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『時間を止める大鎚と、消えていく私』クロノ・クロスフィア 〜Invisible pains〜  作者: 猫娘


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第七話「こぼれ落ちる輪郭と、気づかないふり」

※この作品はダークな展開やシリアスな描写、ちょっと過激なスキンシップなどが含まれます)

 海水浴から数日が過ぎ、九月の風がわずかに秋の気配を運び始めた頃。


 鳳凰学園の二年B組の教室は、いつもと変わらない穏やかな昼休みの空気に包まれていた。


「あーっ、また水琴のやつ、アタシの唐揚げ弁当の余剰カロリー計算しやがった!。筋肉になるからいいんだよ!」


「基礎代謝と運動量を加味しても、脂質の過剰摂取は明白な事実です。火燐さん、現実から目を背けるのは非科学的ですよ」


「うるさーい!美味いものはゼロカロリーなんだよ!」


 少し離れた席で繰り広げられる火燐と水琴のいつものコントのようなやり取りに、時子はクスリと笑みをこぼした。


 平和な日常。何も変わらない、大好きな場所。


 時子はふと視線を落とし、次の授業の予習のために開いていたノートに向き直った。そして、机の上に転がっていたシャープペンシルを手に取ろうと指を伸ばす。


――カチリ。


 脳の奥底で、小さな秒針の音が鳴った気がした。


「え……?」


 プラスチックの軸を摘もうとした人差し指と親指が、何の抵抗もなく『すり抜け』た。

まるでそこに空気しかないかのように。


 カシャッ、と軽い音を立てて、触れられなかったシャープペンシルが机から床へと転がり落ちる。


 時子は息を呑み、自分の右手を見つめた。

震える指先をそっと握り込んでみる。肌の感覚はある。関節も動く。


 恐る恐る床にしゃがみ込み、落ちたシャープペンシルに手を伸ばす。今度は、指先に硬いプラスチックの冷たい感触がしっかりと伝わってきた。普通に拾い上げることができる。


「時子、どないしたん?消しゴムでも落としたか?」


 前方の席で自分の設計図を広げていた理子が、不思議そうに振り返った。


「う、ううん!なんでもないよ!ちょっと手が滑っちゃって」


「そうか?あんま根詰めすぎんなよ」


 理子はすぐに自分の作業に戻ったが、時子の心臓は早鐘のように打っていた。


(今のは……なに?)


 一瞬だけ、自分の体が幽霊にでもなってしまったかのような感覚。


 夏の疲れが出ているだけだ。寝不足かもしれない。そう自分に言い聞かせても、胸に張り付いた「なんか嫌だな」というあの薄ら寒い不安は、決して消えてはくれなかった。

違和感は、物理的なものだけではなかった。


 放課後。

 その日は日直の当番だった時子は、クラスメイトの女子と一緒に黒板の掃除と日誌の記入を行っていた。


「天野さんってさ、夏休み中ってどこか遊びに行ったりしたの?」


 黒板消しをクリーナーにかけながら、クラスメイトが何気ない世間話として尋ねてくる。


「えっ?この前、火燐ちゃんたちと海に行ったって話したよね?水琴ちゃんが日焼け止めで完全武装してて大変だったんだから」


 笑いながらそう答えた時子だったが、クラスメイトの反応は奇妙なものだった。


「…………」


クラスメイトの動きがピタリと止まった。


クリーナーの機械音だけが響く教室。彼女は瞬きすら忘れ、まるで意識がどこかへ飛んでしまったかのような、ぽっかりと空いた空白の表情で時子を見つめている。


 瞳の焦点が合っていない。それは「話の内容を忘れた」というレベルではなく、一瞬だけ『天野時子』という存在そのものが、彼女の認識からすっぽりと抜け落ちてしまったかのような、異様な無反応だった。


「……あの、えっと……?」


時子が不安になって声をかけた瞬間。


「あ、ああ!そうだったそうだった、ごめんごめん!私ったら完全にボケてた!」


 クラスメイトはハッとして、何事もなかったかのように笑い出した。


「そうそう、火燐ちゃんがはしゃぎすぎて浮き輪流されたって言ってたよね!ごめんね、最近ちょっと疲れてるのかな」


 あっけらかんと笑う彼女の姿に、時子は曖昧な愛想笑いを返すことしかできなかった。

思い出してくれた。忘れられたわけじゃない。けれど、あの数秒間の空白。


 世界から自分が一時的に切り離されてしまったような、ひやりとした感覚。海辺で感じた残酷な予感が、すぐ耳元で冷たい息を吹きかけてきたような気がした。


 放課後の帰りに時子たちは街のはずれにある、古い洋館を改装した小さな隠れ家カフェに立ち寄っていた。


 そこは、街の誰もが「お姉さん」と呼び、親しみを込めて頼りにしている優しい女性が一人で営む店だった。


「お疲れ様、みんな。はい、特製のフルーツパフェよ」


 エプロン姿の似合うお姉さんが、満面の笑みで美味しそうなパフェを差し出してくれる。


「わあ、ありがとうございます!お姉さん、これめっちゃ美味しいです!」


 火燐が目を輝かせてスプーンを放り出しそうになるのを、理子が「行儀悪いって!」と窘める。


「ふふ、みんなが美味しそうに食べてくれるのが、私のいちばんの幸せなんだから」


 お姉さんは優しく微笑みながら、時子の頭をなでてくれた。その手のひらは温かくて、包み込むような優しさに満ちていて、時子はさっきまでの嫌な冷たさをすっかり忘れさせてもらった。


 しかし、別れ際。


 お姉さんがテーブルを拭きながら、時子たちを見送ろうとした、その時だった。


「お姉さん、最近お仕事忙しいんですか? あまり無理しないでくださいね」


 時子が心配して声をかけると、お姉さんは「ありがとう、大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけだから、みんなの顔を見ると元気が出るの」と、いつもの優しい笑みに戻った。


 時子たちが店を出ようと、お姉さんがカウンターの脇を通り過ぎた、その瞬間だった。


「……あれ?」


 お姉さんがふと、自分の右腕に目を落として言葉を失った。


 すれ違いざまに見た自分の腕が、まるで夕暮れの空気の中に溶け込むように、輪郭の境界線を失って、ほんの一瞬だけ透明にぼやけたのだ。確かにそこに肉体があるはずなのに、向こう側の景色が透けて見えるような、奇妙な透湿感。


「……ううん、なんでもないわ。ちょっと、目がかすんだみたい」


 動揺を隠すように、お姉さんは小さく首を振って微笑みでごまかしてみせた。しかし、そのこわばった笑顔の裏で、背筋を冷たいものが走り抜けていた。


 その足元で、スリッパの脇にちょこんと置かれた動物のぬいぐるみたちが――いや、そこにいるはずのパートナーの動物たちが、ほんの一瞬だけ、普段の愛嬌ある姿からは想像もつかない冷徹で無機質な光を瞳に宿し、お姉さんの背中を見つめていた。


(……え?)


 時子がハッとして瞬きをした瞬間、パートナーたちはいつものコロンとした可愛らしい愛玩動物の仕草に戻り、お姉さんの足元にスリと頭を擦りつけていた。あまりの瞬時の出来事に、時子は首をかしげる。


(季節の変わり目だし、お姉さんも疲れてるのかな……)


 お姉さんが抱える不調についても、時子たちはただの「ちょっとしたお疲れ」くらいにしか思っていなかった。


 夕日があかく染まる頃、店で解散して帰路に向かう二人。長く伸びる二つの影が、レンガ造りの歩道に並んで落ちている。


 普段なら、火燐のドジな話や水琴の変な発明品の話で盛り上がる時子だが、今日はどこか上の空だった。頭の中で、すり抜けた指先と、クラスメイトの空白の表情が何度もリフレインしている。


「……なあ、時子」


 ふいに、隣を歩いていた理子が足を止めた。


「あんた、最近なんかぼーっとしてへん?ちゃんと夜、寝とるん?」


 覗き込んでくる理子の瞳には、幼馴染を案じる深い心配の色が浮かんでいた。誰よりも長く一緒にいて、誰よりも時子のことを見ている理子だ。ほんの些細な違和感でも、彼女には伝わってしまっているのだろう。


(ムリだよ……言えるわけない)


 こんなに優しい日常を自分の不安で壊したくなかった。


「大丈夫だよ、絶好調!秋のテストも近いから、ちょっと勉強のこと考えてただけ!」

時子は努めて明るい声を作り、とびきりの笑顔を向けてみせた。


「そうか……?まぁ、あんたがそう言うならええけど。無理だけはすなよ」


「うんっ!ありがとう、理子ちゃん。ほら、早く帰ろ!」


 時子は少しだけ早歩きになり、理子の前を歩き出した。沈みゆく夕日の強烈な逆光が、時子の背中を照らし出す。その後ろ姿を見つめていた理子は、唐突に、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような悪寒を覚えた。


 夕日の光の中に溶け込むように――時子の体の輪郭が、ほんのわずかに透けて、ノイズのようにブレて見えたのだ。


「――時子ッ!!」


 理子は自分でも驚くほど大きな声を上げ、無意識に手を伸ばし、前を歩く時子の腕を背後から思い切り強く掴んだ。


 ギュッ、と食い込むほどの強い力。


「えっ!?り、理子ちゃん?どうしたの?」


 振り返った時子は、本当に驚いたように目を丸くしている。理子の手の中には、確かに時子の腕の温もりがあった。細くて、柔らかくて、確かな体温。透けてなどいない。どこにも消えようとなんてしていない。


「……あっ、いや……」


 理子はハッとして、慌てて時子の腕から手を離した。


「ごめん、なんでもない。ただ……足元、段差あるから転ばんように気ぃつけや、って思って。ちょっと大げさやったな」


「もう、びっくりしたよー。理子ちゃんこそボーッとしてるんじゃない?」


 クスクスと笑う時子の姿は、いつもと何も変わらない、大好きな幼馴染のままだった。


「…せやな。ウチも少し疲れてるんかもしれへん」


 理子は笑ってごまかしたが、伸ばした右の掌には、まだ嫌な汗が滲んでいた。気のせいだ。見間違いに決まっている。けれど、あの瞬間、時子がこの世界からいなくなってしまうような気がして、理子はひどく怯えていた。


 何も知らないふりをして笑い合う二人の背後に、カチリ、カチリと、無慈悲な秒針の音だけが静かに影を落としていた。


 その頃――。

誰もいなくなった静かな洋館カフェの暗がりでお姉さんはふと自分の手のひらを広げ、じっと見つめていた。


「……おかしいな」


 先ほどよりもハッキリと、指先の輪郭が霧のようにたゆんだ気がして、彼女は恐怖を押し隠すように、自分の両腕をぎゅっと抱きしめた。


 その足元で、無数の動物のぬいぐるみたちが、濡れたような光をたたえた瞳のまま、じっと彼女の背中を見上げていた。


 彼女の輪郭を少しずつ削り取る歯車が、音もなく回り始めていることなど知る由もなく……。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

時子ぉぉぉぉぉっ〜!

とても心配になります。

お姉さんでてきましたね(ΦωΦ)フフフ…

魔法少女たちの運命が今後どうなっていくのか、ぜひ見届けていただけると幸いです!


【読者のみなさまへのお願い】

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次回、第八話もどうぞよろしくお願いいたします。

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