4.リックとの出会い
幼いころのアナスタシアは、川遊びが好きだった。
その日、陽の光を受けて跳ねる魚の群れを追いながら、アナスタシアは川辺にしゃがみこんだ。侍女が屋敷の裏で洗濯物を干している間、少しだけ、と抜け出したのだった。七歳のアナスタシアは、その「少しだけ」がどれほど危ういものか、理解していなかった。
背後で草を踏む音がすると、振り返る間もなく、大きな手がアナスタシアの口を塞いだ。
抵抗する暇もなく、布で目と口を覆われた。助けを呼ぼうとしたけれど、怖くて声が出なかった。アナスタシアは担がれてどこかへ運ばれていった。
どこに連れていかれるのか……何も見えなかったけれど、川のせせらぎが遠ざかっていくのは分かった。
目隠しを外されると、そこは薄暗い部屋だった。木の壁、木の床。古い小屋のようだった。
アナスタシアの前には覆面をした男が立っていた。小さな窓から差し込むわずかな光が、埃まみれの床を照らしていた。
目を凝らすと、部屋の隅に人影があった。それはアナスタシアと同じ年頃の男の子だった。上質な上着、丁寧に切り揃えられた前髪。薄暗がりの中でも、それが貴族の息子であることはすぐにわかった。
「大人しくしていれば殺さない」
男は扉を開けて、部屋から出ていった。男の足音が遠ざかっていくのを確かめてから、アナスタシアはそっと男の子に声をかけた。
「私はアンナ。あなたは?」
アナスタシアは上ずらないように声を出した。男の子は顔を上げ、ぎこちなく笑った。
「リックだよ」
人は、自分よりも下にいる人間を見て安心する。リックの引きつった表情を見て、アナスタシアは張っていた肩の力が抜けるのを感じた。
緊張した面持ちのリックに、アナスタシアはしつこく話しかけた。アナスタシアは話し相手がほしかった。
アナスタシアがどうやって連れてこられたかを尋ねると、リックはぼそぼそと話し始めた。
リックがここに連れてこられたのは一日前。部屋に入れられた当初は怖くて泣いていたが、そのうち、じっとしていても状況は改善しないと思い直した。天井の染み、壁の木目、扉の隙間から見える外の様子、リックは閉じ込められた部屋の中からできる限りのことを観察した。
「誘拐犯は二人。出ていくと、しばらく戻ってこないんだ。見張りもいない」
リックは得意げに言った。
「この扉を外せば、逃げられるはずだ」
リックは扉に手をかけ、力いっぱい持ち上げた。蝶番の軋む音がしたが、扉はびくともしなかった。子どもの力で持ち上がるほど、軽くはなかった。リックは息を切らして、悔しそうに唇を噛んだ。
さて、どうするか? アナスタシアは部屋の中を見回した。積まれた木箱、丸められた縄、壁に立てかけられた長い棒。物干し竿だろうか?
「次は私の番よ!」
アナスタシアは棒を手に取ると、扉の前に転がっていた木材の切れ端を支点になるよう置いた。そして棒の先端を扉の下の隙間に差し込んだ。
「リック、この棒を一緒に引っ張って」
二人で棒の端を力いっぱい下ろすと、あっさりと扉が浮き上がった。軋む音がしたら、蝶番が外れた。
「どうやったの?」
リックが目を丸くして尋ねた。
「てこの原理よ。知らない?」
アナスタシアは得意げに腕を組んだ。
先週、てこの原理を家庭教師から教えてもらった。その知識がこんな形で役に立った。
扉の外に出ると、リックの言った通り、見張りの姿はなかった。
二人が閉じ込められていたのは、森の奥にひっそりと建つ、木造の小屋だった。小屋の周囲には鬱蒼とした木々が広がり、鳥の鳴き声が響いていた。
「行きましょう」
アナスタシアはリックの手を取った。リックの手は冷たくて震えていたけれど、しっかりとアナスタシアの手を握り返してくれた。
アナスタシアとリックは森の中を、足音を殺して歩いた。誘拐犯に見つかることを恐れて、時折、木の幹に身を隠しては息を潜め、周囲の気配をうかがった。葉が風で揺れるたび、心臓が飛び出そうだった。
王都は海に面しており、森があるのは東側のみ。西に歩けば森から出られるはずだった。アナスタシアとリックは太陽の方向を目指して歩き続けた。
枝に引っ掛かってドレスの裾が破れた。水溜まりを歩いた靴は泥まみれになった。でも、アナスタシアは気にしなかった。屋敷に帰れば、新しいドレスを買ってもらえるから。
どれほど歩いただろうか。木が途切れ、視界が開けた。
そこは、王都郊外の何度も馬車で通ったことのある場所だった。通りに敷き詰められた石畳、果物屋、布が並んだ商店、見るもの全てが懐かしかった。
「ここまで来れば、大丈夫ね」
深く息を吐き出すと、アナスタシアは繋いでいたリックの手をそっと離した。
「私は屋敷まで歩いて帰るわ。あなたは?」
「僕も、帰れそうだ」
リックは頬を緩ませた。強張っていた表情が、やっと笑顔になった。
別れ際、リックは思い出したように、首にかけていた紐を外した。
「助けてくれたお礼に、受け取って」
リックが差し出したのは、小さなロザリオだった。銀の鎖に天然石が揺れていた。
天然石は見たこともない澄んだ水色だった。石を陽にかざしたアナスタシアは目を輝かせた。
「綺麗ね。本当にもらってもいいの?」
「もちろんだよ」
「後で返せ、とか言わない?」
「言わない」
リックは頭をかいた。
その仕草に、アナスタシアは笑顔をこぼした。
恐ろしい一日だったはずなのに、リックと過ごした時間は楽しかった。
「また会いましょう!」
そう言って、アナスタシアは屋敷に向けて歩を進めた。少し歩いてから振り返ると、リックは立ったまま、アナスタシアを見つめていた。
その目には、今にもこぼれ落ちそうな涙の粒が光っていた。




