魔法書
私の名はヴァニティ。帝国軍の将軍だ。
レヤーネンがトルサ攻略に失敗したその日のうちに,カールたち三人にリリーの開発した範囲型ステルス装置を持たせてマイシャへと派遣した。
カールにはよく状況を言い含めた。特にレヤーネンがルマールとのやりとりの中でこちらへの対抗心を燃やしたのではないかという点については念を押す。大敗を喫したとはいえそこを不必要につつけば,プライドが邪魔をして策を拒否する可能性もある。だからルマールには悪いが,こちらはそんな裏など全く知らない好意的な援助者のふりをして接するように,と指示したのだ。
三人はマイシャに駐留し,両翼の伏兵に帯同して装置の操作を担当する。伏兵が襲い掛かるそのタイミングでレヤーネンが中央へ押し出し,おそらくは投入されるであろう攻城兵器を破壊して再びマイシャへ籠る。そういう作戦だ。
肩をすくめて出発したカールは,これは事が終わった後に聞いた話だが,怒りを通り越して笑い出したいのをこらえながら命令を遂行したらしい。恥も記憶力ももろもろ欠落しているレヤーネンからたいそう感激されたからだ。そのためにカールは決して少なからぬ精神的なダメージを受け,時と場所を選ばず突発的に襲ってくる思い出し笑いの脅威が去るまでにはその後かなりの時間を要することとなった。
◇
衝撃を受けていた女王は,しかし次の日には落ち着きを取り戻した。これは伝説の龍戦士が何とか一命をとりとめ,決して安心はできないもののとりあえず最悪の状況を免れたためだ。
それについて話すうち,今まで意識すらしていなかった防御策が浮上してきた。魔法だ。
熟達した魔導士たちは,基本的には脆弱なその身体を防御するため,常に身の回りに魔法防御を張り巡らせているという。強力なものは当然大きな労力を必要とするのでいつもというわけにも行かないが,そこは複数の魔法をうまく組み合わせて連動させているらしいという事がわかったのだ。
それを可能にするものが,この世界の魔導士たちが作る魔法書だ。詠唱の間違いを防ぎ時間を短縮するために作成されるそれは,直接紙などに書きつけておく一回限りの巻物タイプと,個々の意識の中に作成しておき繰り返し使用可能な辞書タイプに大別される。このうち辞書タイプは,個々の資質に応じて記録できる魔法の数に差異こそあるものの,使用者の創造性次第でほぼ無限と言って差し支えない可能性を示すのだとユーリエは言う。
かつてリーリヤから魔法の手ほどきを受けていた私は,しかしその時は特に必要も無いとそれきりになり,思い出す事を避けていた記憶という性格も手伝ってすっかり失念していた。
一方のリリーは,こちらは案の定大いに興味をそそられたようで,目をきらきらさせながらその説明を聞き,早速それを試したいと言い出した。
昨日からこっち,分担を無視して女王につきっきりだったリリーは,その分代わりに今日一日は休みとしていた。だから本来この時間は自由な時間のはずなのだが,自分の意思でここに居る。客観的に見れば休み返上のようなものだが,彼女の様子を見る限りでは趣味の時間と言えなくもない。
ともかくそれで,急きょ女王の手ほどきで魔法書を作る事となった。剣の道一筋だった自分が,夢の世界の空想とばかり思っていた魔法を駆使する日が来るとは。今では悲しい思い出の雷の魔法はともかくとしても,およそ当時は夢想だにしなかった現実に内心で苦笑する。
世界最高峰とも言われるアリシアの学院への入学を許されるためには最低三〇頁を必要とし,卒業生の平均は五五頁らしい。さらに教官となるためには七〇頁が最低要件でこれが一流の目安ともされており,三桁になると百式操者の称号で呼ばれる超一流の魔導士なのだ,とユーリエは言う。
リリーは非常に喜んだ。初めに辞書を作ってみた私が三五〇頁だった事にユーリエともども感嘆していた彼女の辞書は,なんと五百もの頁を持っていたのだ。
「やはり,龍戦士は人並み外れた力を持っているという事ですね。ただその中でも,将軍は直接戦闘のほうに大きく秀でた龍戦士で,リリーさんは魔法の方に特化しているのでしょう」
「ふふふーん…遂に,遂に証明されたよ!やっぱりこっち方面が,私の生きる道だったんだ!」
そう言いながら立ち上がり,くるくると回るリリー。
「私はやるよ!誰にも負けない鉄壁の防御を構築して!ボスの盾になってみせるよ!」
「…いや,いい」
「えー…?」
いつものお約束。黒軍の中ではもはや息をするのと同じ感覚と言ってすら差し支えないやりとりだが,しかし今回は予想外の展開を見せた。
「将軍!それは失礼なのではありませんか?」
「…女王?」
そう。ここにはそれに慣れていない者が居たのだ。
「リリーさんの好意を無下にするような発言は,いかがなものかと思います」
「あ,あのね?女王様?それは…」
「リリーさんも!もっと怒って良いところでしょう?」
正直意外だ。まさかたったこれだけの期間で,ここまでリリーとの関係が親密になっているとは。父祖といいユーリエといい,なぜこれだけ短期間に関係を作れるのだろう。まさか龍戦士の力がこちらに発揮されていて,リリーの専門も実はこちらなのではないかという不安もちらりと心をかすめる。
「…違うのだ,女王。決して無下にしているわけではない」
苦笑しながら言う。むっとするユーリエだが,うんうんと頷くリリーを見て混乱する。
「ど,どういう事ですか?」
「…常に制止しておかないと,リリーは本当に自分の命すら投げ出しかねないのだ。私は…リリーを犠牲にするつもりはない」
「ボスは私の事も大切に思ってくれてるんだよ。何を隠そう,この命もボスに救われたんだ。だから私は誰がなんと言おうとこの命をボスの為に…」
「…だからそれはお前の思い込みなのだと…」
「照れない照れない!まぁそこもまたボスの器の大きいところだけどね」
ぽかん,とするユーリエ。
「…すまない。これがいつもの調子なのだ」
のろけ話か痴話げんかでも見られているかのような錯覚に陥り,また苦笑する。
「深い…絆で結ばれているのですね」
慎重に言葉を選ぼうとするユーリエだが,それでもまだ理解が追い付いていないようだ。
「一度でもボスの魅力にハマっちゃうとね,もう底なし,引き返せないんだよ」
それに向かって,コロコロと笑って見せるリリー。
「…」
どんどん深みにはまって落ちていくリリーを想像して,それがひどく彼女を苦しめているような気がして絶句する。
「ほらほらボスぅ?また自虐してるでしょ。ダメだよ?」
こちらの鼻先に人差し指を突きつけて,頬を膨らませる。
「それに…現実問題で考えても,ボスの盾として機能するくらいのものは作らなきゃ」
しかしすぐに真顔に戻るリリー。
「ボスを脅かす敵…きっとかなりの龍戦士の筈だしね」
「…確かにな」
それには全く異論は無い。特に相手が龍戦士としての力を使ってきた場合,それを防ぐのはかなり難しくなるだろう。だがだからといって,いちいちこちらもそれに付き合うわけにはいかない。それは不毛な消耗戦だ。
「…だがリリー」
問題は,今回のこれがすべて魔法というくくりで片が付くのか,それとも龍戦士の力が多少なりとも使われてしまうのかという事だ。
「分かってるって。それに…ちょうどいい機会だよ。どこまでが魔法の範囲か,どこからが私らの力か。ここには世界で最高の資料がある。そのあたりもいっぺん,じっくり調べてみたかったしね」
「…そうか」
ふっと口元がほころぶ。確かにリリーはこの世界で言うなら魔法向きなのかも知れない。元の世界で言うなら研究職向きの,理系女子か。
その探求心と理論的思考が自然科学的なもので,この世界から弾かれる危険をはらんだものであるという不安も確かにあるが,その境界を見極めることの価値は大きい。
体育会系の活発女子と分類したくせに勝手なものだ,とそこで先日の事を思い出して苦笑する。
「…だがあまり,根を詰めすぎるなよ?」
多少その見立てが甘くても良い。実際のラインよりも手前で止まる事が重要で,踏み越えてそこで弾かれては本末転倒だ。
「もちろん!ボスを心配させずにボスを助ける!それが理想だからね」
「…根を詰めると言っているように聞こえるが?」
「え?あ,あはは…大丈夫だってば」
「本当に…仲がおよろしいのですね」
やっと雰囲気に慣れたのか,くすっと笑みを漏らすユーリエ。
「そういう事なら,私もお手伝いいたします。アリシアには,再び別世界へ飛ばされてしまった龍戦士の悲話もありますので…そのような事を繰り返さぬためにも,こちらもぜひそのあたりの知見を深めておきたいところです」
「…そうだな。アリシアは,そういう国だったな…」
読み漁った文献のいくつかが思い出される。
「…では女王。よろしく頼む。この件に関してはかなりの部分で,双方の利害は一致すると言えよう」
「はい。こちらこそ,よろしくお願いいたします」
そう言ってぺこりと頭を下げ,こちらに向かってにっこり笑いかけてくるユーリエ。
これほどの,何の含みも持たない素直な笑顔を見るのは初めてだ。これまでのうしろめたさがかなりの部分で溶けて消えていくかのような感覚。
「…だが…」
「だが…?」
「…それで我々の隙が無くなってしまうと,貴女を奪還しようとする連合側にとってはかなり難易度が上がってしまう事にもなろう。それには多少の心苦しさも感じている」
悩んだ末に,それを口に出す。
「あ…」
ユーリエの顔から笑みが消える。それを残念に思ったからこそ言うのがためらわれもしたのだが,言わずにおくのも騙しているような気がしたのだ。
「でもそれはさぁ…」
リリーがすかさずそこへ割り込む。
「帝国側の立ち位置に居る私が言う事じゃないけど,連合が不甲斐ないって事でしょ?その程度で奪還できなくなるんじゃ,女王様を守るなんてできないよね?」
「…その通りだ。敵の弱点をつつくのではなく,正面からねじ伏せる程の域に届かせるのが理想なのは間違いない」
だが,と溜息をつく。
「…こと,幸せという面から見ればそれは女王なりアリシアが決める事だ」
ユーリエはなんとも複雑な表情を見せる。
「…特に。レヤーネンがトルサ攻略に失敗したことで,連合は近日中に反攻作戦を実行してくるだろう」
「あ…っ」
「そうか…」
今更ながらに戦局の変化に気づく二人。
「…私は帝国の将軍としてこれを迎え撃たねばならない。さすがにあの傷では前線には出てこれまいが,場合によってはあの紅の鎧の男とも対峙することになっていたかも知れない」
「それは…」
「ボス…」
「…だから女王。リリーに協力するかどうかは貴女の決断で。連合に乗り換えるかどうかは父祖の判断だ。先ほどはよろしく頼むなどと軽々しく言ってしまったが。そのあたりは良く考えて欲しい」
また複雑な表情になって俯き,考え込むユーリエ。それを見て心が痛む。自分はまだ肝心な事を彼女に隠したままなのだ。
「…貴女を笑顔のままにしておけぬ事,申し訳なく思う…」
「え…っ?」
目を丸くしてこちらを見るユーリエ。
「…いや,何でもない。忘れてくれ」
うっかり口を滑らせた事を後悔する。気まずい沈黙。
だがそれは長くは続かなかった。昼食の準備ができた事を告げに侍女がやってくる。
「…休憩としよう」
そちらを振り返りながら,心の中でほっと息をついた。




