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何でもない一日、何かある一日

第七十二話

何でもない一日、何かある一日


「今日は暇だろ」


そう言って、少女は僕の返事を待たずに歩き出した。

世話係という立場を、こういう時だけ都合よく使うのがこの子らしい。


「拠点、ちゃんと見て回ったことないだろ」


確かに否定はできなかった。

仕事場と寝床、その往復ばかりで、全体を眺める余裕はなかった。


歩き始めてすぐに、斜面と階段が続く。

段差は一定じゃない。石の都合で作られた段は、高さも奥行きもばらばらだ。


数段登ったところで、息が少し乱れた。


「……きつい?」


少女が振り返る。


「いや、大丈夫」


そう答えたが、もう一段で太腿が張るのを感じた。


「へえ」


少女は軽く笑った。


「ここ、普通だぞ」


そうだろうな、と思った。

この拠点は、力のある者たちが考えて、力のある者たちが使う前提で作られている。

僕が息を切らすのは、拠点が悪いわけじゃない。


さらに登る。

踊り場、通路、また階段。


胸の奥が熱くなる頃、少女は何でもない調子で言った。


「慣れるまでだ」


それが慰めじゃないことは、すぐに分かった。


川が見えたのは、その先だった。


谷の底を流れる水。

岩にぶつかり、白く泡立ちながら下へ下へと続いている。


魚を取っている魔族たちがいた。

その中に、リーフォークの姿が混じっているのが目に入った瞬間、考えるより先に身体が動いた。


僕は、自然に一歩、少女の後ろに下がっていた。


視界から外れるように。

視線が重ならない位置へ。


自分でも驚くほど、無意識だった。


もう、追われてはいない。

ここで、角の大きさを測られることもない。


それでも身体だけが、覚えている。


少女は一瞬だけ、僕の動きを横目で見た。

けれど何も言わず、川のほうを向いたまま口を開いた。


「水は、ここだ」


川から水桶を担いで上がってくる魔族たちがいる。

重そうだが、足取りは安定している。


「魚も、ここ」


網を引き上げる動きは手慣れていた。

水も食料も、この川に依存している。


「遠いな」


僕がそう言うと、少女は肩をすくめた。


「まあな。でも、取れる」


それで終わりだ、という顔だった。


拠点へ戻る途中、作業場のそばを通る。


石を削る音。

粉と水が混じって、足元に流れていく。


濡れた石は滑りやすく、乾けば粉が舞う。

誰も気にしていない。


「雨の日は?」


僕が聞くと、少女は少し考えた。


「ちょっと厄介だな」


それだけだった。


水は、足りている。

誰も困ってはいない。


ただ、水は常に、力で運ばれている。


夕方、いつもの場所で火を起こした。


焼けた魚の匂いが広がる。

運び屋が少し遅れて戻ってきて、黙って腰を下ろす。


「歩いたな」


短い一言。


「こいつ、階段でへばってた」


少女が楽しそうに言う。


「……見た目より、上り下りが多い」


僕が言うと、運び屋が小さく息を吐いた。


「ここは縦だ」


それだけで、全部説明された気がした。


魚を食べながら、川の話になる。

水汲みの話。

雨の話。


僕は聞いているだけだった。


答えは、まだ見えていない。


夜。


寝床に戻り、革袋を膝に置く。


今日見たものが、順番もなく浮かんでくる。


階段。

水桶。

川。

こぼれる水。

力で運ばれる水。


水はある。

足りている。


ただ、流れている。


僕は袋から一冊取り出し、

そのまま――本を開いた。

つづく

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