7.誘拐犯と身代金
ホフマン侯爵はパトリックの死を確かめるため、馬車の紋章の修道院を調べた。しかし、パトリックの死体は修道院になかった。
死体がなければ、第一王子であるパトリックの死が確定しない。第二王子ジュリアーノが王位を継承することはできない。
王都には、身元不明の死体を解剖学者に売り渡す死体盗掘人がいるらしい。何者かがパトリックの死体を持ち出したのだと考えたホフマン侯爵は、家人に命じて王国中の解剖学者を捜索させた。だが、どれだけ探してもパトリックの死体は見つからなかった。
パトリックが行方不明になって一週間後、ホフマン侯爵のもとに一通の封書が届いた。差出人には「誘拐犯」と書かれていた。
『パトリック王子は生きています。引き渡しを希望されるのであれば、金貨千枚をご用意いただき、以下の倉庫にお越しください』
手紙には引き渡しの日時と場所が記されていた。読み終えたホフマン侯爵は、ぼんやりと窓の外を眺めた。
パトリックの生死の真偽は確かめようがない。生死不明の王子を餌に金貨千枚を強請ってきた差出人はおそらく、ホフマン侯爵の計画を知っていた。だからこそ、医者を装ってパトリックをさらった。
誘拐の事実を公にできないホフマン侯爵は黙って金を払うはずだ、と差出人は考えたのだろう。
「舐めた真似を」ホフマン侯爵は怒りで体を震わせた。
この差出人を生かしておけば、いずれ自分の身に危険が及ぶ。ならば金など払わず、パトリックもろとも差出人を始末すればいい。ホフマン侯爵はそう決めた。
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指定された夜、ホフマン侯爵は十人の私兵を引き連れて倉庫へ向かった。
侯爵自らが倉庫に出向いたのは、パトリックと直接顔を合わせたことのある人間が、王宮内でも高位の貴族に限られていたからだった。ホフマン侯爵を除けば、王立学院に通う息子のロベルトしかパトリックの顔を知らなかった。
毒殺の手配に失敗したロベルトに、この件を任せるのは心許ない。こうして、ホフマン侯爵が自ら倉庫に出向くことになった。
倉庫の扉を開けると、汚い身なりの男が五人立っていた。男たちはそれぞれ長剣を手にしていた。その男たちが取り囲むように、縄で縛られた青年が椅子に座っていた。
ホフマン侯爵が歩み寄ると、その顔は間違いなくパトリックだった。
「パトリック王子、てっきり亡くなったものだと思っておりました」
ホフマン侯爵が口元をほころばせると、「毒への耐性があってね」とパトリックは皮肉な笑みを浮かべた。
「おい、金は持ってきたのか?」
痺れを切らした男の一人が怒鳴った。
「そんなものは必要ありません。あなたたちもパトリック王子も、ここで死ぬのですから」
ホフマン侯爵が右手を上げると、十人の私兵は一斉に剣を抜き、パトリックと五人の男たちを取り囲んだ。
その時だった。倉庫の扉が勢いよく開かれ、鎧に身を包んだ騎士が雪崩れ込んできた。その数は百を超えていた。
「そこまでだ。ホフマン侯爵、あなたを反逆罪で拘束する!」
騎士団長が剣を抜くと、ホフマン侯爵は逃げ場のないことを悟り、両手を上げた。
「これでいいかな?」
パトリックが縄を解きながら、倉庫の奥に視線を向けた。薄暗い柱の陰から、上等な外套を纏い、優雅な足取りでアナスタシアが姿を現した。
「ええ、迫真の演技でしたわ」
アナスタシアは小さく拍手をしながら、パトリックに微笑んだ。
これはすべて、アナスタシアが仕組んだ計画だった。
ホフマン侯爵を排除しなければ、パトリックの安全は保障されない。ルビアン王国最大の派閥を率いる侯爵の権勢は、王家すら脅かすほどのものだった。生半可な罪状で告発したところで、貴族院にもみ消されるだろう。侯爵を確実に失脚させるには、この国で最も重い罪――反逆罪でなければならなかった。
だからこそアナスタシアは、パトリックを囮に使うことを考えた。毒殺未遂の後、パトリックが生きていると匂わせる手紙を送りつければ、ホフマン侯爵は必ず差出人もろとも口封じに動く。大人しく金で解決するような男ではないことは、アナスタシアが誰よりもよく知っていた。
「殺す気満々でしたわね、あの侯爵」
アナスタシアがそう言うと、パトリックは肩をすくめた。
「君の読み通りだったな。金貨千枚など、はなから払う気もなかったようだ」
「当然です。ホフマン侯爵にとって私たちは、始末すべき厄介者でしかありませんもの」
騎士団長がホフマン侯爵の縄を持ちながら、こちらに歩み寄ってきた。
「殿下、ティロル嬢。すべて、この目でしかと見届けました。証人はここにいる騎士たちも含め、十分すぎるほどです」
倉庫内に集められた騎士たちは、王宮直属の騎士団であり、彼らの証言は貴族院においても重い意味を持つ。ホフマン侯爵がパトリック王子の殺害を部下に命じた瞬間を、百人を超える騎士たちが耳にしていた。もはや、どのような弁明も通用しない。
「な、なぜ……」
ホフマン侯爵は縄を打たれながら、呆然とした顔でパトリックとアナスタシアを見比べていた。
「毒への耐性は嘘だ。僕はあの日、あなたの企みに気づいたティロル嬢の忠告で、毒入りのコーヒーを飲んで倒れたふりをした。医者が修道院に運ぶように見せかけて、僕をカフェから連れ出した。すべてティロル嬢の計算通りだったのだよ」
パトリックが静かに告げると、ホフマン侯爵は目を大きく見開いた。
「では、あの手紙も……」
「ええ、私が書いたものです」
アナスタシアが一歩前に出た。
「プライドの高いあなたは、脅されれば必ず逆上する。それがよくわかっていました。金銭を要求すれば、冷静さを失うはずだと。だからこそ、あなたを反逆者として引きずり出す舞台を用意させていただきました」
ホフマン侯爵は言葉を失い、肩を落とした。宰相として、貴族の最大派閥の長として長年権勢を振るってきた男の末路は、あっけなかった。
「連れて行け」
団長の号令で、ホフマン侯爵は騎士たちに引き立てられていった。倉庫に残されたパトリックとアナスタシアは、無言で後ろ姿を見送った。
「王子を囮にするなんて、大胆なことを考えたね」
「怖かったですか?」
「いや、アンナと一緒だったから」
苦笑いするパトリックを見て、アナスタシアは口元をゆるめた。
「これで、王国最大の懸念は片付きましたね」
「そうだね。でも、まだ終わりではないよ」
「わかっています。ですが、先ずは勝利を祝いましょう」
倉庫に薄い光が差し込んできた。そろそろ夜が明ける。
アナスタシアはその光をしばらく見つめ、静かに歩き出した。
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