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また別の火の刻

第百十五話

また別の火の刻


湯気が街路に薄く漂っていた。

石畳の隙間を流れる温泉の排水が、朝の冷えた空気に触れて白く煙る。


何も変わらない。

それがこの街の日常だった。


火山の裾野に広がるこの温泉街は、魔族の領域にありながら穏やかで、人の営みと大きく変わらない。

湯屋の扉は朝から開き、商人は荷を整え、子どもたちは湯気の向こうで走り回る。

石造りの建物も、木の梁も、長い年月を経てなお静かに息づいていた。


灼将は高台からその光景を見下ろしていた。

赤く焼けた岩肌の上、鍛錬場として設えられた広場。

背後には火口から続く熱の流れがあり、足元には温泉脈が通っている。


静かな室内に、微かな熱の揺らぎだけが満ちていた。


灼将は、床にあぐらをかき、目を閉じて。

背筋は伸び、肩の力は抜け、呼吸だけがゆっくりと、規則正しく続いていた。


 ――巡らせるのじゃ。


体内に満ちる魔力を、無理に動かすことはせず。

流れを思い出させるように、血と共に、息と共に、円を描かせる。


 ――集める。


胸の奥、心臓のさらに奥。

一点に意識を寄せ、魔力を重ねる。

重く、熱く、しかし荒れさせぬよう、ただ静かに。


 ――解くのじゃ。


溜め込んだ魔力を、一息と共に解放する。

弾けさせぬ。

散らさぬ。

再び、循環へと戻す。


それは力を誇示するための技ではない。

ましてや、敵を屠るための術でもない。


魔族にとって、本来必要とされてこなかった鍛錬。

生まれながらに力を持つがゆえに、磨く必要すらなかった道。


 ――人が、魔族に抗うために紡いできた、歴史の残滓。


文献の中に埋もれておったその方法を、灼将は拾い上げた。

剣でも、呪でもない。

己を整え、理解し、制御するための技。


「……ふぅ」


最後の循環を終えたところで、扉の外から足音が近づく。


「将」


若頭の声。


「街の南部にて、諍いが発生しておりましたが――」


「交渉に行かせた件じゃな」


「はい。ご指示どおり、言葉で済みました。被害も最小です」


「生き残りはこの街にて保護しております。」


灼将は目を開け、ゆっくりと立ち上がる。

額から一筋、汗が落ちた。


「ご苦労じゃ」


若頭は無言で手拭いを差し出す。

灼将はそれを受け取り、汗を拭った。


「詳しい話は、湯に浸った後聞くとしよう」


「承知しました」


二人並んで、浴場へ向かう廊下を歩く。

湯の気配が、空気を柔らかくしていく。


報告は簡潔だった。

感情のもつれ、利の衝突、そして落とし所。

灼将は頷くだけで、口を挟まぬ。


「……うむ、問題あるまい」


そう言って、灼将は浴場の暖簾をくぐる。


「では、将。ごゆるりと」


若頭は一礼し、その背を見送った。


湯の中に身を沈めながら、灼将は目を閉じる。


魔力は、まだ体内を静かに巡っていた。


風呂から上がり、邸宅での細かな決裁を終えた後。

灼将は外套を羽織り、ひとり街へ出た。


温泉街は、いつも通りじゃ。


立ちのぼる湯気。

湯屋の前で交わされる笑い声。

土産を並べる商人たちの呼び声。


誰も急いではおらず、誰も怯えてはおらぬ。

昨日と同じ一日が、今日も続いている。


「将、今日はお一人ですかのう」


声をかけてきたのは、路地角の饅頭屋の老婆だった。


「うむ。腹は減っておらぬが、顔は見せておかねばな」


「それはそれは。相変わらず律儀なお方じゃ」


灼将が軽く頷くと、老婆は誇らしげに胸を張る。


「この街は将がおるから、湯も人も落ち着いとる」


「そう思うなら、わしはそれでよい」


饅頭を一つだけ買い、懐に収める。

代金を受け取った老婆は、深く頭を下げた。


通りを進めば、商人が声を張り上げる。


「将! 新しい布が入りましてな!」

「ほう。派手すぎぬか」

「灼将様の目なら、落ち着いた色もございますとも!」


「今日は見ぬ。買い物ではないのじゃ」


「それは残念。ですが、またお越しください!」


軽い会話。

軽い笑顔。


誰も、将が胸に抱える重さなど知らぬ。


灼将は、書物を扱う店だけを選び、足を運ぶ。


小さな店。

古い棚。

紙の匂い。


「いらっしゃいませ……おや、将」


店主は驚きながらも、すぐに姿勢を正す。


「何をお探しで?」


「人の書じゃ。歴史でも、理でも、構わぬ」


「人の、ですか」


「うむ。わしの私物として読む」


店主は一瞬だけ考え込み、棚の奥へ向かった。


「最近入ったものでは……これなどは」


差し出された数冊の書。

武の指南ではない。

戦の記録でもない。


人が、どう生き、どう抗い、どう備えてきたか。

そんな記述ばかりが並んでいる。


「よい」


即答だった。


「まとめて頂こう」


「……将が、そのような書を?」


「騒ぎにするほどのことではない」


灼将はそう言って、代金を置く。


誰かに命じて集めさせれば早い。

だが、それはせぬ。


これは、将としてではなく、

灼将自身が読むべきものじゃ。


店を出ると、子どもたちが駆け抜けていく。


「わっ、灼将様だ!」

「ほんとだ!」

「湯の神様みたい!」


「こら、走るでない。転ぶぞ」


「はーい!」


笑い声が遠ざかる。


灼将は立ち止まり、街を見渡す。


何も変わらぬ。

変わってはならぬ。


だが、この日常を守るために、

将だけが知るべきことが、確かにある。


灼将は抱えた書物を胸に、再び歩き出した。


夜の邸宅は静まり返っていた。

街の湯気も、笑い声も、すでに夢の向こうじゃ。


燭台の火だけが、書見台を照らしている。


灼将は椅子に腰掛け、昼に集めた書物を一冊ずつ開いていった。

頁をめくる指はゆっくりで、急ぐ気配はない。


戦の記録。

魔法の理論。

魔族に対抗するため、人が積み重ねてきた工夫の数々。


「……ほう」


思わず、声が漏れる。


人は、力で劣ることを知っておる。

だからこそ、別の道を探した。


魔力を効率よく巡らせる鍛錬法。

少ない魔力を最大限に活かす術式。

集団で扱うことを前提とした魔法陣。


どれも、魔族から見れば回りくどい。

だが、無駄ではない。


「賢いのう……実に」


感心と共に、わずかな苦味が混じる。


別の書を開く。

今度は武器と防具の変遷。


刃の材質。

加工の工程。

流通経路と生産量。


灼将の目が、ある記述で止まった。


「……戦場に出る前に、勝負がついておる、か」


剣を振るうより先に。

魔法を放つより前に。


武器は作られ、運ばれ、配られる。

それが届く場所で、勝敗の天秤はすでに傾いている。


「力ではない……流れ、か」


人は、流通で戦っておる。


物が動き、金が動き、情報が動く。

その先で、剣が抜かれる。


灼将は、別の頁に視線を落とす。


「……なるほどのう」


皮肉が混じる。


「わしらの力を、わしらより先に使うか」


同時に、警戒が生まれる。


これは剣よりも早い。

魔法よりも遠くへ届く。


「剣より先に届くもの……」


その言葉が、胸の奥で静かに反響した。


書を閉じ、別の一冊を取る。

今度は魔法術の理論書。


人が、魔族を想定して編み出した術。

効率、再現性、安全性。


読めば読むほど、

人は「勝つ方法」を探してきたのではない。


「……生き残るため、か」


その必死さに、わずかに息を吐く。


燭台の火が、短く揺れた。


どれほど頁をめくったか、わからぬ。

夜は、すでに深い。


「将」


控えめな声が、背後からかかる。


「夜も更けてまいりました。そろそろお休みになられてはいかがでしょう」


若頭じゃ。


「……わかっておる」


灼将は、視線を書から離さぬまま答える。


「下がってよいぞ」


「は」


足音が遠ざかる。


灼将は、最後の頁をめくった。


文字を追い、

行間を読み、

ゆっくりと目を上げる。


「……これじゃ」


小さな呟きが、静かな室内に落ちた。


燭台の火が、また一度、揺れた。

つづく

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