6.パトリック
夕暮れのカフェは、貴族婦人や仕事帰りの紳士で賑わっていた。カップとソーサーが触れ合う音、婦人の高い笑い声、紳士の真剣な話し声。コーヒー豆の香ばしい匂いが店内に満ちていた。
エリクはカウンターの奥から、扉を開けて入店した青年の姿を確認した。
パトリック第一王子。質素な外套を纏っていても、その存在感は隠しきれなかった。
カウンターのエリクは、どこからか視線を感じた。ホフマン侯爵の手下が店内から監視しているのか、外から見張っているのかもしれない。
エリクは手の震えを堪えながら、窓際のテーブル席に腰を下ろしたパトリックに注文を取りに向かった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
「コーヒーを一つ」
「かしこまりました」
エリクは懐に忍ばせていた手紙を伝票に重ねてテーブルの上に置いた。パトリックの視線がわずかに動いたのを確認すると、エリクは小さく頷き、足早にカウンターへと戻った。
カウンターでコーヒー豆を挽くエリクは、アナスタシアから受け取った包みを取り出した。ホフマン侯爵家の関係者がエリクを監視しているだろうから、粉をコーヒーに入れないといけない。
中身は毒ではない、とアナスタシアは言った。信じるしかない。包みを持つエリクの手が震えた。
エリクは粉をコーヒーに溶かし、湯気の立つポットとカップをトレイに載せて、パトリックのテーブルに運んだ。
「お待たせいたしました」
手紙を読んでいたパトリックは、コーヒーをポットからカップに入れた。そして、カップに注がれたコーヒーを口にした。
それはエリクがカウンターに戻った直後だった。
「ぐうぅっ!」
パトリックの表情が歪み、カップが音を立てて床に落ちた。パトリックは喉を押さえ、身体をねじった後、椅子から崩れ落ちた。
「えっ……!」
エリクはその場に立ち尽くした。
毒ではない、アナスタシアはそう言った。だが、目の前で倒れたパトリックを見て、頭が真っ白になった。
「きゃーー!」
パトリックの隣の席の婦人が悲鳴をあげた。「病人だ。馬車を呼べ!」と別のテーブル席の紳士が叫んだ。
店内が騒がしくなったその時、扉が勢いよく開き、長いローブを纏った男が駆け込んできた。男は医者の腕章をしていた。
「どうしました? しっかりしてください!」
医者はパトリックの手首を取り、瞳孔を確認し、慣れた手つきで容体を診た。
周囲の客が息を呑んで見守る中、医者は従者とともにパトリックを抱え上げ、店の前に停めた馬車へと運び込んだ。馬車には修道院の紋章が入っていた。
走り出す馬車を、エリクは虚ろな表情で見ていた。動けなかった。
馬車が曲がり角に消えると、二人の紳士が慌てて店内から出ていった。
**
馬車は追跡を振り切るため、何度も細い路地を曲がった。
その馬車が向かった先は、王宮でも医療施設でもなかった。街外れの古い小屋だった。
馬車が停まると、パトリックは自らの足でキャビンから降り、小屋の入口に歩いた。パトリックが五回ノックすると、中からアナスタシアが扉を開けた。
「パトリック殿下、ご足労をおかけいたしました」
跪こうとするアナスタシアを、パトリックは手で制した。
「どうぞそのままで。礼を申し上げるのは僕のほうです。まさか、人目の多いカフェで命を狙われるとは……油断していました。実に、お恥ずかしい限りです」
パトリックは苦笑いを浮かべた。血色はよく、表情は穏やかだった。
全ては、アナスタシアが仕組んだ芝居だった。
ヒ素による毒殺が失敗したとホフマン侯爵家に気づかれれば、次はより強引な手段に出るかもしれない。ならば、いっそ毒殺が成功したと思わせ、極秘裏に店の外へ連れ出せばいい。アナスタシアはそう考え、信頼できる医者に協力を依頼した。
後になってホフマン侯爵家が計画の失敗を知ったとしても、問題ない。護衛を厳重にしておけば、パトリックの身に危険はないだろう。
「ところで、なぜ私の手紙を信じていただけたのですか?」
この計画を成功させるために、アナスタシアが懸念していたことだった。見ず知らずの令嬢からの警告を、何の疑いもなく信じるなど、普通ならばあり得ない。一国の王子であれば、なおさらだ。
もしパトリックに信じてもらえなければ、この計画は成功しなかった。
「僕は以前にも、命を助けてもらったことがあったんです。そのときのことを、思い出したので。少しお話しても?」
パトリックが照れながら尋ねると、アナスタシアはこくりと頷いた。
「僕は八歳のときに、誘拐されたことがあります。暗い部屋に監禁されて、怖くて泣いていました。その翌日、僕と同じ年頃の女の子が、部屋に連れてこられました。その子も誘拐されたのでしょう」
パトリックの声が、懐かしむように柔らかくなった。
「その女の子はすごかった。いとも簡単に部屋の扉を外して、僕を逃がしてくれたんです。別れ際、僕は彼女にロザリオを渡しました。ちょうど、そんなロザリオです」
パトリックが指差した先――アナスタシアの胸元には、銀の鎖に、水色の天然石がはめ込まれたロザリオが揺れていた。
「リック……?」
アナスタシアは無意識にその名を呟いた。
「久しぶりだね、アンナ」
パトリックの頬がゆるんだ。
誘拐事件はアナスタシアにとっても忘れられない思い出。無事に屋敷に戻ったアナスタシアは、リックのことを調べた。だが、ルビアン王国の貴族名簿には、リックという名の子息は載っていなかった。だからアナスタシアは、リックは他国の貴族の子息なのだろうと思い込んでいた。
まさか第一王子の愛称だったとは……貴族名簿に登録されていないわけだ。
よくよく考えてみれば、当然のことだった。王族に対して愛称を使う者など、この国にはいない。だから、どれだけ調べてもリックには辿り着けなかった。
「これが、僕が手紙を信じた理由だよ」
パトリックはゆっくりと歩み寄り、アナスタシアの前に立った。
「会いたかったよ、アンナ」
「私も……」
アナスタシアの視界が涙で揺らいだ。
あの日、暗い部屋で震えていた少年の顔と、目の前で微笑むパトリックの姿が重なった。
毒殺されたパトリックの未来を変えられた。ならば、エラの未来も変えられるはずだ。
アナスタシアには、暗い部屋を照らす小さな光が見えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆で評価していただけると大変励みになります!




