鎧将の住処
第六十四話
鎧将の住処
石の通路は、外の風を切り離していた。
代わりに、冷たい匂いがある。削った石の粉と、鉄の欠片。汗が乾く前に、岩が吸っていく匂いだ。
「……こっちだ」
先を歩くリーフォークの少女は、振り返らない。
声だけが硬い。けれど、拒む硬さじゃない。山の民の、言葉を削った硬さだった。
僕は背負い袋の紐を握り直し、ついていく。
運び屋は後ろ。翼を畳んだまま、音も立てずに歩いていた。
曲がり角を二つ越えると、狭い部屋があった。
石の壁。石の床。石の棚。
寝床は、乾いた草と毛皮が重ねられているだけだ。
「寝るならここだ。荷は壁沿いに寄せろ」
少女が顎で示す。
僕は頷いて荷を下ろした。石の床に当たる音が、やけに大きく響く。
「……水は?」
「あとで持ってくる。逃げるなよ」
言い方だけは強い。
でも、逃げ道の多い場所で言う言葉じゃない。
“見張る”というより、“決まり”として言っている。
僕が短く「うん」と返すと、少女は一拍だけ黙って、踵を返した。
「飯だ。腹が空いてるだろ」
――やっぱり、優しいわけじゃない。
でも、雑でもない。
食事の場所は、広い洞のような空間だった。
天井は低いのに、奥行きがある。
壁際には工具。干した紐。石を削った破片がまとめられた籠。
中央に、焚き火。
火の上に、串が並んでいる。
魚だった。
腹を割いて塩を振り、串に刺して、火で炙っている。
脂が落ちるたびに、ぱち、と音がして匂いが立つ。
「……これが飯だ」
少女は当然の顔で言い、火の横に腰を落とした。
僕も、少し離れた場所に座る。
運び屋は立ったまま、入口側を背にしている。いつもの位置だった。
少女は串を一本取り、僕の前に放った。
「食え」
串が転がって止まる。
僕は手を伸ばして受け取り、火傷しないよう端を持って、少しずつかじった。
焦げた皮がぱり、と割れて、中は柔らかい。
塩がきいている。匂いだけで、身体が「生きる方」に戻る感じがした。
少女が運び屋を見上げる。
「アエンは、何を食う」
運び屋は間を置かずに言った。
「同じのでいい」
それだけ。
少女は「ふん」と鼻を鳴らして、もう一本串を取る。
だが次の瞬間、串を外して、魚だけを石の皿に落とした。
骨を避けるみたいに、爪先で軽く裂く。
食べやすい形になった魚の身が、皿の上に広がる。
運び屋はそれを受け取り、黙って口に運んだ。
串を持たない。必要がないからだ。
僕と少女は、串のまま食べる。
しばらくは、火の音だけが続いた。
油が弾ける音。骨が炙られる匂い。
外の風の代わりに、ここでは火が呼吸をしている。
――その沈黙に、少女が負けた。
「で」
突然、矛先が僕に向く。
「お前、ほんとにリーフォークか」
僕は魚を噛んだまま、少しだけ止まった。
飲み込んでから、小さく言う。
「……うん」
「角が小さい。体も小さい。爪も薄い」
言葉が短くて、刃みたいだ。
観察というより、戦場の確認だった。
「そんなリーフォークが、どうやって生きてきた」
答えが喉に詰まる。
僕は視線を落とし、串の先を見た。
「……」
言葉が出ない。
少女は、間を埋めるように畳みかける。
「それに――別の将の所からの使者だと?」
「一体どうして、そんなことになってる」
「鎧将の所に来る理由が、普通じゃない」
質問が、火の上で跳ねる油みたいに続く。
僕の頭の中が、追いつかない。
運び屋が、低く言った。
「質問は、ひとつずつにしてやれ」
少女が顔を向ける。
「……なんだ」
「こいつは、そういうのに慣れてない」
それだけ。
でも、そこで空気が少しだけ整う。
少女は口を結び、魚を一口かじってから、息を吐いた。
「……分かった。ひとつずつだ」
火の向こうで、目が細くなる。
「まず。鎧将の所に来た理由」
僕は、胸元にある青い石を指先で触った。
ひんやりして、そこだけ現実に戻る。
「……濁将の、出口を運んでる」
「出口?」
「僕の首の……これが」
少女の視線が、アクアイアに落ちる。
一瞬、爪先が止まる。
「……そんなものを、一般の魔族が?」
僕は小さく頷く。
言葉にすると重くなるから、頷きで済ませた。
少女は「ふん」と言い、今度は別の問いを置いた。
「次。お前がリーフォークだって証拠」
僕は言い返そうとして、止まる。
証拠なんて、僕にはない。
角が小さいのは、むしろ否定材料だ。
少女は、いきなり身を乗り出してきた。
「動くな」
そして、僕の角を――
手で掴むんじゃない。指先で、なぞった。
年輪。
角の根元の細い段差を、確かめるように。
僕の身体が固まる。
触れられることに慣れていない。
でも、跳ねたら逆に危ない気がして、呼吸だけを続けた。
少女は、じっと見て、数え――
「……ちっ」と舌打ちした。
「お前……年上か」
僕は小さく頷いた。
それだけで十分だった。
少女の表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。
勇ましさの下に、悔しさが覗く。
「……くそ」
すぐに顔を戻して、低く言う。
「なら余計に分からん」
火が鳴る。
少女の声だけが、少しだけ熱を持った。
「角の小さいリーフォークが、なんでここまで生き残れた」
僕は、串を握り直した。
言うのが怖い。
でも、ここまで来たら――隠す方が、面倒を起こす。
「……文字」
少女が目を細める。
「……なんだそれ」
僕は、短く続けた。
「人の文字。読める」
火の音が、一拍だけ大きく聞こえた。
少女の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
「……読めるのか」
問いが、さっきまでの刃じゃなくなっていた。
違う。
これは、好奇心の爪だ。
「どうやって」
「何が書いてある」
「どれくらい」
また質問が増えかける。
少女自身も分かったのか、途中で口を閉じた。
「……ひとつずつ、だったな」
自分に言い聞かせるみたいに。
僕は頷いて、魚をもう一口かじった。
熱い。うまい。
胃の奥が温まって、まぶたが重くなる。
疲れも、いまになって押し寄せてきた。
運び屋の背中にしがみついていた時間が、身体の奥で遅れて痛む。
視界が、ふっと揺れる。
火が二重に見えた。
「……」
言葉を出そうとして、出ない。
口の中の魚を噛んだまま、呼吸が少し長くなる。
少女が、僕の顔を見た。
何か言いかけて――止まる。
運び屋が、淡々と言った。
「それくらいにしてやれ」
少女が眉を寄せる。
「まだ聞きたい」
「こいつは、俺の背中にしがみついて疲れてる」
それだけで、少女は黙った。
反論しない。
納得というより、山の理屈として受け入れた感じだ。
「……分かった」
短く言って、立ち上がる。
「寝床に戻れ。明日も風は変わる」
僕は「うん」とだけ返して、立ち上がろうとした。
膝が少しだけ遅れる。
少女はそれを見て、何も言わずに先を歩いた。
案内というより、道を作る歩き方だった。
寝床に戻ると、石の冷たさが身体に染みた。
毛皮に潜ると、逆に安心して、意識が落ちていく。
運び屋は、入口側に座ったまま動かない。
影みたいに、そこにいる。
僕は目を閉じる。
火の匂いが、まだ鼻に残っていた。
――夜が深くなったころ。
ボトリ、と音がした。
水滴が石を打つみたいに、粘度のある影が床に落ちる。
濁将の分体は、最初から矛先を抜いた声で言った。
「夜分遅くに失礼。
ゆっくりお休みのようですね」
僕は毛皮に半分沈んだまま、
返事を探せない。
運び屋が像のように動かないのを見て、
濁将はほんの少しだけ笑った。
つづく




