筆圧
それからしばらくして、かなたは西郷に宛てた手紙のことなど忘れるほど、駆け回っていた。
手紙を出した翌日には、鳥羽・伏見の戦いは終戦を迎え、敗北した旧幕府軍は大坂へと移動。
その報が届くや否や、傷跡の残る伏見一帯の復興作業が、新選組の手によって進められていた。
そんな復興作業も一段落し、避難民の帰還も済んだ三月半ば。かなたのもとに、一通の手紙が渡ってきた。
「中村さん、これ宛名が書いてないんですけど、開けてもいいと思いますか?」
そう言って手紙を持ってきたのは、相馬だった。
話によると、初老の男が「ここが新選組の屯所か」と訪ねて来たらしい。男は近くにいた相馬に手紙を手渡すと、すぐに立ち去ったのだという。
かなたは手紙を受け取ると、その紙の異様な質の高さに違和感を覚える。
(もしかして…?)
そう思い、薄目で恐る恐る封を開けるとそこには、見たこともない力強い筆致で『西』と記された署名があった。
「ひっ…!」
「どうしたんですか? いきなり手紙を畳んで」
思わず手紙を畳むかなたに、相馬は不思議そうに首を傾げる。
だがそんな相馬をよそに、かなたの心臓は今にも飛び出しそうなほど高鳴っていた。
そう、ついに来たのだ。あの西郷隆盛からの返事が。
「あっ、ちょっと! 中村さん!?」
相馬を置き去りにして、かなたはすぐさま近藤の部屋へと駆け出したのだった。
――――
「遂に…来たのか…」
「は、はい。『西』という文字が見えたので、間違いないと思います」
手紙を片手に、近藤の部屋へ着くなりそれを差し出したかなたは、自分以上に動揺している近藤をどうにか落ち着かせ、土方と山南を呼び寄せることに成功した。
そして今、ようやく手紙を開ける寸前までこぎつけたところだった。
「一応聞くが、西村屋からの手紙じゃねぇんだな?」
土方の言う『西村屋』とは、かなたが坂本伝いに縁を結んだ呉服商のことだ。会津藩預かりの頃から新選組に資金援助をしてくれている、いわば出資者のような存在である。
「ち、違うと思います! 西村屋さんなら必ず飛脚を通しますし、あんなに力強い署名は見たことありません!」
必死な形相でまくしたてるかなたに、山南は苦笑しつつ「まあまあ」となだめた。
「とにかく、開けてみましょう。それで分かりますから…」
その言葉に近藤も頷き、手紙に手をかける。だが――
「ああ! 緊張する!」
そう言って、先ほどのかなたのように手紙を閉じてしまった。
「近藤さん! 早くしてくれ!」
土方も苛立ちを隠せなくなってきたのか、痺れを切らして声を荒げる。
近藤はひとつ深呼吸すると、再び手紙に手をかけた。
「で、では読むぞ…」
勢いよく手紙を開き、近藤は一文字目からゆっくりと目を滑らせていく。
その沈黙がやけに長く感じられ、土方はたまらず口を開いた。
「どうだ?」
しかし、近藤は何も言わず、ただ黙って読み続けている。
「近藤さん?」
もう一度呼びかけると、近藤はぽつりと呟いた。
「…そうだ」
「え?」
「会ってくれるそうだ!」
その一言に、土方も山南も思わず言葉を失う。
「……本当かよ」
「まさか、応じてくれるとは思いませんでしたね…」
二人が驚くのも無理はない。西郷隆盛は、それほどの大人物なのだ。
かなたは安堵し、一息つくと、近藤へ視線を向けた。
「それで、話し合いの日はいつと書かれているんですか?」
「ああ、明日だそうだ」
「明日?! そ、それはいくらなんでも急すぎねえか」
土方はそう驚くが、こればかりは仕方がない。西郷ほどの人物が時間を割いてくれるだけでも、十分すぎるほどだ。
「手紙によると、明日しか時間が取れないそうだ」
差し出された手紙を受け取り、土方も目を通す。そして読み終えると、小さくため息をついた。
「こりゃ明日の商人たちとの会合は無しだな…今日も予定を調整して、明日に備えねぇと」
「そうですね。ここは意を決して、明日、指定の時間に伺いましょう」
「土方さん、私もお手伝いしますから、何でも言ってください!」
そう意気込む山南とかなたに、土方は気を引き締めるように一つ頷くと、早速、明日の準備に取り掛かるのだった。




