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当たり前の水

第七十七話

当たり前の水


水の音が、変わった。


前は、下から上がってくる音だった。

谷へ降りる足音と、縄の擦れる音と、息を吐く音――それらをまとめて「水」と呼んでいた。


今は違う。


石の壁のどこかで、細い流れがひそひそと走っている。

水はもう、運ぶものじゃなくて、そこにいるものになった。


朝、少女に起こされる。

「起きろ。遅い」

言い方はいつも通り荒いのに、声の張りだけが少し軽い。


僕は毛皮を押しのけて起き上がり、外の通路へ出た。

石の匂いは変わらない。鉄片と石粉と汗が吸い込まれた匂い。

でも、空気が湿っている。


通路の端に、浅い溝。

そこを水が流れている。


誰も立ち止まらない。

誰も「すごい」と言わない。

ただ、必要な時に手を伸ばす。


ミュル族の小柄な個体が、果物を抱えて歩いていた。

背中の荷が揺れないのが不思議なくらい、足取りが安定している。


「……お前、食べるか?」


僕の前で止まり、果物をひとつ差し出す。

赤い皮に、細かい斑が散っている。


「森が管理しやすくなった。実りが増えた。新鮮なうちに配る」

淡々としていて、命令でも善意でもない。ただ報告。


「……ありがとう」


受け取ると、手が少し濡れた。

果実が冷えている。水がある。だから冷えている。

そういう順序が、当たり前の顔をして並んでいる。


少女が鼻で笑った。

「それ、甘いぞ。お前、顔が変わる」


「変わらないよ」


「変わる」

言い切って先に歩き出す。僕はついていく。


階段が続く。段差は相変わらず大きい。

この拠点は、強い者の身体で組まれている。僕は並の人間よりは強いはずなのに、息が上がる。

息切れが恥ずかしいのは、弱いからじゃなくて、ここではそれが目立つからだ。


「はっ」

少女が短く笑う。


「笑うなよ」


「笑う。世話係の特権だ」


悔しいから何も言い返さず、僕は足を止めない。

通路の途中、石の壁に刻まれた水場があった。

小さな窪みの底に、澄んだ水が溜まっている。


テンゲ族が二体、そこにしゃがんでいた。

細長い爬虫類の輪郭に硬い鱗が光って、腕がやけに長い。

片方が水を掌ですくい、顔を上げてガハハと笑う。


「おおい! 文字の坊や! 見ろよこれ! 冷てえ! いい顔してやがる!」


「……顔で分かるの?」


「分かるとも! 水は嘘つかねえからな!」

言って自分でまた笑う。バカにする笑いじゃない。面白いものを見つけた笑いだ。


もう片方が、指で溝をなぞっている。

「こっちはよ……水の通りがいい。石が泣いてねえ」

泣く、という言葉が、妙にしっくりきた。


グラード族が、外へ出てきていた。

大きい体が岩を抱え、作業場へ運ぶ。

以前より動きが少し早い。息の乱れが少ない。


彼らの仕事が消えるわけじゃない。

大岩を運び、割り、合わせ、石の筋を読んで整える。

ただ、その合間に“余白”ができた。


グラード族の一体が、溝の水を手で掬い、石粉の入った器へ落とした。

そのまま指を沈め、ゆっくりと練る。

粘りが出る。色が変わる。匂いが立つ。


「……久しぶりだ」

ぽつり、と。

感謝でも喜びでもなく、事実を置く声。


「粘土?」


僕が聞くと、グラード族は頷いた。


「石粉はある。水があると、作れる」

指先を見せる。爪の間に灰色の粘りがついている。


少女が横から覗き込み、少し眉をひそめた。

「それ、うまいのか」


グラード族は首を傾げるみたいに体を傾けた。

「……うまい。噛むと、静かだ」

意味は分からないのに、なぜか分かる気がした。


僕は喉の奥で笑いそうになって、堪えた。

自分の成果を数える気はない。

でも、こういう小さいことが増えるのは、確かにうれしい。


誰も僕の方を見て「お前のおかげだ」とは言わない。

言わなくていい。

言われたら、たぶん僕は困る。


運び屋が、いつもの場所にいた。

通路の角、風の通るところ。

翼を畳んで座り、目だけで全体を見ている。


僕が視線を向けると、運び屋は小さく顎を上げた。

“変わったな”とでも言うみたいに。

口にしない。そういうやつだ。


昼の間、石の音が続いた。

水場ができたせいで、洗う回数が増えた。

魚を捌く場所が変わった。

手が汚れたとき、誰かがわざわざ谷へ降りなくなった。

そんな程度の違いが、積もっていく。


夕方、火の前。

焼き魚の匂い。脂が弾ける音。


僕と少女と運び屋は、いつもの距離で並んだ。

僕は魚をほぐしながら、水の味を思い出す。

昨日までの水と、今日の水。

同じ水なのに、順序が違う。


「……川、行く回数減ったな」


僕が言うと、少女は鼻で笑った。


「当たり前だろ。水を運ぶのは馬鹿だ」

言い切ってから、少しだけ言葉を足す。

「……楽になった」


その“楽”が、彼女にとっては珍しい音だった。

勇ましいのに、身体はまだ若い。

無理をしてるのが、いつも見えないように隠れていた。


運び屋は魚を一口で食べ、骨を外に捨てた。

「下に降りるやつの顔が、減った」

それだけ言う。観察結果だけ。


僕は頷いて、火を見る。

火は変わらない。

でも、水があると火が長く持つ。

そういう当たり前が増えていく。


夜になった。


作業場の熱が落ち、石の匂いと水の音だけが残る。

運び屋は近くで腰を下ろし、翼を畳んだまま空を見ていた。

少女は眠る前の見回りに行くと言って、通路の闇へ消えた。


僕は毛皮にくるまり、胸元へ指をやった。


アクアイアは静かだ。

ずっと静かだった。


――二、三週間。

それだけ経った。


迷うと思われてたのかな。

僕も、運び屋も。

そんなことを考えた、その時だった。


青い光が、胸元から滲んだ。


淡く、しかしはっきりと。

作業場の火とは違う、冷たい光。


「……あ」


運び屋が視線を向ける。

周囲にいた魔族たちが、気配の変化にざわめく。


光が床に落ちる。


音は重くなかった。

ぼとり、と。


水でも石でもない粘度を持った影が地面に広がり、盛り上がり、

ゆっくりと人の形を作っていく。


息を呑む気配。

誰かが一歩退く足音。


形が整う。顔ができる。


濁将は、いつも通り丁寧な声で言った。


「拠点を見つけてくれましたか。……さすがです」


僕は、少しだけ肩の力を抜いた。


――やっぱり、来た。

つづく

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