2.操り人形
目を開けると、アナスタシアは寝室の鏡の前に座っていた。
同じ寝室。同じ鏡。だが鏡に映ったアナスタシアは若かった。
クリスティーナはエラがジュリアーノと出会う前に時間を戻したはずだが……いつだろう?
アナスタシアは慌てて引き出しから日記を取り出した。最後のページをめくると、十一年前の日付だった。
十一年前のアナスタシアは十七歳、エラは十六歳だ。エラが舞踏会でジュリアーノと出会ったのは十七歳のときだから、一年の猶予がある。アナスタシアはほっと胸を撫でおろした。
アナスタシアとエラはジュリアーノと同じ王立学院に通っていた。学院でエラとジュリアーノが出会わないとは限らないから、アナスタシアは二人を監視することにした。
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その日の王立学院は、春の陽気に包まれていた。アナスタシアが中庭に出ると、校舎裏の一角で数人が一人の少年を取り囲んでいた。
「無礼者! 貴族の前を歩くときは、道を譲れ」
ホフマン侯爵家の長男ロベルトの前で跪くのは、平民のエリク。王立学院でも一二を争う成績の生徒だ。ロベルトは歪んだ笑みを浮かべていた。
貴族子女のための王立学院ではあるが、学業成績が優秀なエリクは特別枠で入学が認められた。しかし、平民の優等生の存在が面白くない貴族子息は多かった。
「……申し訳ありません」
エリクが深々と頭を下げると、ロベルトは「ふんっ」と鼻で笑った。
「謝れば済む問題ではない。身分を忘れぬよう、教えてやっているのだ」
周囲の貴族子息たちも同調するように、「平民は礼儀を知らないからな」と笑い声を上げた。
エリクは拳を握り締めたまま、下を向いていた。逆らえば状況が悪くなることは分かっていた。
「……どうしましたか?」
静かな声が中庭に響いた。笑い声がぴたりと止まり、全員が振り返った。
そこにはルビアン王国第二王子のジュリアーノが立っていた。
「王子殿下」
貴族子息たちは慌てて一礼した。ジュリアーノはエリクとロベルトに近づいた。
ロベルトは愛想笑いを浮かべていた。
「ご心配には及びません、殿下。これは平民へのしつけでございます」
ロベルトは恭しく頭を下げながら答えた。
「しつけですか?」
「はい。王立学院では、平民も学ぶ機会を与えられております。だからこそ我々貴族は平民を指導する必要があります」
ロベルトは穏やかな口調を崩さなかった。ジュリアーノは黙っていた。ロベルトはその沈黙を肯定とみなした。
「ルビアン王国のために、身分の秩序を徹底すべきです。殿下も指導者として、この者にお言葉をいただけませんか」
ロベルトは笑みを浮かべた。跪いたエリクの肩が震えていた。
「平民を甘やかせば勘違いします。王子殿下のお言葉なら、この者も自分の立場を深く理解するでしょう。これは教育であり、王国の秩序を守るための務めです」
ロベルトはジュリアーノに名誉な役目を勧めるかのようだった。
「教育ですか」
ジュリアーノは苦笑いをしながら、ロベルトから視線を逸らした。
ロベルトたちの顔色を窺うジュリアーノを見て、アナスタシアは長いため息をついた。
王位を継承したジュリアーノは、側近に言われるままに政策を推し進めた。そんなジュリアーノを「ホフマン侯爵の操り人形」と陰で呼ぶ者もいた。
もし、ジュリアーノが本気でエラを守ろうとすれば、救えたはずだ。しかし、側近に遠慮し、見て見ぬふりをした。
自分の意思を持たず、側近の顔色を窺うジュリアーノ。その人格は、王立学院で形成されたのではないか? アナスタシアはそう考えた。
アナスタシアの計画は、第一にエラをジュリアーノに接触させないこと。第二にエラを守る体制を作ること。
ジュリアーノが操り人形でなければ、エラの助けになる。
中庭の一団へ向かっていくアナスタシアにロベルトが気づいた。アナスタシアはドレスの裾をつまんで、礼儀正しくお辞儀した。
「あら、貴族の恥晒しの皆さま。ごきげんよう」
顎を上げ、見下すような目つきで吐き捨てた。ロベルトは一瞬眉を吊り上げたものの、すぐに表情を戻した。
「恥晒しとは、殿下に失礼ではありませんか?」
ロベルトは愛想笑いを浮かべた。
「ジュリアーノ殿下に対してではありません。ロベルト様、あなたに対してです」
「どういう意味ですか?」
ロベルトの語気が強くなった。怒りを表に出し始めたロベルトを見て、アナスタシアは必死に笑いをこらえた。
「身分が高い者ほど、自らを律しなければならない。教育が必要なのはエリクではなく、ロベルト様です。ジュリアーノ殿下、そう思いませんか?」
アナスタシアが笑顔で尋ねると、ジュリアーノは落ち着きなくあたりを見回した。アナスタシアとロベルトが愛想笑いを浮かべると、ジュリアーノはどちらも目を合わせられず視線を逸らした。
「礼節とは、相手を辱めることで教えるものではなく、自らの振る舞いで示すものです」
ロベルトの笑みが凍り付いた。アナスタシアは一歩前へ出た。
「ロベルト様は貴族の品位を下げています。だから、貴族の恥晒しなのですよ」
誰一人として、アナスタシアに言葉を返せなかった。中庭には風が吹き抜け、木々の葉がさわさわと揺れた。
アナスタシアはエリクへ向き直った。
「怪我はありませんか?」
「は、はい……ありがとうございます」
「教室へ戻りましょう。ジュリアーノ殿下も一緒にいかがですか?」
ジュリアーノはアナスタシアに促されるまま歩き出した。エリクは深く頭を下げ、その後を追った。
残されたロベルトたちは、ただ無言で立ち尽くしていた。




