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それからも取り留めのない会話を続けているうちに時刻はお昼時、ルキナは一人売店へと向かった。
普段は家で適当におにぎりでも作って持って来ていたが今日は荷物が多かったので用意していない。仕方なく買いに来たのだが今は後悔している。
汚いものを見るような不快感を露わにした視線が身体中に突き刺さる。
服はちゃんと洗ってるしお風呂にだって毎日入っている、だけど貧民街の匂いが染み付いているのか服のボロボロ具合、髪のボサボサ具合から不潔感を感じ取ったのか嫌な顔をされる。
とても大きな病院だ、本来ならルキナ達のような貧民街に生きる人間は近付くことすらあり得ない。
普段は朝早く母の病室に行って夕方の人が少なくなる時間までは部屋から出ないからそういう視線もあまり気にせずいられた、すれ違いざまの一瞬の悪意だけ見て見ぬふりすれば良かったからこんな事はなかった。
早く終わらせて戻ろうと会計に並ぶと後ろから声が聞こえた。
「こんな汚らわしいのを病院に入れるなど何を考えている」
わざわざ聞こえるように大きな声で後ろのおじさんがルキナを睨みつけていた。
咎める人はいない、この場の全員の意見が一致しているわけではなさそうだがそう思っているのはおじさん一人でもないみたい。程度の違いはあれルキナに対して汚いという感想を抱いている人間は他にもいると顔を見れば分かる。
「目つきも悪い、親の教育がなってないからこういうのが出来上がるんだ」
母の事を言われるとさすがに腹が立つ。はっきり言い返してやりたいがここで母の為にと問題を起こせば逆に母に迷惑をかける可能性があるから抑えた。
そもそも何を言ったってこの見た目じゃ悪者にされるのはこっちだとこれまでの経験でルキナは学んでいる。
黙ってやり過ごすしかないのだがこの手の輩は反撃されないと分かると調子に乗る。
「どんな病原菌を持っているのかも分からんのに‥‥」「食欲が失せる」「不快だ」などとしつこく悪意ある言葉を吐き出し続ける。
「いい加減にして下さい!」
怒りの声が響き渡り一瞬で辺りは静寂に包まれる。
その曇天に響く雷鳴の様な声の出所は驚いた事にルキナと同じくらいの一人の女の子。
汚れなんて一つもない綺麗な服にさらさらと流れる髪、ルキナとは真逆の存在。
諦めから来る翳りをもつルキナの瞳と違ってその子の瞳の中では炎が揺らめいている。
「あなた恥ずかしくないんですか、こんな歳の離れた子に一方的に嫌味を言って」
「歳など関係あるか! 汚いものが目に入れば不快になるのは当然、言われたくないならもっとちゃんとすれば良いだけのこと。こんなみっともない格好で出歩くこいつが悪い!」
「この中で一番汚いのが何か分かってないの? それはあなた、腐った言葉を周りに撒き散らして不愉快極まりない!」
「歳上に向かって敬意も払えんとは、今時のガキは甘やかされた馬鹿ばかりだな!」
「私は基本的に歳上には敬意を持って接します、問題があるのはあなた。歳だけ取れば何をしても敬われるだなんて思っている人にどう敬意を持てばいいんですか? あと、歳なんて関係無いって言ったのはあなたですよ。さっき言ったことも忘れて人に文句をつけるなんて愚かな行為だと思いますけど」
「愚か‥‥だと」
「ええ愚かです。人の価値を決めるのは年齢じゃない、もちろん容姿だって違う。どういう行動を取るかが一番大事なはずです。まさかあなたは何もしていない子にねちねちと悪口を言い続ける行いが誇らしいと本気で思ってるんですか? だとしたら甘やかされて育ったのはどっちなんでしょう?」
言い過ぎだ。
このままじゃ収拾がつくどころか余計に厄介な事になる。
「もういいから」
ルキナは女の子の手を取って連れ出す。
「えっ、待って!? まだ謝って貰ってないでしょ!」
まだまだこれからと言いたげに抵抗する女の子を「いいから」と半ば強引に引っ張ってようやく外のベンチまで連れて来れた。
「あんなの間違ってる、出て行くのなら向こうの方です!」
未だ闘志は健在の様子。
他人の為によくもそこまでとルキナは呆れつつも味方してくれた事に対する嬉しさもあった。
「私みたいなのが場違いなのはその通りだし」
「何言ってるんですか?病院に場違いも何もないですよ」
「違うよ。病院に限った話じゃない、この辺りにいるのがそもそも間違いなんだ。私は貧民街の人間だから」
「だから何です?貧民街の人はそこから出ちゃいけないなんて法律はないはず」
真っ直ぐな瞳でそんな事を口にする。
正しくて正しくない言葉。
法律による縛りは無くともそこに住まう普通の人が許さない。
誰だって汚いものは見たくない。綺麗であればあるほど汚れが目立つのと同じ様に綺麗に着飾った人達の中でルキナという汚れは浮き彫りになり存在するだけで不快感を与えてしまう。
行動として周りと違うからと排斥するのは正しくないと多くは語るだろう、だけど人は結局例外を作る。この場所において大勢がルキナを異物と認めるのならルキナがそこに居るのは間違いになる。
どれだけ歪でもその輪の中にいる方が楽に生きられる。
「そんなの綺麗事だよ。世の中は色んな線引きがされてる。そういう不文律があるからこそ上手く回ってるって側面もある。あんた達と私みたいなのは距離を取ってる方が良いんだよ」
これからも病院には通う、差別をしないこの子は次顔を合わせた時に笑顔で手を振って来るかもしれない。
こんな優しい子が自分と関わって輪の中から外されるのも嫌でルキナは敢えて嫌な言い方をした。
「世の中がどうあれ目の前で訳もなく虐げられてる人がいてそれを見ないふりするなんて私が嫌だっただけです。それに線引きされてるのは世の中にじゃありませんよ、それは個々の人の心がするもの。残念ながら私の心にそんな線引きはないんです、だから遠慮なく近寄ります」
周りなんて関係無い。
意志の強そうな目がそう語っている。
「誰も傷付かない選択をするのが一番じゃないですか」
そう言って笑う彼女にアリアの姿が重なった。
「ふふっ」
「何で笑うんですか!?割といい事言ったつもりなんですけど!」
「いやごめん、世の中なんて嫌な奴ばっかりだと思ってたけど馬鹿みたいな善人も同じくらいいるのかと思えてきてさ、ちょっとだけこの世界が良く見えてきた。ただの他人の為にあそこまで出来るなんて勇気あり過ぎだろ」
「勇気なんて無いですよ。私はただ悪行を見逃した人になりたくなかっただけですから。その証拠にほら‥‥」
彼女が差し出した手は震えていた。
「それと馬鹿は余計です」
二人して笑った。
それから少し他愛の無い話をして過ごし別れ際になってお互いの名前を教え合う。
彼女の名前はレティス、この病院で働いている父親にお弁当を届けにきたらしい。忙しくて家に帰る暇もないからせめて食事だけでも栄養のあるものをと母親が作ったそれを娘が持って来た。
お手本の様な美しくて優しい家族の在り方、だからこんな子に育ったんだろうなとルキナは納得した。
「じゃあまたね、ルキナ」
手を振るレティスにルキナも振り返すが慣れていないのが一目でわかるぎこちない動き。
「まだまだ練習が必要ですね」
悪戯に微笑んでレティスは去って行く。
柔らかな日差しの元で友達と喋って笑い合って、ルキナがただの夢だと諦めていた普通の日常。
苦労した分だけ幸福も訪れる、どこかで聞いた言葉。その時は随分夢見がちな言葉だと鼻で笑っていたけど今は違う。
やってきた事は無駄じゃない、ちゃんと報われるんだと世界を信じられる。
きっかけをくれたのはあの人、あの出会いからルキナの人生は好転した。
汚泥に塗れたルキナに不快な表情を少しも見せる事なく手を差し出してくれた人。
月の様に綺麗な白い手が黒に汚れる事も厭わず愛おしそうにルキナの手を包み込んだあの優しさに触れた時、そして耳元で囁かれた時にルキナは変われた。
内に渦巻く黒い感情、それは心が流した血、自己愛の成れの果てだと。
あなたの間違いは黒を拒んだ事、白いままでいようとするから穢れたこの世界はあなたの敵となりあなたを不幸にした。
あの人の白い腕を這っていく黒泥はやがて地面にぽちゃりと落ちる。
それは流れる血のようにも見えた。
もっと我儘になっていい、もっと自分を大切にしていい。
母親がどう思うかなんて考えないで自分の為に助けるの。
見殺しの白と救済の黒、どっちを選ぶべきかなんて分かるでしょう?
黒く染まって世界の輪の中に入ればきっとあなたにも幸福が訪れる。
恐れることはない、みんなそうして生きているのだから。
人の命を最も尊ぶこの世において人を助ける為に頑張る人間を間違いだと糾弾する者がいるのなら真の悪はそこにこそある。
あなたは正しい、自分の気持ちに素直になりなさい。
その言葉で覚悟が決まった。
自分の中の黒を受け入れ、そしてアリアを標的にした。
そのおかげで幸福な今があると言うのは気が引けるけどあの時、あの人に出会えたから動けた。あの出会いがなければきっと何もかも失っていたとルキナは確信している。
救われたのだ。




