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ヴァンスは幸福に包まれた暮らしを送っていた。
帰りが遅くなる日が続いても文句ひとつ言わずに迎えてくれる妻がいて父の忙しさを理解してか年頃の娘は反抗期も無いどころか職場にお弁当を届けてくれるくらいに仲が良い。
こんな幸福を決して手放したくなかった、だからあの女が目の前に現れた時に思った。
自分の平穏が崩れてしまうと。
あれはたった数度の遊び、若さ故の過ち。
ふらっと立ち寄った店で見窄らしくはあるが綺麗な女を見つけて声を掛ける。
結婚したてではあったが優秀な医者という自負と裕福さを併せ持つ当時のヴァンスは自身のステータスをこのまま家庭に埋没させる事に勿体無さを感じ妻がいる事を隠して近付いた。
話してみるとその女は貧民街近くに住んでいるとの話でヴァンスにとってちょうど良かった。
同じ街でありながらも住む世界が違う、これなら好きな時に遊べるし自分のような人間がこんな貧相な女を相手にしているなんて誰も思わないだろうから周りにバレる事もないだろうと。
そして思い付いたのが下劣極まる遊び。
優しく接してとことんまで本気にさせてから捨てる、そんな遊びを楽しめるほどにヴァンスは傲慢だった。
恵まれた環境で育ったヴァンスは自分より下の人間を見下すきらいがあり彼にとってそれらは才能も無く努力もしない怠惰な人間、どうしようもない存在でだからこそどう扱っても構わない。
『子供が出来た』
そんな話を嬉しそうに伝えてきた瞬間、それが絶好のタイミング。
ヴァンスはそこで別れ話を切り出す。
期待が一転して絶望に変わる、遊ばれてるとも知らず本気になった女を心の中で嘲笑う。
しかしヴァンスにだって一定の良心はある。
中絶費用と手切れ金だけは払うと伝えたがその女は何故か断った。
自分の血が混じった子供なんか作られれば後々面倒な事になりかねないと必死で堕ろすように言い聞かせたが女は聞き入れず引き摺ってでも連れて行くわけにもいかず結局そのまま別れてそれっきり。
貧乏人が一人で子供を育てていけるはずがない、きっとどこかで野垂れ死ぬとヴァンスも気にかけずに放置し家庭に戻ったとき運命の悪戯か本当に愛する妻から妊娠を伝えられたことで彼の遊びは終わった。
偽物の子など厄介極まりなかったが本物の子は違う、実際その手に抱いて子を宝物のように扱う周囲の父親の気持ちがようやく理解できた。
それからヴァンスは心を入れ替え、ただ家庭の幸福の為に毎日の時を過ごす。
一点の曇りもない完璧な人生、これがずっと続くと信じていた、しかしそこに唐突に暗雲が立ち込める。
捨てたはずの、死んだと思っていた過去が足元に纏わりついてきた。
病に冒され死にかけの女。
ヴァンスは職業は伝えていたが偽名を使っていたし働いている場所も伝えていなかった、だからこの再会は不運な事故だろう。
かろうじて覚えていた名前でヴァンスは気づく事ができたがあれから何年も経っている、向こうはすっかり忘れたのかヴァンスの顔を見ても特に反応を示すことはなかった。
その女の主治医となって顔を合わせる事も避けられない状況に追いやられたが何度対面し話をしても女は何も言い出さなかった。
このまま無関係でいられる、平穏は崩されない、暗雲は時間が経てば晴れると信じていた。
『話があります』
平穏に亀裂が入る音が聞こえた。
これまでずっと知らぬ顔をしていた女がいつもとは違う神妙な面持ちで切り出してくる。
嫌な予感に額には汗が滲む。
女の短い言葉の中に溶け出した緊張感と微かな敵意、それはただの医者と患者の関係では生まれない近さがある。
切り捨てた過去が今になって形を成して足元に纏わりついてきた。
『あの時、あなたが私に渡そうとしていた手切れ金を下さい』
『自分から断っておいて何を今更』
『みっともない事をしているのは重々承知してます、でもお金が必要なんです』
『ふざけるな。もうお前とは何の関係も無い』
『私とは無くても私の子とは無関係じゃない。あの子にはあなたの血が半分流れてるんですから』
過去を暴露されてしまえば知らぬ存ぜぬを貫いたところでそこを調べられれば言い逃れ出来ない。
『脅しているのか? 従わなければ何もかも言いふらすと』
『家庭を壊したくはないでしょ? 可愛い娘さんもいるんだから』
『それはお前も同じだろ。そんな汚い真似をしないといけないまでに金に切羽詰まってるのならこんな場所に居るべきじゃない。大事な娘の為にも余計な出費を出さずに潔く死んでやったらどうだ』
それからヴァンスは治療にかかる費用を懇切丁寧に教えてやった。
ただでさえ貧弱でこれから先どれだけ生きるかも分からない女の延命の為に娘が背負う負債の大きさを。
術後もしばらくは娘に頼り切りの生活になる、ただのお荷物として大事な娘の人生を無駄に消費させるのだと現実を突きつける。
『お前が手術を望まなければ娘は幸せに生きられる。他人に金をせびるより先にもっと考える事があるんじゃないか』
女は何も言い返してこない。
理解しているのだろう、自分が死ねば娘は救われると。
『ゆっくり考えると良い、娘の為に何をするべきかを』
この女は死を望むという確かな手応えがある。
こいつさえいなくなれば再び平穏が訪れると安堵し病室を出たところでヴァンスはルキナと顔を合わせる。
口を開けばお母さんお母さんと耳障り。鬱陶しさを顔に出さないようにするのが本当に疲れる。こんな品性が無く汚らわしい子供に自分の血が少しでも流れているのかと疑いたくなる。
ヴァンスにとってそれは自分の子では無く他人‥‥でもなく病原菌に近い。
この病原菌を消し去る特効薬でも有ればと望まずにはいられない。




