人の闇、人の光
第百十四話
人の闇、人の光
光の力が、静かに空間から引いていく。
先ほどまでそこにあったはずの亜人の姿は、すでになかった。
魔力のうねりも、循環も、嘘のように消え失せている。
「だぁー! 疲れたぁー!」
シェリスはそう叫ぶと、
そのままベッドにぼふっと身を投げ出した。
「……これで、この施設も完全に機能を失う」
フィロはそう言いながら、倒れ込んだシェリスに目を向ける。
「過去の遺恨も、ここで止まった。
よくやったぞ」
だが返事はない。
シェリスはすでに寝息を立て、
いびきをかきながら眠りに落ちていた。
フィロはその様子を見て、ほんのわずかに口元を緩める。
「……オリヴェット」
リラの近くで少女を見守っていたオリヴェットが、
フィロの元へ歩み寄る。
フィロの指さす先を覗き込み、
オリヴェットは理解したように笑顔を浮かべた。
そのまま背負っていた巨大な矢筒の背面を開き、
折り畳まれた椅子を展開する。
眠ったままのシェリスを軽々と乗せ、背負い直した。
「危険は解除された」
フィロは空間を見渡しながら告げる。
「一度、街に戻る。
解決の報告と、正式な記録の作成だ」
リラは少女の両手を取り、
静かに、何かを語りかけていた。
「……リラ、撤収だ」
その声に、リラが顔を上げる。
「フィロさん……この子……」
少女を見つめながら、言葉を続ける。
「表情が……戻ってます。
少しだけですけど、変わってます」
フィロは少女の様子を一瞥し、うなずいた。
「シェリスの治療を受けた。
劣化していた機能が回復し始めたのだろう」
一拍置いて、続ける。
「時間はかかるが……
いずれ、通常の生活ができるはずだ」
それと――
フィロは少女の前に歩み寄り、静かに告げる。
「お前の名は、
リオラ・ムーンフォードだ」
「忘れるな」
それだけを言い残し、踵を返す。
その背中を追うように、
シェリスを背負ったオリヴェットが続いた。
「……リオラ」
リラはその名を繰り返し、少女の目を見つめる。
「私と、ちょっと似てるね。リオラ」
そう言って、少女を抱きかかえ、
フィロたちの後に続いた。
地上へ戻った一行を、変わらぬ風が迎えた。
「この入り口は封じておく」
フィロは洞窟の奥を振り返りながら告げる。
「おそらく出入口はいくつかあっただろうが、
モルファイト輸送用だった以上、ここは特に強固に作られていたはずだ」
そう言って、魔法陣に手をかざす。
次の瞬間、陣に残っていた魔力がフィロ自身の魔力によって吹き飛ばされた。
刻まれていた文字は、削られたのではない。
まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去る。
「これで、この出入口は向こう側から繋がれなければ使用できない」
リラが一歩前に出る。
「でも……施設自体はもう無力化したんですよね。
それなら、本国の調査隊に任せて調べさせるべきではないでしょうか」
フィロは一瞬考えるように目を伏せ、答える。
「それも検討した。
だが、あの異常な研究を除けば、内容の多くはすでに現代に受け継がれている」
そこで、フィロは懐から一冊の本と、数枚の書類を取り出した。
「それに……」
リラが目を向ける。
「それは?」
「リラ。お前の判断があったからこそ、持ち出す必要が生じたものだ」
紙束を軽く示しながら、静かに続ける。
「世界中、どこにも存在しない。
――唯一のモノだ」
リラはまだ実感が湧かない様子で、その紙束を見つめていた。
「では、街に戻る」
フィロはそう言って踵を返す。
「そこまで時間は経っていない。
シェリスが不在でも、問題なく出れるだろう」
出口へ向かうと、すでにオリヴェットが待っていた。
帰路の安全は、確認済みなのだろう。
リラは少女をそっと地面に下ろし、手を取って歩き出す。
少女の表情が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬、戸惑うように。
それでも確かに、自分の足で地を踏みしめていた。
その夜。
部屋から、光は消えていなかった。
フィロとリラがテーブルに向かい、報告書を書き上げている。
シェリスと少女、オリヴェットも、捜索から戦闘までの疲れが出たのか、
ベッドに横たわり、同じように静かな寝息を立てていた。
リラがペンを止め、ふと思い出したように口を開く。
「そう言えば……どうしてあの子……リオラの名前を?」
フィロは書類から目を離さず答える。
「記載があった。
あのベッドは、リオラの物だった」
「……ずいぶん扱いが違いますよね。
それに、異形化もしていませんでしたし」
「第一号だ」
リラが顔を上げ、疑問を投げかけるようにフィロを見る。
「被検体第一号。
それがリオラだ」
「どうして……まだ小さな子なのに、こんな実験に……」
フィロは一度だけペンを置く。
「道を外したのは、同じ研究を行っていた者たちだ。
リオラが被検体になった理由は、生まれつき心臓に病を患っていたからだ」
「……だから、心臓が?」
フィロは一つうなづく。
「今なら施設さえあれば十分治療できる。
だが当時の医療、魔法技術では不可能だった」
静かに言葉を継ぐ。
「我が子を生かすために研究し、実行した。
その結果が、リオラという存在だ」
「親として……子を生きながらえさせるために……」
「そうだ。
愛情が深すぎた結果、人として踏み外しても進んだ」
リラは小さく息を吐く。
「……その研究の先が、あの異形たちだったんですね」
「リオラが異形化しなかったのは、
心臓そのものを移植されたからだろう」
「他の個体は……」
「血液や、器官の一部を注入された。
魔力に耐えきれず壊れ、だが魔力で補修され続けた結果だ」
「……あの形に」
「今でも魔力の暴走で動けなくなる者はいる。
当時なら、なおさら止められなかっただろう」
リラはしばらく沈黙し、続ける。
「……でも、研究は続けられた」
「あぁ。研究とは探求だ。
結果を求める以上、止まらなかった」
フィロは視線を落とす。
「気分の良い話ではないが、
当時の研究者の考えは、理解できなくもない」
「……私は、わかりません」
リラは首を振る。
「いえ……わかりたくない、だけです」
フィロは静かに語る。
「当時は不十分な魔法、装備、戦術で、多くの人が散っていった。
人々が研究者を空へ送り出した時、
その気持ちは、我々ARKを見送る人々と同じだったはずだ」
「過剰な期待が、道を踏み外してでも進む理由になった。
今とは状況が違う。」
リラは再び書類に視線を落とし、報告書を書き進める。
「……同じ状況になれば、
また道を踏み外す技術を生み出そうとするんですよね」
少し間を置いて。
「……やっぱり、私の判断は間違ってました。
今更ですが、ご心配をおかけしました」
フィロはリラの目を見て、はっきりとうなづく。
「我々は本国から選ばれた、魔族に対する可能性だ。
安易な判断は許されない。
今後は、より冷静に判断しろ」
一拍。
「……だが」
フィロは視線を戻しながら言う。
「お前のその性格は、捨てるな」
リラは一瞬驚き、そして小さく笑った。
朝の光が宿の食堂に差し込んでいた。
大きな卓の中央には、成功を祝うかのように積み上げられたロブスターの山がある。
それを見た瞬間、ただ一人、目を輝かせた者がいた。
「ひゃっほー! こいつだよこいつ! 働いた後はこいつだよなあ!」
シェリスはそう叫ぶと、山の一つを鷲掴みにし、席にも着かずに殻を割る。
飛び散るしぶきを、フィロは慣れた手つきでナプキンで受け止めた。
「喜ぶのはいいが、周囲に迷惑をかけるな。下げさせるぞ」
「へいへい。ちょっとぐらい、いいだろうが」
そう言いながらも、シェリスは席に腰を下ろし、豪快にかぶりつく。
「リラが選んだものだ。しっかり食っておけ」
「今回はシェリスさんには大変お世話になりましたので」
リラは微笑みながら言った。
「予算の増額については、フィロさんではなく私から依頼しておきました。たくさん食べてください」
「まあ、これくらいで足りるようなもんじゃねえけどな!」
シェリスは次のロブスターを割り、ガハハと笑う。
その隣で、少女――リオラは、オリヴェットに丁寧に切り分けられた身を前に、固まっていた。
「食べ物ですよ」
リラはフォークを取り、ゆっくりと身を口に運ぶ。
「今までは必要じゃなかったかもしれないけど、これからは食べないと生きていけないからね」
リオラはリラの顔を見つめ、それからシェリスを指さした。
「ん? この食い方に興味あんのか?」
シェリスはきょとんとしたあと、にやりと笑う。
「わかってんじゃねえか。ほら、持てよ」
そう言って、茹で上がったロブスターを丸ごと手渡した。
「こうやって爪を持ってだな、ねじって引っ張り出すんだ。ほら、やってみろ」
見よう見まねで引っ張るが、外れない。
シェリスは見ていられないとばかりに手を添えた。
「こうだ。ぐいっとな」
殻が外れ、汁が少しリオラの頬にかかる。
「まだまだだな!」
リオラは手で頬を拭い、しっぽを見つめる。
「そのままかぶりつくんだよ。うめえぞ」
シェリスが先にかじるのを見て、リオラも同じように口に運ぶ。
一度、二度と噛みしめ――
「……おいしい」
小さな声だった。
「だろ? だろ?」
シェリスは満足そうに、両手でロブスターを抱え込む。
その様子を、フィロ、リラ、オリヴェットは静かに見守っていた。
朝の時間が過ぎ、一行は港へと向かった。
リオラはリラに手を引かれ、その隣にフィロが立つ。
「リラ。決心はついたか」
「はい。家族も国で待っています。一人増えるだけですから」
「そうか」
フィロは革で束ねた紙の束をリオラに差し出した。
「その本は、絶対に失くすな。いいな?」
意味を完全には理解していない様子で、リオラは小さくうなづいた。
リラはしゃがみ込み、リオラの目を見て言う。
「言葉を学んだり、治療やリハビリをするための場所に行くの。
私たちはずっと旅をしてるから、ちゃんとしたところで治すの」
リオラは黙って見つめ返す。
「私たちの旅が終わったら、ちゃんと会えるから。
それまでに体を治して、元気な姿で会おうね」
リラが頬を撫でると、リオラはその手に頬を押し付けた。
「本国へ向かう船だ」
フィロは船影を見やる。
「資源大国だからな。定期便があって助かった。手配は済んでいる。あとは――」
リオラは船を見て、フィロを見る。
小さく頭を下げ、次にリラへ、オリヴェットへ。
最後にシェリスを見て――
「……ありがとう」
そう呟いた。
フィロの隣に中年の女性が歩み寄る。
「船旅の間、世話をする者だ」
「少しの間だけど、よろしくね。さみしいだろうけど」
リオラは首を小さく振り、女性のそばへ寄る。
「賢い子だね。じゃあ、行こうか」
うなづき、船へ向かう背中が、人波に紛れていく。
四人はその姿を見送った。
リラは手を振り、
フィロとオリヴェットは静かに見守り、
シェリスは鼻をかきながら立っていた。
リオラは一度だけ振り返り、手を振る。
そして、その姿は完全に船の向こうへ消えた。
「人間の問題は一つ解決した」
フィロは踵を返す。
「次は、魔族の問題を解決するぞ」
そう言って、再び街へ向かって歩き出した。
つづく




