見てるだけの時間
第七十六話
見てるだけの時間
斜面を下りてくる足音が、やけに重かった。
少女は最後の段を踏み外しかけ、手すりに掴まってようやく立ち止まった。
肩で息をしている。
背中に回していた荷紐を外す余裕もなく、
そのまま石壁にもたれかかった。
「……つかれた」
短く吐き捨てるように言ってから、
ようやく僕と運び屋に気づく。
運び屋は黙って、腰の袋から果実を一つ取り出した。
丸く、赤く、表面にうっすらと粉を吹いたような艶がある。
ミュル族が管理している木から採れたものだ。
「食うか」
それだけ。
少女は一瞬きょとんとしたが、すぐに受け取った。
親指で軽く叩き、香りを確かめる。
「……かなり良い果実だぞ、これ」
運び屋は肩をすくめるように翼を揺らした。
「だからだ。甘すぎる果実は好まない」
「贅沢だな」
「肉の方が腹に残る」
それで会話は終わった。
少女はその場に腰を下ろし、果実にかぶりつく。
噛んだ瞬間、顔が少しだけ緩んだ。
遠くでは、まだ工事の音が続いている。
石を割る乾いた音、金属が打たれる甲高い響き、
木材を組み合わせる鈍い衝突音。
それらが混ざり合い、谷全体が低く唸っているようだった。
僕は、その音の流れを聞いていた。
水路は、もう形になっている。
斜面に沿って刻まれた溝は、石の筋を読み切ったグラード族の手で歪みなく通され、
要所ごとにテンゲ族が打った金属の留めが噛み合っている。
木材はミュル族が選び、余分な枝を落とし、
湿りを含んだままでも狂わない角度で組まれていた。
誰も僕に確認を取らない。
誰も指示を求めない。
それでいい。
職人たちは、それぞれの場所で、自分の仕事だけを見ている。
石が割れる音が変われば、次に運ぶ石の大きさが変わる。
水を流す試しが始まれば、木組みの間隔が自然と詰められる。
理解しているのは、彼らだ。
僕は、少し離れた場所でそれを見ていた。
少女が果実を食べ終え、皮をまとめる。
「……終わりそうだな」
「うん」
それだけ返す。
運び屋は斜面の向こうを見ている。風の流れを読む癖は抜けないらしい。
しばらくして、低い声が上がった。
「通すぞ」
誰の声かは分からない。
だが、その一言で全体が動いた。
仮の栓が外され、上流から水が流れ込む。
一瞬、石粉が舞い、水が白く濁る。
次の瞬間、溝に沿って水が走った。
落ちない。
溢れない。
止まらない。
谷に、新しい音が加わった。
水の音だ。
斜面を下り、溜めに集まり、また次の段へと流れていく。
誰かが歓声を上げるでもなく、ただ、それぞれが自分の持ち場を見ている。
グラード族の一体が、割った石の断面を指でなぞり、うなずいた。
「……久しぶりだ。自分で練った石粉粘土を食えるのは」
それだけ言って、また作業に戻る。
ミュル族が木陰から果実を運び、別の場所へ配っていく。
テンゲ族は既に次の改良を考えているらしく、
打ち直した金属片を手に笑っていた。
完成だ。
僕は、その場に立ったまま、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
少女が立ち上がり、僕の袖を引く。
「……なあ」
「なに」
「次は、何を始めるんだ」
答えずに、僕は水路の音を聞いた。
運び屋が、少しだけ近づいてくる。
谷を流れる水は、もう止まらない。
つづく




