壊れた応用
第百十一話
壊れた応用
白い影は、すでに上空にあった。
音もなく、
風すら置き去りにする速度で、
その背へと回り込んでいる。
二対の短剣は、迷いなく。
後頭部――
正確には、うなじと呼ぶしかない位置を、
すでに間合いに収めていた。
フィロは空中で体をひねり、
一瞬だけ対象を見下ろす。
「魔力が……濃すぎたな」
呟くと同時に、
両手の短剣を、ためらいなく突き立てる。
刃は、確かに刺さった。
だが――
抵抗は、切断ではなく、飲み込みだった。
粘ついた体液がわずかに飛散し、
短剣を握った両腕ごと、
そのまま体内へと引きずり込まれていく。
「――っ」
フィロの表情が、わずかに歪む。
「……完全に、一個体ではなかったか」
締め上げられる前に、
即座に両手を引き抜く。
肉と肉が剥がれる、不快な感触。
そのまま巨体を踏み台にし、
反転。
宙を蹴り、距離を取る。
次の瞬間、
そこに在ったものが、はっきりと姿を現す。
それは、ひとつの身体ではなかった。
かつて身体だったものが、
いくつも、いくつも束ねられ、
縫い留められ、
絡め取られた結果の、形だけを模した塊だった。
胴体と思しき部分が、いくつも重なり合い、
それぞれが異なる周期で鼓動している。
早いもの、遅いもの、止まりかけているもの。
そのずれが、空間に不快な拍動音を撒き散らしていた。
呼吸もまた統一されていない。
肺だったものが、胸だったものが、
それぞれ勝手に空気を吸い、吐き、
湿った音と、掠れた吐息と、
意味を持たない呻きが、重なり合っている。
四肢は数を成していなかった。
腕だったもの、脚だったものが、
関節の向きを無視して絡み合い、
地面を掴み、引きずり、
時折、目的もなく痙攣する。
その表面を覆うのは、皮膚とも鎧ともつかない層。
縫合痕が無数に走り、
切り取られた跡が、無理やり塞がれている。
そこから、淡く光る魔力が滲み出し、
まるで汗のように垂れ落ちていた。
そして、顔。
一つではない。
前を向くもの、横を向くもの、
うつむいたまま動かないもの。
瞼が閉じたままの眼、
開いたまま乾ききった眼。
それらが、ばらばらに周囲を見回している。
視線は揃わず、
意思も統一されず、
だが確かに、そこに存在するものを
「敵」として認識している。
肉が擦れ合う音。
骨が軋む音。
魔力が循環する、濁った流れの音。
それらすべてが混ざり合い、
一つの巨大な影として、
ゆっくりと、ゆっくりと動き出す。
それは、
生き延びるために作られ、
壊れた末に残された、
人の手による破壊者だった。
その巨体から、魔力の高まりを感じた。
前触れは、なかった。
次の瞬間――
全方位へと放たれる、
熱線、冷線、雷線、光線。
ありとあらゆる色が、
空間そのものを塗り潰す。
だが、それは暴発ではない。
壁を焼かず、床を割らず、
ただ、狙われたものだけを貫くために制御された魔法だった。
フィロは即座に自身の前へ障壁を展開する。
オリヴェットは、
一瞬でシェリスの背後へ滑り込み、
放たれた色を、そのまま相手へと叩き返す。
リラは少女を抱え込んだまま、
盾を前へ構え、防御に徹する。
ほんの刹那の出来事だった。
だが、嵐が過ぎ去ったあと、
まるで長い時間が流れたかのように、
新鮮な空気が空間へと流れ込む。
白い影が、駆け抜ける。
巨体を中心に円を描くように回り込み、
シェリス、オリヴェットと合流する。
オリヴェットと共に、
一息で距離を詰める。
巨体は、まとまった足の塊を大きく開き、
多色の光を纏った蹴りを放つ。
フィロは、跳ぶ。
オリヴェットは、潜るように。
同時にその一撃をかわす。
宙へ舞い上がったフィロは、
顔の正面で光の翼を広げる。
今度は、空間そのものが白に染まる。
――と同時に。
重い音が、空気を押し潰した。
オリヴェットが、
その巨体を殴り上げていた。
巨体が宙を舞う。
巨体が地に伏せる。
だが、終わらない。
背中と思しき部位から、
手足が伸び、絡み合い、
その反動だけで体を起こす。
起き上がった胴体の中央には、
大きな穴が穿たれていた。
そこへ、リラが槍を構えて突撃する。
巨体に組みついていた個々の部位を、
その重量と勢いで弾き飛ばす。
次の瞬間、
オリヴェットが勢い余るリラを掴み、
壁へと着地させる。
止まらない。
そのままの勢いで、
今度はリラを、巨体へと押し返す。
踏み込みの脚力と、
押された反動を重ね。
リラは、盾を正面に掲げ、
真正面からぶつかる。
破裂音がした。
――そう思った、直後。
音が、空気が、
一瞬だけ、消えた。
短い静寂。
そして、衝撃波。
組みついていた、
あらゆる人の部位が、
空間にはじけ飛ぶ。
その破片を、
白の閃光が追いかける。
削り、刻み、砕いていく。
地面に落ちるころには、
それらはすでに、
ただの肉片へと形を変えていた。
フィロは、散らばった肉片を一つ一つ見回した。
「――ひとつ残らず破壊した。
もう、再生は困難だろう」
それを聞いたシェリスが、突然声を荒げる。
「だぁ!
なんでこいつを私の上に置いたんだ、くそが!
どけ!」
そう言って、自分の膝の上に置かれていた少女を蹴り飛ばす。
少女は転がりながらも、
感情のない声でただ一言。
「わからない」
フィロは視線を外さず、淡々と説明する。
「オリヴェットの格闘はパワーがある。
だが、貫通力が高すぎると判断していた」
一拍置き、続ける。
「この個体を殲滅するには、
重量と、**当てる“面”**が必要だった」
シェリスを見る。
「その隙を作るためのオリヴェット近くに居たのがお前だった。
だから、そこに置いただけだ」
間髪入れず、断言する。
「どこに居たとしても、
そいつが傷一つつくことは無い」
リラが、静かに口を開く。
「……攻撃の角度が、少しおかしいとは思っていましたが」
少女を見つめながら、言葉を続ける。
「やはり、この個体。
同士討ちだけは、絶対にしないよう制御されていたんですね」
フィロは短く肯定する。
「ああ。
リラの盾の状態を見て判断した」
一瞬だけ、視線を落とす。
「結果としては、
どちらでも問題はなかったがな」
シェリスが、舌打ちをしながら服を払う。
「こんな気味わりぃもん、近くに置くな!」
それに対し、リラは首を振る。
「いえ……」
少女の方へ一歩近づき、言い切る。
「この子を私が抱えていなければ、
脚は突撃に耐えられていませんでした」
盾に残る歪みを見せるように。
「この子を抱えていたからこそ、
めいっぱい踏ん張れたんです」
フィロは、リラの眼を正面から見た。
そして、小さく息を吐く。
「……反省会と報告会は後だ」
剣を納め、周囲を見渡す。
「まだ、このような個体が
他に居ないとも限らん」
声が、引き締まる。
「早急に調査に向かう」
「オリヴェット。案内しろ」
オリヴェットは一つ、確かにうなづき、
隠された場所へと続く道へ歩き出す。
リラは、改めて少女の手を取り、後に続いた。
最後に、
シェリスが一度、つばを吐き捨てる。
不機嫌そうに、
それでも無言で歩き出した。
つづく




