第8話「凍てつく関節と、引き伸ばされる日常」
※この作品はダークな展開やシリアスな描写、ちょっと過激なスキンシップなどが含まれます
九月の終わり、朝晩の空気が急に冷たさを増した頃。
秋晴れの空がどこまでも高く広がる鳳凰学園では、来月に控えた体育祭の話題で校内がざわめき始めていた。
放課後を迎える前、それぞれの教室でも体育祭に向けた準備が進められていた。
時子と理子が同じクラスである二年B組では、来月に控えた体育祭のクラス対抗リレーや障害物競走の出場メンバー決めで、黒板の前にクラスメイトたちが集まり大盛り上がりを見せていた。
「ふぇぇ、みんな一気に『パン食い競走に出たい!』って手を挙げるから、プリントのどこにメモしていいか分かんなくなっちゃうよぅ……!あわわ、マグネット落としちゃった!」
黒板の前でクラスの希望者をまとめようとしていた時子は、プリントの山を盛大にバラ撒きながら、床に落ちたマグネットを拾おうとして見事にすってんころりと転んでしまった。
「うわっ、時子大丈夫か?相変わらずドジやなぁ」
クラスメイトたちから温かい笑い声が起き、時子は「ふぇぇ、恥ずかしい……」と真っ赤になりながらも、持ち前の明るさですぐにへへっと笑ってみせる。クラスの誰もが和む、お馴染みの愛され風景だった。
そんな様子を自分の席から眺めていた理子は、たまらずガタリと椅子を引いて立ち上がった。
「はいドーン!ここでウチの華麗なる転倒芸……って、転んでんの時子やないかい!」主役泥棒はあかんで、時子!あと、パン食い競走の希望者多すぎて、このままやと全員口からパンくわえたまま走る奇怪な大パレードになってまうわ!」
関西出身のお笑い好きとして、まずはテンポの良いツッコミで教室の空気を一気に笑に変える理子。しかし、生徒会(手伝い)として行事の準備にも追われている身。パタパタと慌てる時子のところへ駆け寄り、落ちたプリントを拾い集めながら、その表情にふっと微かな翳りを落とした。
「ほんま、お疲れ様やで、時子。ウチら二人とも生徒会の仕事やら体育祭の準備やらで目が回りそうやのに……。なあ、時子、最近ちょっと顔色悪くないか? 無理して空元気出してへんか心配なんやけど……」
「えっ?あはは、そんなことないよ!私はいつも通り元気いっぱいだよ、理子ちゃん!」
時子はいつも通りの満面の笑みでビシッとポーズをきめてみせる。時子の柔らかな笑顔を見ていると、理子の胸のつかえも少しだけ軽くなるような気がする。同じ教室でこうしてすぐ隣にいてくれる安心感は、今の理子にとって何よりも心強いものだった。
一方、火燐と水琴が同じクラスである二年A組の教室では、全く異なる空気が流れていた。
「ふははは!」
「見よ水琴、この完璧な騎馬戦の布陣を! あたしが前衛で敵を片端からなぎ倒し、お前はその背後で優雅に指揮を執る……まさに完璧なコンビネーションだぜ!」
火燐が水琴の机に我が物顔で寄りかかり、身を乗り出しながら熱弁を振るっている。赤みがかった髪が揺れ、その勝気な瞳は自信に満ち溢れている。
「……火燐さん、近いです。それに、人の机に勝手に寄りかからないでって何度言ったらわかるんですか。物理的なパーソナルスペースを侵害されると、私の思考回路のボルテージが著しく低下するのですが……」
水琴は銀縁の眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと押し上げ、スケッチブックから冷ややかな視線を向けた。手元には昨夜読み込んだばかりの魔法少女アニメの設定資料集がそっと置かれている。
「なんだよ、そんな冷たい目をしなくてもいいだろ水琴!ああ、今日も今日とて君のその涼しげな横顔は最高に萌えるぜ……ちょっとそのサラサラの黒髪を触らせろ、ほら、いい匂いがするぞぉ~」
火燐がおっさんじみたニヤニヤ笑いを浮かべながら水琴の頬や髪に手を伸ばし、さらには勢いそのままに水琴の胸元へと手を伸ばしてグイッと揉みしだいた。
「っ!?な、何をするんですかっ、このセクハラ獣……っ!」
「うおっ、相変わらずいい手応えだねぇ水琴ちゃん!」
「い、一線を越えすぎです!…って言うか、もう限界です。あなたのその脳みそ、一度分子レベルで解体して出直してきなさい!」
水琴は眼鏡の奥の目をカッと見開き、激昂して立ち上がると、持っていた硬いバインダーで火燐の額を連続で激しくグリグリと押し返しながら早口でまくし立てた。
「いいですか、今のあなたの行動は単分子膜の耐久限界を超えています!C_2H_5OHでもかぶって頭を冷やしてください、この変態エントロピー上昇係数がっ!」
「ぐっ……!頭は切れるわ化学式でキレるわ、さすが俺の水琴ちゃんだぜ……!」
「誰があなたのものですか!いいから自分の席に戻りなさい、もうすぐ予鈴が鳴りますよ!」
火燐が「ぐぬぬ」と頬を膨らげてすごすごと自分の席に戻っていく背中を見送りながら、水琴はフーーッと荒い息をついて乱れた制服の胸元を整え、再びノートにペンを走らせた。
チャイムが鳴り響き、それぞれの教室から生徒たちが動き出す。
「それじゃ、ウチは生徒会の仕事があるから先に行くわね。時子、またあとで!」
理子は椅子から立ち上がり、制服のスカートのプリーツを軽く手で整えた。
「うん、お疲れ様、理子ちゃん!無理しないでね」
時子がぶんぶんと手を振って見送る背中をあとに、理子は軽い足取りで教室を飛び出した。
鳳凰学園の放課後、生徒会室の静かな空気に包まれた窓際で、理子は山積みの書類に向き合っていた。
生徒会(手伝い)としての真面目な仕事ぶりは教師からの信頼も厚い。理子はテキパキと手を動かし、予算案のファイリングを進めていた。
が、次の瞬間。
カチリ。
書類を綴じようとホッチキスに伸ばした右手が、突然ピタリと止まった。いや、止められたのではない。動かなくなったのだ。
「え……嘘っ……?」
理子は息を呑み、自分の右手の指先を見下ろした。関節の芯が、まるで急激に凍りついたかのようにカチコチに硬直している。指を曲げようと力を込めても、まるでサビついた蝶番のようにギクシャクとしか動かない。
「なんなん、これ……動かん……っ」
数秒後、筋肉の強ばりがふっと緩み、再び指が自由に動くようになった。冷や汗がじわりと手のひらににじむ。
理子は自分の右手を強く握り締めては開き、何事もなかったかのように振ってみせた。
「土屋、そこ、ちょっと肩に力入りすぎてないか?」
ふいに声をかけられ、顔を上げると、同じく生徒会役員の眼鏡をかけた男子生徒が、心配そうに資料の隙間からこちらを覗き込んでいた。
「あ……うん、ありがと。ちょっと同じ姿勢が続いてしんどかっただけやから」
「無理して倒れられたらこっちも困るし、適度に息抜きしてくれよ」
眼鏡の男子生徒はそう言って苦笑いし、再び自分のパソコン作業へと戻っていった。
そのやり取りを見かねたのか、少しして、生徒会長のアイシャ先輩が淹れたての温かいお茶の入った紙コップを持って理子の机へと歩いてきた。
「理子ちゃん、少し休憩にしない?」
アイシャ先輩は優しく微笑みながら、そっと紙コップを理子の手元に差し出す。
「ずっと予算案の精査をしてくれて助かってるけどね……あんまり根を詰めすぎないようにね。理子ちゃんが倒れちゃったら、心配しちゃうんだからね」
「あ、おおきに。ありがとうございます、アイシャ先輩」
アイシャ先輩の包み込むような温かい気遣いに救われながら、理子は強ばる表情を引き締め、何事もなかったかのように微笑んでみせた。(冷え性やから……いや、同じ姿勢で書類仕事しすぎただけやん。肩が凝ってるだけ、ただのそれだけや)
そうやって無意識に理由をこじつけ、思考の端に浮かんだ不吉な予感を必死に押し潰す。
生徒会の仕事が一段落し、学校を出た理子は、校門前で待っていた時子の姿を見つけて小走りですみやかに駆け寄った。
「時子、ごめん!待たせた?」
「ううん、今来たところだよ。行こっか、理子ちゃん!」
二人が向かったのは、いつもの洋館カフェだった。
窓際の席に座り、温かいミルクティーを一口飲んで、理子は冷え切った体の芯が少しだけほぐれていくのを感じた。
「ふふ、二人とも最近よく顔を出してくれるから、私とっても嬉しいの」
カウンターの向こうからエプロン姿のお姉さんが優しく微笑みながら、淹れたてのポットを手にテーブルへと近づいてきた。
しかし、その歩き方が、ほんの少しだけ――いつもよりぎこちなく、左足を引きずるように見えた。
「あれ……?」
理子は思わずお姉さんの足元に目をやった。
お姉さんはすぐに何事もなかったかのように微笑み、ポットを置いたが、その右腕がこわばったように不自然にピンと張っていた。まるで、関節の自由が利かなくなっているかのような、奇妙な硬さ。
「お姉さん、どうかしたんですか?ちょっと腕……」
理子が心配して声をかけると、お姉さんは少し驚いたような顔をしたあと、困ったように優しく笑った。
「ううん、なんでもないわ。ちょっと最近、肩が凝りやすくて……年のせいかしらね」
「そんな、まだ若いですよ!あんまり無理したらダメですよ」
時子が心配そうに眉をひそめながら言うと、お姉さんは「ありがとう、優しいね」と時子の頭を優しくなでた。
その手の動きが、ほんの少しだけロボットのようにカクついたことを、理子は鋭い観察眼で見逃さなかった。
(お姉さんも、最近疲れが溜まってるんやろか……)
時子の前では言わなかったが、理子の胸のざらつきは先ほどよりも何倍にも膨れ上がっていた。
自分たちに起きている体のこわばりと、お姉さんの不自然な硬さ。どちらもただの疲労や肩こりだと信じ込みたい一方で、胸の奥で嫌な予感がざわめく。けれど、それを口に出してしまえば、自分たちの「日常」という薄氷のガラスが粉々に砕け散る気がして、理子は必死に喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
店をあとにして、夕暮れ迫る道を二人は並んで歩いていた。
冷たい風が吹き抜け、理子は思わず自分の右腕をギュッと抱きしめる。先ほどの硬直感の残響が、まだ微かに残っている気がした。
「ねえ、理子ちゃん?」
「ん?どうしたん、時子」
「最近さ、なんだかすごく眠いし、体が重く感じる時ない?季節の変わり目だからかな」
時子が少し困ったように笑いながら尋ねる。
理子は一瞬返答に詰まり、それから、いつもの頼もしい幼馴染の顔を作ってみせた。
「そやな!季節の変わり目やし、生徒会の仕事も部活も忙しいもん。……大丈夫やって、気のせいやで」
(気のせいや。ウチらも、お姉さんも、みんなただ疲れてるだけやん……)
抱えている不安をそっと懐に隠した理子は時子と他愛のない話を続け、夕闇に沈む街を歩いていく。崩れかけた日常の仮面をかぶったまま。
そして、その頃。
誰もいなくなった静かな洋館カフェの暗がりで。お姉さんは洗い物をしようと蛇口に手を伸ばした。
しかし、その右手がピクリとも動かない。まるで関節がコンクリートで固められたかのように、指が硬直していた。
「うそ……なんで……?」
震える声で呟きながら、反対の手で無理やり自分の右手首を掴もうとした瞬間、足元で、無数の動物のぬいぐるみたちが一斉にカタカタと不気味な音を立てて震えた。
彼女の体を内側から縛り上げる見えない歯車は確実に、その回転速度を上げていた――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
火燐ちゃんはテンション高いですね、体育祭では活躍してくれる予感がします。
体育祭準備と生徒会副会長の仕事…ダブルワークお疲れ様です。
理子ちゃんにも不穏な症状が…(´・ω・`)ダイジョウブ?
魔法少女たちの運命が今後どうなっていくのか、ぜひ見届けていただけると幸いです!
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