基礎の場所
第百十話
基礎の場所
建物の中は静かだった。
石ではない。冷たさのない、古い木材の匂いが残っている。
壁も床も簡素で、装飾らしいものはほとんど見当たらない。
中央だけが、わずかに開けていた。
段差も仕切りもない、ただ平らな床。
長く使われてきた痕跡だけが、木目に残っている。
その空間に足を踏み入れた瞬間だった。
少女は立ち止まり、
誰の顔も見ず、
何かを確認するような素振りも見せず、
そのまま静かに腰を下ろした。
足の形は整っていない。
作法めいたものもない。
だが、座った瞬間、背だけが自然に伸びた。
動かない。
呼吸はしている。
けれど、それは人が休むための呼吸ではなかった。
流れを絶やさないための、一定の循環。
この場所に来ることが、
彼女にとっては「日常に戻る」ことなのだと、
説明されなくても分かってしまう。
リラは思わず足を止めた。
フィロも、口を挟まない。
誰も何も言わないまま、
少女はその場に“収まった”。
研究棟は、何も変わらない。
ただ、ひとつの被検体が、
正しい位置に戻っただけだった。
その空間に足を踏み入れた瞬間、
少女はリラの手を、静かに離した。
「あっ……」
思わず漏れたリラの声にも振り返らず、
少女は空間の中央へと歩み出る。
敷かれた柔らかな床材の上に座り、
背筋を伸ばし、目を閉じる。
誰かに教えられた様子もない。
促されたわけでもない。
ただ、そこが“そうする場所”であるかのように、
自然な動作で呼吸を整え始めた。
一定の間隔。
深く、静かな呼吸。
フィロが、その様子を見つめながら低く呟く。
「……魔力の基礎鍛錬か」
リラが少女とフィロを交互に見て、言葉を選ぶ。
「これって……もしかして、
彼女の普段の生活、なんでしょうか」
フィロは一度だけ視線を落とし、考えるように答えた。
「私の仮説が正しければ、だがな。
魔族の器官を移植された場合、種族によっては寿命は大きく延びる」
少女を一瞥し、続ける。
「だが、今となっては人間の器官は衰えている。
意識が保たれている間に、
ただ“できたこと”を繰り返していたのだろう」
その言葉を、シェリスが鼻で笑うように切る。
「……けっ」
フィロは気にも留めず、少女から視線を外す。
「逆に都合がいい。
こちらから注視しなくとも、変化が分かりやすくなる」
リラが一つ、うなずいた。
「では、同じように調査を始めますか?」
「あぁ。
この施設に来て、あの行動を取る以上、
同様の個体が他に居ても不思議ではない」
リラは書類の山へ向かい、
散らばった資料を拾い集め始める。
シェリスは周囲を見回し、肩をすくめた。
「んで、ここ。
本、あんまねえみてえだが、どーすんだよ」
「不用意に置いているとは思えん。
だが、何も無いとも限らん。始めるぞ」
「ちぇ……」
ぶつくさ言いながら、シェリスも本を一冊手に取る。
それぞれが調査に入った静かな時間。
フィロは書類をめくりながら、独り言のように語った。
「……ここは魔法の基礎中の基礎を研究していた場所だな」
「だが、後世では“基礎”と呼ばれているだけだ。
この時代では、十分に革新的な発見だったはずだ」
シェリスが顔も上げずに返す。
「私はそんなの習った覚えねえけどな」
「教会では教わらなかったのか」
「ほとんど寝てたからな」
軽く鼻で笑うシェリスに、フィロは短く頷くだけだった。
「……ふむ」
そのまま、再び書類に目を落とす。
ほどなくして、リラが何冊か抱えて戻ってきた。
「フィロさん。
挿絵付きの書類をいくつか見つけました」
「どれも見覚えがある内容で、
そこまで重要には思えませんが……一応」
フィロは受け取り、ざっと目を通す。
「うむ。研究経過の記録だろうな。
リラ、お前も見覚えがあるはずだ」
リラは挿絵を見つめ、記憶を辿る。
しばらくして、ぽん、と拳を掌に当てた。
「あ……教科書の!」
「そうだ。
魔法を使用するための体内循環、増長、集中。
今では初歩だが、この時代では魔法は不安定だった」
「この発見は、人にとっては大きな前進だったはずだ」
リラは改めて書類を見下ろす。
「ここで研究されたことが、
今の魔法の基礎になってるんですね」
「そうだ。
この基礎がなければ、魔石もルクヴォイドも、
ただの固体に過ぎなかった」
一瞬だけ言葉を切り、
フィロは視線だけでシェリスを追う。
「……一人の例外を除けば、だが」
リラは苦笑気味に。
「才能……ってことですよね」
「その一言で済めばいいがな」
そう言ったところで、
オリヴェットが静かに戻ってきた。
「オリヴェット。
同様に変化は無しか?」
首を横に振る。
「……なるほど。隠し通路があったか」
フィロの声音が低くなる。
「やはり、ここが問題の場所だな」
リラが息をのむ。
「それが……今回の現況の――」
「あぁ。シェリ――」
名を呼びかけた、その瞬間。
光が走った。
咄嗟にフィロが障壁を展開し、
魔法は空間で弾け、鈍い爆音を残して消える。
「……なるほど」
フィロは剣に手をかけながら、静かに言った。
「オリヴェットに見つかった段階で、
動き出したか」
三人が即座に戦闘態勢に入る。
遅れて振り返るシェリス。
「……なんだぁ?」
その一方で、
少女は何一つ反応せず、目を閉じたまま座り続けていた。
異変を察知した瞬間、
最初に動いたのはリラだった。
少女のもとへ駆け寄り、その身体を抱え込むように懐へ引き寄せる。
盾を前に構え、背を丸め、防御姿勢を取る。
同時に、空間が歪んだ。
壁が脈打つように盛り上がり、
床が裂け、
天井からは“何か”が垂れ落ちる。
受け身も取らず、
肉の塊が地面に叩きつけられる鈍い音。
立ち上がるそれらは、
人であって、人ではなかった。
腕が五本あるもの。
肘や膝が逆に折れ曲がったまま歩くもの。
首から上が存在しないまま、魔法を構えるもの。
距離は近い。
あまりにも近い。
湧く、という表現が最も正しい。
空間そのものが異形を吐き出しているかのように、
次々と数を増やしていく。
そして――
嵐のように魔法が放たれた。
火炎。
氷槍。
水流。
風刃。
雷光。
石柱。
属性の区別もなく、
空間を埋め尽くすように飛び交う。
オリヴェットが、前に出る。
矢を放つ暇すらない距離。
一気に間合いを詰め、
敵の集団の中へ踏み込む。
一体を掴み、
まるで紙屑を投げるかのように、別の個体へ叩きつける。
肉体同士が衝突し、
形が崩れ、
次の瞬間にはまた別の異形を掴み上げて投げる。
リラは動かない。
動けないのではない。
動かない。
少女を抱え、盾を構え、
降り注ぐ魔法と肉片をすべて受け止める。
フィロは、オリヴェットが崩しきれなかった個体を狙う。
顔のあるものは首を。
顔のないものは四肢を。
無駄な動きは一切ない。
切り落とし、次へ。
切り落とし、また次へ。
そして――
シェリス。
彼女に向けられた魔法は、
触れた瞬間、消える。
否。
消えるのではない。
吸い込まれるように、
術者へと“還っていく”。
放った火に焼かれ、
放った氷に凍り、
放った刃に刻まれる。
シェリス自身は動かない。
欠伸を一つ噛み殺し、
まるで舞台を眺める観客のように状況を見ている。
いくつ倒したのか。
数える意味すらない。
最後の一体が、
音もなく崩れ落ちた時点で、
勝敗は決していた。
フィロが剣を納め、口を開く。
「――この先に向かうぞ」
その言葉が終わる前だった。
視界が、暗転する。
空気が押し潰され、
重低音が耳の奥を叩いた。
何かが――落ちた。
床が悲鳴を上げ、
空間全体が大きく揺れる。
リラの視界から、
フィロの姿が消えた。
そこにあったはずの場所には、
巨大な“影”だけが広がっている。
次の瞬間、
爆音と共に床が沈み込み、
砕けた石片と金属音が跳ね上がった。
人間や魔族の体躯が絡み合い、
一つの巨大な人型を模倣する存在。
無数の顔。
無数の胴。
無数の手。
無数の足。
――その“足元”に、
フィロの姿は、ない。
まるで最初から
存在しなかったかのように。
つづく




