森そのもの
第百三話
森そのもの
朝、空が白みきる前、
オリヴェットはすでに山と森の境に身を伏せていた。
地面に残る夜の名残。
葉に溜まった朝露を指先で集め、舌に乗せる。
冷たい水分が喉を潤す。
呼吸を整え、耳を澄ます。
風の流れ。
木々の擦れる音。
遠くで跳ねた小動物の気配。
羽ばたきの回数で分かる鳥の種類。
ここでは、すべてが言葉だ。
声を出さずとも、森は情報を与えてくる。
人が踏み荒らした痕跡はない。
獣が怯えて逃げた形跡も、まだ薄い。
それでも――
何かが、ある。
自然のリズムに、わずかなズレが混じっている。
オリヴェットは身を低くし、
影と同化するように移動を始めた。
昨晩のことだ。
宿の一室。
食事が終わり、空気が緩んだ頃。
シェリスが椅子に足を投げ出し、吐き捨てる。
「で?
この筋肉女の何があるってんだよ」
フィロが静かに答えた。
「オリヴェットは元より山で生活していた」
「はぁ?」
「山岳や森林では、
我々では感じ取れないものが見えるはずだ」
オリヴェットは、その言葉を聞いて、
小さく、しかしはっきりと二度うなづいた。
リラが腕を組み、息を吐く。
「正直……
情報がなさすぎます」
「被害は出ている。
でも、拠点も、目的も分からない」
「正攻法では、どうしようもないですね……」
シェリスが舌打ちし、椅子から降りる。
「チッ……」
そのまま、オリヴェットの脛を軽く蹴った。
「てめぇ、
ホントに見つけられるんだろうな」
突然の一撃に、オリヴェットは目を潤ませながらも、
必死に、何度も縦に首を振った。
フィロが低く言う。
「そこまでにしておけ」
シェリスを一瞥し、
そしてオリヴェットに向き直る。
「この後、すぐ行けるな?」
オリヴェットは、迷いなくうなづいた。
言葉を持たず、
ただ森と向き合いながら。
何かを――
見つけるために。
夜明けはすでに過ぎていた。
太陽はまだ低い位置にあり、森の奥まで光は届いていない。
岩陰に身を伏せていた影が、わずかに動く。
呼吸は浅く、長い。
胸の上下はほとんど見えず、身体の熱も抑えられている。
周囲では、森がいつも通りの朝を迎えていた。
枝の擦れる音。
遠くで折れる小枝。
湿った土の匂いと、わずかに残る夜の冷気。
その中に、異物はない。
影はゆっくりと首を上げる。
風の向きが変わったことを、皮膚より先に理解していた。
森の空気が流れる方向に、わずかに身をずらす。
それだけで、準備は整った。
歩き始めても、足音は生まれない。
踏みしめる前に重心が移り、葉は避けられ、枝は触れられない。
小鳥が近くの枝に止まる。
逃げる様子はなく、警戒の気配もない。
伸ばされた手に、鳥は自然に乗った。
羽の温度、鼓動。
それを確かめるように、わずかに指先が動く。
獣が足元を横切る。
こちらを一瞥することもなく、草を踏み分けていく。
羽虫が集まり、また散る。
空気の流れに沿って、森の奥へと導かれる。
言葉はない。
ただ、呼吸と、微かな喉の振動だけが伝わる。
通じたかのように、
小鳥は空へ。
獣は街道の方角へ。
羽虫は森を抜けていった。
その場で、影は膝を折る。
水の通り道に残った泥を掬い、腕、頬、首元へと塗り広げる。
体温と匂いを消すためではない。
森の一部になるためだ。
風が鳴る。
木々が揺れる。
光と影が交差する。
影は、完全に溶け込んだ。
時間の感覚は、すでに曖昧だった。
動かず、考えず、ただ伏せる。
変化は、音ではなかった。
匂いでも、気配でもない。
ほんのわずかな、流れの乱れ。
森が持つ一定の律が、ほんの一拍だけずれる。
枝の擦れる間隔。
葉の落ちる順序。
鳥の鳴き声が途切れる位置。
それらが同時に起きた。
小鳥が、森の奥から一斉に離れる。
獣たちが街道へ向かって走り出す。
羽虫が、木の幹に張り付くように止まる。
影は動かない。
呼吸すら、森に預けたまま。
そして、
遠くから――人のものに近い足音。
数は少ない。
規則性があり、迷いがない。
それはまだ遠い。
だが、確実にこちらへ向かっている。
影は、風下を保ったまま、
静かに、待った。
足音は、森の呼吸に溶け込むように近づいてきた。
一定の間隔。
重さを抑えた踏み込み。
だが、自然のものではない。
影は動かない。
目も閉じない。
ただ、森と同じ速度で存在していた。
視界の端に、影が差す。
人に近い輪郭。
数体。
彼らは、探している。
しかし、それは目で見る行為ではなかった。
飛来する魔力が、周囲をなぞる。
空気を撫でるような感覚が、影のすぐ横を通り過ぎる。
それでも、何も引っかからない。
そこに「いる」という情報そのものが、
森の中に埋没していた。
数体の影は、
岩を避け、木を回り込み、
ごく自然な動線で前を横切る。
距離は、伸ばせば届くほど。
だが、それは「触れられる距離」であって、
「認識される距離」ではなかった。
影の存在は、
音にも、匂いにも、魔力にもならない。
まるで、
最初からそこに“何もなかった”かのように。
足音は、通り過ぎていった。
獣たちが、視界の向こうを横切る。
逃げるように散り、
その後を、光の奔流が追う。
魔法が地面を穿ち、
木々の幹を焦がす。
獣は生き延びる。
四方へ散り、森へと溶けていく。
足音が止まる。
一拍。
二拍。
森の流れが、わずかに逆転する。
踵を返す動き。
走る気配。
影は、その瞬間に動いた。
音も、風も、揺れも伴わず、
風下を保ったまま距離を詰める。
地面の凹凸を利用し、
岩の影を辿り、
木の根の裏側へ。
追う、というよりも、
同じ流れに乗る。
森が途切れる。
土が減り、岩肌が露出する。
そこに、口を開けた暗がり。
洞窟。
数体の影が、
ためらいなく、その中へ消えていく。
影は、少し距離を取った位置で止まる。
入り口を、静かに見据える。
遠目からでも、十分だった。
行き先。
数。
経路。
必要なものは、すべて揃った。
影は、身を低くしたまま、
森の奥へと溶けていった。
つづく




