8.ガラスの靴
王立学院の中庭には、初夏の陽射しが降り注いでいた。ようやく顔を出した黄色い花が風に揺れ、噴水の飛沫が花壇に降り注いだ。
アナスタシアはパトリックとの待ち合わせ場所へ向かいながら、この数週間の出来事を思い返していた。
ホフマン侯爵の反逆罪裁判は、ルビアン王国中の話題を独占していた。証拠は積み上がる一方なのに、侯爵は頑として無罪を主張し続けた。判決が下るまでには数年間かかるだろうというのが、大方の見立てだった。
だが、裁判の行方がどうであれ、すでに政局は動いていた。反逆罪という重い嫌疑をかけられたホフマン侯爵派は事実上瓦解した。かつて侯爵に群がっていた貴族たちは蜘蛛の子を散らすように離れ、代わって第一王子パトリックを支持するグレイ公爵派が貴族院の過半数を超えた。
ホフマン侯爵の長男ロベルトは、判決を待たずして王立学院を去った。誰にも何も伝えず、学院長に退学願を提出して姿を消した。プライドの高い彼にとって、好奇と憐れみの入り混じった視線を浴び続けることは、何よりも耐え難かったのだろう。
東屋の前に差し掛かったとき、向こうから見覚えのある青年が歩いてくるのが見えた。ジュリアーノだった。陽光が当たった金色の髪がきらきらと光っていた。
「ごきげんよう」
アナスタシアが会釈すると、「兄上から聞きましたよ」とジュリアーノは声を弾ませた。
何の話かはすぐにわかった。ホフマン侯爵のことだ。パトリックから倉庫での捕り物劇を聞いたのだろう。私のことが誇張されて伝わってなければいいのだけれど……アナスタシアは苦笑いした。
アナスタシアにはずっと気が咎めていたことがあった。
ホフマン侯爵が力を失った今、もう妹のエラに危険が及ぶことはない。であれば、エラとジュリアーノが結ばれても、問題はないはずだ。
アナスタシアは言葉を選びながら切り出した。
「ジュリアーノ様が我が家にいらっしゃったとき、私は、妹に婚約者がいるとお伝えしました。覚えていますか?」
「もちろんです。僕を責めるような口調だったので、驚きましたよ」
「あれは嘘です。騙してすみません」
アナスタシアは「事情があったもので」と小さく肩をすくめた。
ジュリアーノは目を丸くしたまま、しばらく言葉を発しなかった。
あれはエラを守るために咄嗟についた嘘だった。ホフマン侯爵が失脚する前に、エラとジュリアーノを親密な関係にするわけにいかなかった。だが、今は事情が違う。
パトリックが来るまでの間、二人は中庭のベンチに腰掛け、他愛のない話をした。学院の授業のこと、最近読んだ本のこと。口下手だと思っていたジュリアーノは、思いのほか話し上手だった。
そこへ、もう一つ見覚えのある顔が近づいてきた。
「あら、お姉様。恋人の王子とご一緒でしたか」
エラはからかうような笑みを浮かべていた。
アナスタシアは長いため息をついた。エラにもまた、嘘をついていた。嘘をつくのはよくないとわかっていたけれど、あのときはそうするしかなかった。
「エラにはこの前、ジュリアーノ様が私の恋人だとお伝えしましたね。あれは嘘なの。騙してごめんなさい」
アナスタシアは「事情があったのよ」と先ほどと同じように肩をすくめた。
エラはあっけにとられた表情で、ジュリアーノと顔を見合わせた。次の瞬間、ジュリアーノを見つめるエラの頬が、みるみる赤く染まっていくのが、アナスタシアにははっきりと分かった。二人の間に流れる空気が、さっきまでと違っていた。
アナスタシアがそっと視線を逸らすと、ちょうど一羽の緑色の鳥が羽音を立てて空へと舞い上がった。その羽ばたきを目で追いながら、アナスタシアはふと記憶を思い返していた。
エラの身長はホフマン侯爵の娘ハンナよりも頭一つ分は高い。身長差のある二人の足のサイズが同じだとは、どうしても思えなかった。だとすれば、あの舞踏会でエラが履いたガラスの靴は、エラの足に合わせて製作されたものだったと考えるのが自然だろう。
アナスタシアは魔女のクリスティーナに、エラがジュリアーノと出会う前に戻すように頼んだ。二人が出会う一年前に戻った、とアナスタシアは考えていたけれど、それは勘違いだったかもしれない。舞踏会の一年前に二人は出会っていたのだろう。
舞踏会でガラスの靴を履いたから、二人が恋に落ちたのではない。二人は元々惹かれ合っていた。ガラスの靴は、結婚を周囲に納得させるために二人が考えた芝居だったのだ。
アナスタシアは口元を緩めた。
「じゃあ、お姉様の王子じゃない恋人は?」
エラが目を細めて尋ねた。騙されたことを怒っている様子はなく、むしろ面白がっているような口ぶりだった。アナスタシアは小さくため息をついてから、視線を横に向けた。
「あの人よ」
アナスタシアが指し示した先――中庭の入り口から、手を振って歩いてくる青年の姿があった。
「アンナ、お待たせ。みんな揃ってどうしたの?」
パトリックがアナスタシアの隣に腰を下ろすと、「えっ?」とエラとジュリアーノは同時に目を大きく見開いた。
初夏の風が中庭を吹き抜け、木の葉を揺らした。
やがてエラが「王子じゃない恋人って言ったのに」と小さく笑い声を漏らし、それにつられるようにジュリアーノも「王子だよね」と肩を震わせた。
お似合いの二人を見つめながら、アナスタシアは口元を引き締めた。
可愛い妹を、灰まみれのエラにはさせない。絶対に。
―了―
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