった」


「高いと、寒い?」


「空気が薄い」


「薄いと、寒い?」


「……たぶん」


僕の曖昧な答えに、少女は小さく笑った。


「お前も、全部知ってるわけじゃないんだな」


「知らないことのほうが多い」


「それでも、知ろうとするんだろ」


「そうだね」


少女はそれ以上何も言わなかった。

ただ、視線を前に戻す。


山々が尽きた先で、色が変わった。


青。


どこまでも続く青。


「……これは」


「海だ」


少女は言葉を失ったまま、しばらく黙っていた。動くものが何もない。境目もない。ただ広がる色。


「落ちたら……」


「死ぬ」


運び屋が即答する。


「怖くないのか」


「慣れだ」


またそれか、と少女は思ったらしい。

でも、否定はしなかった。


空の色が、少しずつ変わっていく。

太陽が傾き、青に影が混じる。


「まだ、飛ぶのか」


「まだ飛ぶ」


「夜になるぞ」


「なる前に、降りる」


少女は、小さく息を吐いた。


「……空は、忙しいな」


その言葉が、妙に残った。


地面より広くて、何もないのに。


風があって、

温度があって、

高さがあって、

境界がある。


空は、確かに忙しい。


運び屋は黙ったまま、進路を変えた。

遠く、海の向こうに、うっすらと陸の影が見え始めている。


まだ、目的地ではない。

ただ、世界が続いているという証拠みたいな影だった。


少女は、それを見逃さなかった。

つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ