また別の地の刻
第百十九話
また別の地の刻
石の匂いは、以前と同じだった。
乾いた粉と、削られた面の匂い。
鉄が冷えたあとの、わずかに残る熱。
風の裂け目を抜けてくる、山の息。
それでも、拠点は確かに変わっていた。
まず、音が違う。
前は、どこかで誰かが急かされるような音がしていた。
叩く音、運ぶ足音、呼び合う声。
全部が少しずつ重なって、どこか詰まった響きになっていた。
今は、間がある。
叩く。
止まる。
運ぶ。
休む。
音が続く場所と、静かな場所が、はっきり分かれている。
拠点全体が、呼吸しているみたいだった。
通路を進むと、壁際に新しい溝が増えている。
深くはないが、均一で、途切れない。
水が、そこを流れていた。
勢いはない。
音を立てるほどでもない。
それでも、確実に、拠点の奥まで届いている。
水桶を抱えて走る姿は、ほとんど見かけなくなった。
代わりに、作業の合間に手を伸ばし、濡れた指を岩で拭う動作が増えている。
「……楽になったな」
誰かの独り言が、ぽつりと落ちた。
同意も反論もない。
それが事実だからだ。
石材加工所では、割られた石が整然と積まれている。
大きさが揃っている。
欠けが少ない。
割る者と、運ぶ者と、組む者が、自然に分かれていた。
誰かが指示しているわけじゃない。
でも、余っている者も、詰まっている者もいない。
拠点が、拠点として回っている。
炉場の方から、笑い声が聞こえる。
以前より、長い。
以前より、うるさい。
でも、嫌な音じゃない。
金属が打たれるたび、甲高い音が響く。
それを聞いて、別の場所で誰かが「今のいいな」と呟く。
作業が、連なっている。
階段を上がる途中、思わず声をかけそうになった。
「……おい」
呼びかけるつもりだった相手は、そこにいない。
一拍、間が空く。
ああ、そうか。
もう、居ないんだった。
世話係のリーフォークの少女。
用もないのに「何だ」と返してきたやつ。
拠点の変化を、一番近くで見ていたやつ。
無意識に、視線が通路の先を探してしまう。
……今頃、どうしてるんだろうな。
拠点を出たことのなかった足で、
外の世界を歩いているのか。
それとも、どこかでまた誰かを叱りつけているのか。
考えても、答えは出ない。
でも、拠点のこの変化を見たら、
きっと、あいつは鼻で笑って言うだろう。
「当たり前だろ」
「回るようになっただけだ」
その声が、聞こえた気がして、
少しだけ、口の端が緩んだ。
拠点の奥。
以前は使われていなかった空間に、彫刻が増えている。
装飾じゃない。
意味を持つ形でもない。
ただ、余った時間と、余った石で作られたものだ。
誰かが、作ってみたかっただけの形。
誰かが、削ってみたかった線。
拠点に「余白」が生まれた証だった。
風は相変わらず強い。
山は何も譲らない。
それでも、この場所はもう、
「耐えるだけの拠点」じゃない。
変わった。
確かに、時間が流れた。
その事実だけが、静かに、ここに残っていた。
石材加工所の一角が、少しだけ騒がしくなっていた。
いつもの音とは違う。
割れる音でも、削れる音でもない。
金属が石を噛む、低く詰まった音だった。
「おいおい、今度は何を持ってきた」
グラード族のひとりが、岩を抱えたまま視線だけを寄越す。
その足元に、テンゲ族が三体、しゃがみ込んでいた。
「見りゃ分かるだろ」
「分かんねぇから聞いてんだよ」
「だから今から分かるって話だ!」
テンゲ族の一体が、黒ずんだ金属の塊を持ち上げた。
形は単純だった。
二枚の金属板が、短い軸で繋がれている。
だが、その内側には、噛み合うように刻まれた歯がある。
「石に挟むんだよ」
「割れ目に、な」
そう言って、テンゲ族は割りかけの石の前にそれを置いた。
楔で入れた筋が、まだ完全には開いていない石だ。
リーフォークの青年が、自然と一歩前に出る。
この拠点に残ったリーフォークの中では、石割りの手伝いを一番多くしていた。
「……挟むだけ?」
青年がそう言うと、テンゲ族は笑った。
「挟むだけ」
「叩かねぇ」
「落ちねぇ」
テンゲ族のひとりが、金属板を割れ目に差し込む。
ぐっと押し込むと、内側の歯が石に食い込む感触が、鈍く伝わった。
「で、ここ」
別の一体が、軸の部分を軽く叩く。
すると、二枚の金属板が、ほんのわずかに開いた。
石が、鳴らない。
割れない。
削れない。
ただ、動かなくなった。
「……固定されてるな」
グラード族が、低く言った。
抱えていた岩を下ろし、ゆっくりと近づく。
「持ってみろ」
テンゲ族が言う。
リーフォークの青年が、恐る恐る石に手をかけた。
持ち上がる。
今までなら、割れ目の途中で崩れていた重さだ。
だが、石はその形のまま、持ち上がった。
「……おお」
青年の声が、少しだけ弾む。
「落ちねぇだろ?」
「楔は割るため」
「こいつは、割ったあと」
テンゲ族は胸を張るでもなく、ただ事実を並べる。
「運ぶとき」
「合わせるとき」
「叩く前な」
グラード族は、その器具をじっと見たあと、
石の別の割れ目にも同じように差し込ませた。
動かす。
止める。
位置を微調整する。
石が、言うことを聞く。
「……悪くない」
それだけ言って、グラード族は元の作業へ戻った。
評価はそれで終わりだ。
テンゲ族は、顔を見合わせて笑う。
「ほらよ」
「悪くない、出たぞ」
「最高じゃねぇか!」
リーフォークの青年は、まだ器具を手にしたまま、
何度も開いたり閉じたりしていた。
「……これ」
「力、いらないな」
ぽつりと漏れた言葉に、テンゲ族が頷く。
「だろ?」
「腕っぷしは、割るときだけでいい」
「あとは、頭だ」
青年は、ふっと息を吐いた。
以前なら、割った石を運ぶのも、
位置を合わせるのも、全部“踏ん張り”だった。
今は違う。
「……便利だ」
その一言に、テンゲ族が一斉に笑った。
「便利って言うな!」
「気持ちいい、だ!」
「石が言うこと聞く感じだろ!」
石材加工所に、いつもの音が戻る。
割る音。
削る音。
そして、落ちない音。
誰かが命じたわけでもない。
必要に迫られたわけでもない。
ただ、
楔を使っているうちに、
「こうだったら楽だな」と思った。
それだけで、新しい器具は生まれた。
そして拠点は、
また少しだけ、静かに強くなっていた。
そして鎧将の間は、静かだった。
石の壁は厚く、風は届かない。
金属音も、水の音も、ここには入ってこない。
鎧将は一人、椅子に腰を下ろしていた。
かつては報告が途切れなかった時間帯だ。
今は、ただ石の重みだけがある。
その静けさを、控えめな足音が割った。
扉の前で止まり、ミュル族の一般個体が一礼する。
「将。報告がございます」
鎧将は視線を上げない。
「言え」
「灼将の使いと思しき者たちが、沿岸部に到達しております」
一拍。
鎧将の指が、肘掛けを軽く叩いた。
「なぜ沿岸部で止まっている」
「渡れる者なら、そのまま来られるはずだ」
ミュル族は迷いなく答える。
「……船です」
「非常に大きな船に乗っております」
鎧将の動きが、ほんのわずかに止まる。
「……ほう」
低く、短い声。
「面倒事を持ち込んできたか」
「久々に音沙汰があったと思えば、これだ」
ミュル族は続けた。
「例の導線は完成しております」
「ただし――使用すれば、人に発見される恐れがございます」
鎧将は、即座には答えない。
「閉じるまで、どれほどかかる」
「女王に確認せねば、正確には」
一拍置いて、
「ですが、日暮れまでには」
鎧将は、椅子に深く背を預けた。
考える時間は短い。
「通せ」
ミュル族の目が、わずかに見開かれる。
「責任は私が取る」
「導線を使え」
一切の躊躇はなかった。
ミュル族は深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
そのまま静かに踵を返し、鎧将の間を後にする。
扉が閉まり、再び静寂が戻った。
鎧将は、しばらくそのまま動かなかった。
「……使いが来てから」
小さく、独り言のように呟く。
「変化が多くなったな」
石の間に、音は残らない。
だが、確実に流れは動き始めていた。
つづく




