心のなかで広がるもの
第七十一話
心のなかで広がるもの
焚き火は小さかった。
燃やすためというより、夜がそこにあることを確かめるために置いた火だ。
運び屋は、翼をたたんだまま、火の向こうに腰を下ろしている。
僕は向かいに座り、しばらく何も言わなかった。
「今日は――」
自分から口を開いたのは、少し間があってからだった。
「石が割れた」
それだけ言うと、運び屋は火を見たまま「そうか」と返した。
続きを促すでも、驚くでもない。
「やり方を見せただけで、すぐ真似された。
もう……僕がいなくてもできると思う」
言葉にしてみると、胸の奥が静かだった。
空いた、というより、落ち着いた感じに近い。
運び屋は少しだけ薪を動かし、火を整える。
「ちゃんと渡せたな」
短い肯定だった。
「それで、お前はどうだ」
聞かれて、僕は考えた。
嬉しいか、と言われれば、たぶんそうだ。
でも、跳ねるような喜びじゃない。
「……できたと思う。」
そう答えると、運び屋はそれ以上聞かなかった。
「そうか。」
それだけ言って、火から目を離した。
夜は静かで、風もなかった。
翌日。
石加工所は、昨日より音が多かった。
石が割れる乾いた音が、一定の間隔で続いている。
割り筋は増え、欠けは減っている。
特別なやり方じゃない。
もう、作業の一部になっていた。
グラード族の一体が、僕を見て、短く頷いた。
「修復が早い」
それだけだった。
礼でも、評価でもない。
でも、確かに役に立ったという事実だけが残る。
背後から、陽気な声が飛んでくる。
「おい文字のやつ! 見ろ見ろ!」
テンゲ族が、昨日の道具を手に、勝手に改良したものを振り回していた。
笑いながら、三体で何かを言い合っている。
「ここを削ると鳴りが違うんだ!」
「いや、反発が減る!」
「ガハハ! どっちもだ!」
言葉は分かる。
でも、意味は半分も追えない。
これは知識じゃない。
体に染みついた勘だ。
僕は頷き、相槌を打つしかなかった。
それでも、誰も話を止めなかった。
そこに居ていい、という空気だけがあった。
「……道具は、もう他の魔族に渡した」
背後から声がして、振り向く。
リーフォークの少女だった。
世話役の顔に戻っている。
「私は世話役だから。
ここには居ない」
言い切りだったが、視線が少しだけ作業場に残った。
「……でも」
一拍置いて、僕を見る。
「次は、何を知ってる」
詰める言い方じゃない。
期待だけが残る問いだった。
「思い出したら」
「役に立つなら」
そう答えると、少女は短く息を吐いた。
「それでいい」
僕は作業場を見渡した。
もう、僕がいなくても回っている。
それでも、僕の居場所は消えていなかった。
中心じゃない。
けれど、ここに居る理由は、まだ残っている。
石の音は、今日も続いていた。
朝の要塞は、音から始まる。
乾いた石が割れる音、
金属が触れ合う低い響き、
斜面を行き来する足音。
それらが重なり合って、一定のリズムを作っている。
以前よりも、少し整った音だった。
新しい楔とハンマーは、もう特別な道具じゃない。
誰かが使い、
誰かが受け取り、
当たり前の顔で次の作業に回す。
テンゲ族は炉場の端で、余った金属を叩きながら大声で笑っていた。
音がいいだの、こっちの方が気持ちいいだの、
理由はどうでもよさそうだった。
外では、グラード族が岩場に出ている。
要塞の外縁、斜面に張りつくような場所で、大岩をその場で割る。
運びやすい大きさに切り分け、それを担いで作業場へ戻ってくる。
中では別のグラード族が、その石を整え、合わせ、組んでいく。
割る者と、組む者。役割ははっきりしていて、動きに無駄がない。
作業の合間、グラード族が石粉を集めていた。
砕いた石の細かな粉を掌に寄せ、そこに少量の水を加えて練る。
ゆっくりと、確かめるように。
「……こうして練って食うの、久しぶりだな」
天然の粘土ではない。
石の性質を知っているからこそ作れる、粒の揃った石粉粘土だ。
「今日は出来がいい」
「水の回りが安定してるな」
それを噛みしめる表情は、食事というより娯楽に近い。
以前なら、砕いた土をそのまま噛んでいたはずだ。今は、こうして時間をかける余裕がある。
そこへ、籠を抱えたミュル族がやってきた。
硬い殻に覆われた体、節のある手足。動きは静かだが迷いがない。果物を一つずつ、必要なところへ配って回っている。
「前から管理してた木だ」
「今年はよく実る。放っとくと落ちる」
「新しいうちに回してるだけだ」
そう言って、僕の前で籠を差し出した。
「……お前は食うか?」
頷くと、果物が手に渡される。
僕はグラード族の隣に腰を下ろし、石粉粘土と果物を口にする。そこへ、世話係に戻った少女が合流した。立ち止まって様子を見てから、同じように腰を下ろす。
グラード族は短く頷くと、また作業へ戻っていった。
残されたのは、僕と少女だけだ。
「……ここ、上り下りばっかりだろ」
少女が、斜面の方を顎で示す。
確かに、拠点の中も外も、階段と傾斜ばかりだ。
「前は、もっと大変だった」
「運び屋が来てから、ずいぶん楽になった」
僕は思い出す。
谷を越え、風を読み、迷いなく運ぶあの動き。
「飛べるって、こんなに助かると思わなかった」
「ここにも飛べるのはいるけど……」
少女は言葉を切った。
少しだけ、表情が渋くなる。
「……性格がな」
「使うと、話が長くなる」
それ以上は言わなかった。
でも、その言い方だけで十分だった。
作業場の端で、水桶が置かれる。
川から汲んできた水は少し濁っているが、誰も気にしない。こぼれた水が石粉と混じり、地面に吸われていく。その水で、また粘土が練られる。
僕はその様子を、少しだけ長く見ていた。
でも、言葉にはならなかった。
石は割られ、運ばれ、組まれていく。
笑い声もある。余裕もある。
僕はその場にいて、中心ではない。
ここは、もう回っている。
だからこそ、まだ見えていない何かがある気がした。
つづく




