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長い夜再び・混乱

 私の名はヴァニティ。帝国軍の将軍だ。

 ふわりと風が動き,かすかな衣擦れの音を耳がとらえたのもつかの間。私の脚の横に立ったユーリエはこちらに身体を預けるようにして密着してきた。彼女の両腕はするり,と私の腕と胴の間をすり抜けて背中にそっと回される。

「…じょ…」

「もう…良いのです,将軍…」

 きゅっとこちらを抱きしめるようにしてこちらの言葉を制し,ユーリエはそれだけをつぶやく。

「…良い,とは?」

 しばしの沈黙の後,尋ねる。まるで何かを恐れているかのように,囁くようなかすかな声が出てしまう。

「もうこれ以上,自分で自分をお苦しめにならないで下さい」

「…?」

 突然の予想外の行動,そしてその行動とも全く脈絡を感じられない言葉に,頭がついていかない。

「…どういう…」

「将軍は,こちらへの配慮と本国からの要請の板挟みでお苦しみになっています」

「…う…」

「それはつまり…職責に忠実たらんとする将軍の足を,私が,アリシアが引っ張っているという事でしょう?」

「…いや…」

 違う。それはハンの使命なのだ。

「本国の要請とはつまり,陛下のご意向…つまりは陛下がそれを止めなかったという事でしょう?そうしなければ帝国は滅んでしまうのですから。元首としては,最優先でそれを避けねばならないのですから…」

「!…く…」

 そうはならない。ルマールが説得をしているだろうが,ハンはそれでも使命を…。

 しかしそれを口に出すことはできなかった。ユーリエが先に言葉を繋ぐ。

「貴方は優しい方…はじめは職責を全うするつもりだったものが,いつの間にかこんなにもアリシアを愛してくださるようになった…」

「…」

「ですが,アリシアは…そんな貴方の優しさに報いることができなくなってしまいました。差し上げられるものはもうほとんどすべて差し上げてしまいました…」

 心の声を聴こうとでもするかのようにこちらの胸に耳を押し当てて,ユーリエは言う。

「…何を言うのだ…それは我々が…」

 はじめから公平でなかったというだけの話だ。たとえ一時的にせよ,いずれは返すにせよ,その権限を奪っているのは間違いないのだ。

「いいえ」

 だがユーリエはそれを否定する。

「奪ったのではなく,庇護して下さったのです。民の平和,国の安寧,そして私の女王としての立場までも,将軍が今日まで守り通して下さったのです」

「…女王…」

「ですが,もう良いのです」

 言うや,ユーリエはこちらに身体を預けてきた。

「…お,おい…」

 力を抜いていたためにそれに抗すべくもなく,そのまま後ろへ倒れる。柔らかな寝台は二人分の重みを受けてその形を変え,体が半分ほどそこへ沈み込む。

「アリシアは…あの日すでに滅んでいたのです」

「!?」

「それをこれまで永らえてきたのは,ひとえに将軍の優しさのおかげ…これ以上を望むのはわがままというものでしょう」

「…な,何を言うのだ。終わっていない。アリシアは…」

「いいえ」

 静かに言うユーリエ。

「貴方が私の幸せを守ると言ったあの日に,それを受け入れてしまったあの時に…アリシアの運命は決まったのです」

「…と,ともかく…」

 何とか女王を落ち着かせなければならない。こんな状態を父祖が看過している事にも驚きだが,これは…。

「これは私の覚悟です」

 しかしまたも機先を制し,ユーリエは意外な事を言い出す。

「…覚悟…?」

「私にも,もう将軍に差し上げるものはほとんど残ってはいません」

「…な…」

 ぎくりとする。

「将軍は,アリシアを返すと仰いました。そんな事をすれば,帝国内での将軍の立場は致命的な損害を受けるでしょう。なのに…将軍は自分を捨ててまで私を,アリシアの幸せを願って下さっている」

 そう言ってユーリエは,こちらに何事をも言わせる暇を与えずに続ける。

「そんな将軍に今の私が報いるには,もうこれしか…」

「…は…」

 早まるな。そう言おうとして自分にその資格が無い事を痛感する。結局ユーリエをここまで追い詰めたのも自分だ。

 だがそれでも,恥を忍んででも言わねばならない。自分を犠牲にするなど…。

「やはり貴方は優しい人…」

「…な…?」

 しかしまたしても,ユーリエが機先を制して発した言葉にそれを止められる。

 読まれていた?いや,今までの付き合いからいけば読むまでもない。が,しかし…。

「将軍は事ここに至っても,なお私を気遣って下さるのですね」

「…何を言うのだ。それが私の責務であり…誓いでもあったはずだ」

 責務,と言ったところで小さく身を震わせたユーリエに罪悪感を感じ,言葉を継ぎ足す。

「そんな何の利にもならない誓いを守り抜いて下さった貴方だからこそ…私も覚悟を決めたのです」

「…ぐ…」

 しかしそれはかえって状況を悪くしたようだ。間の抜けたうめきが出て,ユーリエはくすりと笑う。

「やはりアリシアは,あの時に終わっていたのです」

 しかしすぐに,寂しそうに独白めいたつぶやきを漏らす。

「…そんな事は無い…」

「もう夢の時間は終わりにしましょう。貴方はやはり帝国の将軍なのです…」

「…じ…」

 女王と言いかけて,それに居心地の悪さを感じる。それを言ってしまえばユーリエの言葉を認めてしまう,そんな躊躇い。

「貴方がもっと利己的であったら。あるいはもっと冷徹で計算高かったら。私がこんな気持ちになる事もなかった…」

「…すまない」

「ほら,それですよ…」

 他に言うべき事が見つからず口をついて出てしまった言葉に,またくすりと笑うユーリエ。

「今まで本当にありがとうございました…」

 そう言って彼女は,こちらの背中に回していた腕をするりと抜き,柔らかな感触を布越しに伝えながらゆっくりと這い上がってくる。

「…な…」

 何をするつもりだ。先程とはまた違った意味で,その言葉と行動の乖離が判断を狂わせる。

 ユーリエはこちらの頭の両脇に肘をつくと,手を潜り込ませて後ろから両手で支えるようにした。

「将軍…」

 そのまましばらくの沈黙。ユーリエの息がこちらの顎から喉元を優しく撫でる。

「私の…負けです」

 また小さくくすりと笑って,ユーリエは顔を近づけてくる。

「…おい…」

「全ての責任は…私に…」

 するり。脇へとすり抜けるユーリエの顔。お互いの頬が擦れ合う。こちらの耳元へ口を寄せて,彼女は小さくつぶやいた。

「…シ…,そ…で…です」

「!?」

 その衝撃に,思わず約束を忘れて目を見開いてしまう。

 ユーリエの口から発せられたのは,アリシアの封印の秘密。彼女が命に代えても守らねばならないはずの,世界の命運を握る鍵。しかも,まさに最後の一つかも知れないものなのだ。

「…早まった真似を…」

 やっとのことで,それだけを絞り出す。良かれと思い先日の懸念を伏せておいたツケが重くのしかかる。

「覚悟の…上です…」

 顔を離し,正面からこちらを見つめてユーリエは悲しそうに微笑む。

「できればもっと…違う形でお逢いしたかった…」

「!」

 すっ,と離れて立ち上がり,衣服の乱れを直すユーリエ。

「私からの用件は以上です,将軍。ご足労頂きありがとうございました。もう動いていただいて構いません。ご無礼の段,平にご容赦を…いえ…もはやこの上は,どのようなお咎めも覚悟しております」

 彼女はそう言って寝台から離れ,こちらに背を向けて窓辺に佇む。

「…」

 のろのろと身体を起こし,立ち上がる。

 そのままユーリエの方へ向かおうとして,しかし足を動かすことができない。どう接すれば良いのだ?どんな言葉をかければ良いのだ?

(…く…っ)

 自分とユーリエとの間を満たす空気が,まるで水底にでもなったかのように冷たく重い。

 今の自分に,この寂しげな背中にしてやれる何があるというのだろう…そんな思いが全ての気力を奪っていた。

「…失礼する」

 やっとそれだけを言って,逃げ出すように寝室を後にした。

 部屋へ戻って崩れ落ちるように寝台に倒れ込むと,そのまましばらくは動けずにいた。

 まさかユーリエがあれほど思い詰めていようとは。それほど重大になるまでむざむざと放置していた己の迂闊さに怒りすら覚える。

(…だが,待て…)

 しかし幾分余裕を取り戻した頭がようやく働きはじめ,それが客観的かどうかはさておいてもひとつの疑問を呈する。

(…なぜ,ここまで大きくなった?)

 およそこれまでのユーリエから考えて,あの行動は明らかに常軌を逸している。短絡的で衝動的な性格ならばともかく,突然ああはならないはずだ。

 となれば,過程があったはずだ。こちらへ向かうほど深刻な事態に陥る前の何かがあったはずだ。そしてそれは,ここに至るまでこちらには言えなかった何かだ。

 ならば,リリーはどうだ?こちらに言いにくい事はそちらに通すよう言ってある。リリーならば把握していておかしくない。そうだとすれば,彼女がこちらへの報告を怠ったか,あるいは報告するまでもない事と判断していたかのどちらかだ。

 リリーにも言えない何か,とは考えにくい。日頃あれだけ親密な付き合いをしている間柄でもある。それにリリーは厳密に言えば黒軍ですらない。たとえば元の世界の臨床心理士のような専門知識こそないものの,ともかく組織から外れた立ち位置で自由に何でも言える相談役の位置付けだ。

 後で考えればこれは責任逃れの部類だったかもしれない。気持ちは後ろを向いたままで,無意識のうちに自分を守ろうとしたのかもしれない。しかしそこまで思い至るほどの余裕は,やはり戻ってはいなかった。

(…リリー…)

 いちどその可能性が浮かんでしまった事で,他を考える事は全くできなくなっていた。

「…」

 少なくともリリーは何らかの形で関与しているはずだ。それも,半端な関与ではない。まずそれを確かめなければ少しも先へ進むことができない。そんな考えに完全に囚われてしまっていた。 

 寝台から起き上がって部屋を出ると,たまたま研究があるとかで予定外にこちらへ泊まり込んでいるリリーの所へ向かう。その偶然が出来過ぎで,何らかの作為が働いているのではと思ってしまう程度には,やはり私はまだ狼狽していた。

「…リリー,居るか?」

 扉を叩く。居るのは分かっているのに,そんな間の抜けた事を言ってしまう自分に辟易する。

「あれ…ボス?どうしたの?」

 ややあって扉が開かれ,隙間から顔をのぞかせたリリーが目を丸くする。

「…こんな時間にすまないが…少しばかり尋ねたい事がある…」

「ん…あー…」

 何かを察したのか,気まずそうな表情でぼりぼりと頭をかくリリー。

「散らかってるけど…ともかく入って」

 そう言って扉を開き,中へ引っ込む。

「…感謝する」

「大事な話なんでしょ?閉めちゃっていいよ」

 声の響き具合から,リリーがこちらに背を向けたまま,しかし扉を閉めようか閉めまいかというこちらの逡巡を読み切って言葉をかけているのが分かる。

「…すまないな」

 そう言って,扉を閉める。思えばさっきといい今といい,今夜はそんな状況ばかりだ。

「まぁ座って」

 言われるがままに出された椅子へ座る。

「まずこれ。ともかく落ち着こう?」

 作り置きの紅茶を勧めてくるリリー。

「…ふ」

 それを受け取って,香りを味わいながら眺めていると。自分が今厳しい状況に置かれているというのに思わず微笑が漏れる。

「あ,もしかして…」

 にっこりと笑うリリー。

「…ああ。あの時の事を思い出した」

 ごくり,と紅茶を喉に流し込む。リリーのお気に入りで,あの時と全く同じ味だ。部屋の内装が全く同じという事も手伝って,鮮明に記憶が蘇ってくる。

「懐かしいね」

「…ああ。何だかひどく遠い昔の事のような気もするな…」

 そのまましばらく,静かで穏やかな時間に浸り込む。

「落ち着いた?ボス?表情は随分楽になったみたいだけど」

 こちらが紅茶を飲み終えるのを待って,リリーが尋ねてくる。

「…そんなにひどい顔だったのか?」 

「そりゃもう。この世の終わりみたいな顔だったよ?」

「…」

「はいはい,落ち込む前に話す話す!そのために来たんでしょ?」

「…そうだな」

 ふっ,と一つ軽く溜息をついて気持ちを切り替える。今はただ,リリーの軽さがありがたかった。

「…話というのは,ここ最近の女王の事についてだ…」

 下手に考えればまた沈み込んでしまう。思いのままに素直に話そう。彼女を問いただしに来た事などすっかり忘れ,そう決めて口を開いた。

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