第5話 売ったものを返せとは、厚かましい
レグナルト王国からの書状が届いた瞬間、夜会は夜会ではなくなった。
音楽は止まっていない。
楽師たちは、王太后陛下から合図がない限り演奏を止めないよう訓練されているのだろう。
弦の音は相変わらず柔らかく、燭台の光は相変わらず眩しい。
香草酒の香りも、焼き菓子の甘さも、貴婦人たちの香油も、何一つ変わっていない。
けれど、空気だけが変わった。
視線が増えた。
それも、私を見る視線だけではない。
王太后陛下を見る視線。
カシアン殿下を見る視線。
レグナルト王国の封蝋が押された書状を見る視線。
そして、再び私へ戻ってくる視線。
なるほど。
噂が生まれる瞬間とは、こういうものなのか。
目が集まり、沈黙が厚くなり、誰かが最初の解釈を口にするのを待つ。
その一言が、夜会の意味を決める。
今夜、私は見世物としてここに立った。
断頭台の痕を見せる悪女として。
だが、レグナルト王国からの返還要求により、私は別のものになった。
外交問題。
品物。
人質。
証拠。
あるいは、火種。
実に不愉快な名前ばかりである。
だが、不愉快でも名前があるなら利用できる。
王太后陛下は、閉じた黒い扇を膝に置いたまま、侍従へ視線を向けた。
「書状を、カシアンに」
「はっ」
侍従が書状を持って、カシアン殿下のもとへ歩く。
広間の者たちは、誰一人として露骨に身を乗り出さない。
しかし全員が聞き耳を立てている。
礼儀正しい盗み聞き。
宮廷らしい。
カシアン殿下は書状を受け取ると、封蝋の跡を眺めた。
「王太子ラウレンツ殿下の名ですか」
「国王陛下ではなく?」
王太后陛下が尋ねる。
「ええ。差出人はラウレンツ王太子殿下。王璽ではなく、王太子璽です」
広間の一角で、誰かが小さく息を吐いた。
王太子璽。
つまり、レグナルト国王の正式な意思ではない。
ラウレンツ殿下個人、あるいは王太子府の判断。
早すぎる返還要求。
正式な外交文書としては、雑だ。
焦っている。
私はそれを理解した瞬間、胸の奥が冷たく澄んだ。
そうですか。
殿下。
そんなに私が生きていると困るのですね。
「内容は?」
王太后陛下が言った。
カシアン殿下は書状に目を落とした。
その顔には、困惑も怒りもない。
ただ、面白くなってきた本を読む時のような気配だけがある。
腹立たしい。
今、私はたぶん重大な外交案件の中心にいる。
それなのに、この男は本当に観劇している。
「要約しますか、原文を読みますか」
「要約でよいわ。原文はどうせ腹が立つのでしょう」
「ご慧眼です」
カシアン殿下は、少しだけ口元を上げた。
「レグナルト王国王太子ラウレンツ殿下は、オルネア・フォン・オルデンフェル嬢の身柄引き渡しについて、重大な手続き上の瑕疵があったと主張しています」
手続き上の瑕疵。
ずいぶん便利な言葉が出てきた。
処刑台の上で私を売る時には、手続きのことなど気にしていなかったくせに。
「続けて」
「大罪人である彼女は、レグナルト王国法において刑の執行対象であり、国外移送には国王陛下の改めての裁可が必要である、と」
「国王は処刑場にいらしたでしょう」
王太后陛下が淡々と言った。
「ええ。しかも、止める合図をなさいました」
「つまり、見ていた」
「はい」
「聞いていた」
「はい」
「黙って許した」
「はい」
王太后陛下は黒い扇で、軽く膝を叩いた。
「ならば遅いわね」
怖い。
非常に怖い。
この人は、怒る時も声を荒げない。
ただ、相手の逃げ道を一つずつ扇で潰していく。
「さらに」
カシアン殿下は続けた。
「オルネア嬢は聖女エルシャ様への毒殺未遂犯であり、彼女の国外移送はレグナルト王国の民心に不安を与える。よって、アルヴェリス王国には友好国として、速やかな身柄返還を求める、とのことです」
友好国。
速やかな身柄返還。
私は思わず笑いそうになった。
不思議なものだ。
断頭台の上では笑えなかった。
だが今は、少し笑える。
人間は、あまりにも厚かましいものを見ると、涙より先に笑いが出るらしい。
「オルネア嬢」
王太后陛下が、私を見た。
「はい」
「笑いたいなら笑ってよいわ」
広間が、わずかに揺れた。
私は王太后陛下を見た。
この方は、本当に人の内側を切る。
私が笑いを噛み殺したことに気づいていたのだ。
「恐れ入ります」
私は扇を半分だけ開いた。
保留。
笑ってよいか。
笑わない方がよいか。
迷っているふりをする。
その実、もう決めていた。
「ですが、今笑いますと、レグナルト王国王太子殿下の書状を嘲笑したことになります」
「実際、嘲笑に値するのではなくて?」
「それは王太后陛下がおっしゃるなら外交判断ですが、私が言えば私怨になります」
王太后陛下の口元が、刃のように上がる。
「では、あなたは私怨を慎むの?」
「いいえ」
私は扇を閉じた。
ぱちり、と音が響く。
「私怨は大切に取っておきます。使いどころを誤るほど、安くありませんので」
今度は、広間のあちこちで小さな反応が起きた。
笑いかけた者。
息を呑んだ者。
扇で口元を隠した者。
サビーナ様などは、明らかに楽しそうに目を輝かせている。
ファルケン公爵夫人は、表情を変えない。
しかし、その扇の角度がほんの少しだけ変わった。
何の合図だろう。
あとでマルヴィナに聞こう。
「カシアン」
王太后陛下が言った。
「返事はどうするの」
「すでに案はございます」
「でしょうね」
「まず、レグナルト王国に対し、我が国は貴国処刑場における公開交渉の結果、穀物借款の免除を対価として、オルネア・フォン・オルデンフェル嬢の身柄を正当に引き受けた、と回答します」
「続けて」
「返還を望む場合は、まず免除された借款の復活、及びその間に発生した外交的混乱に対する補償額の提示を求めます」
広間が、また揺れた。
補償額。
ああ。
この男は、私を買っただけでは飽き足らず、返す場合にも値段をつける気だ。
「それで足りる?」
王太后陛下が尋ねる。
「いいえ」
カシアン殿下は、私の方を見た。
目が合った。
今度は、見てしまった。
彼は微笑んだ。
嫌な予感がする。
「さらに、返還には本人の意思確認が必要であると明記します」
広間が静まった。
本人の意思。
私の?
私は思わず、扇を握る手に力を入れた。
「殿下」
声が出た。
カシアン殿下は、楽しそうに私を見る。
「何でしょう、オルネア嬢」
「私は買われた罪人では?」
「レグナルトにおいては」
「アルヴェリスにおいては?」
「外交保護下にある亡命貴族です」
「昨日は余興とおっしゃいました」
「私個人としては」
「分類が多すぎます」
「便利でしょう」
「不便です」
「いえ、便利です」
カシアン殿下は、さらりと言った。
「罪人として扱えば、あなたは返還対象になる。亡命貴族として扱えば、本人の意思が要る。余興として扱えば、私が飽きるまで返しません」
最低だ。
最低だが、理屈が通っている。
この男は、私に複数の名を与えた。
不愉快な名ばかりだと思っていた。
けれど、今になって分かる。
名前が多いほど、相手はどの法で私を掴めばよいのか迷う。
罪人。
亡命貴族。
外交資産。
余興。
侯爵令嬢。
どれも檻だ。
同時に、どれも鍵になる。
「本人の意思確認というのは、今この場で?」
王太后陛下が尋ねた。
「それでも構いません」
「面白いわね」
王太后陛下は私を見た。
「オルネア嬢」
「はい」
「あなた、レグナルトへ返りたい?」
広間が再び沈黙する。
今夜、何度目だろう。
この広間は、静かになるのが上手い。
人が多いのに、処刑台より静かだ。
私はゆっくり息を吸った。
レグナルト。
生まれた国。
父がいる国。
母がいる国。
兄がいる国。
私を悪女と呼び、断頭台へ送った国。
私はそこへ帰りたいのか。
帰りたい。
正直に言えば。
屋敷に帰りたい。
母の部屋へ行きたい。
父の書斎へ入りたい。
兄に会いたい。
庭の白い花を見たい。
かつての私の部屋で眠りたい。
けれど、それはレグナルトへ返ることとは違う。
今、私が返されるということは、また彼らの手に渡るということだ。
もう一度、裁かれる。
今度こそ密かに殺されるかもしれない。
あるいは、聖女の慈悲で修道院送り。
王太子の寛大さで幽閉。
どちらにせよ、私の物語は再び他人の手に渡る。
それは嫌だ。
断頭台より嫌だ。
「返りません」
私は言った。
声は静かだった。
けれど、広間の奥まで届いたと思う。
「私は、レグナルト王国に帰りたい気持ちがないわけではありません」
あえて言った。
強がりだけではないと示すために。
「父も、母も、兄も、あの国におります。屋敷も、領地も、私の過去も、すべてあちらにあります」
胸の奥が痛む。
でも、止めない。
「ですが、今の私は、あの国に返るのではなく、返されるだけです」
扇を胸元に当てる。
拒絶。
「私は、もう二度と、自分の行き先を他人の都合だけで決められたくありません」
沈黙。
それは、先ほどまでと少し違う沈黙だった。
値踏みではない。
好奇心でもない。
ほんのわずかに、何かが届いた気配がした。
誰かの顔が、こちらを見る目つきが変わる。
多分、全員ではない。
だが、数人。
少なくとも数人は、私をただの悪女ではなく、帰る場所を奪われた女として見た。
同情はいらない。
だが理解は使える。
そのくらい、今の私は悪くなっている。
「よろしい」
王太后陛下が言った。
「では、そのように返事を出しましょう」
「王太后陛下」
私は思わず声を出した。
「何かしら」
「よろしいのですか」
「何が」
「私の意思を、外交文書に載せることです」
「なぜ悪いの」
「私は買われた立場です」
「ええ」
「余興です」
「ええ」
「外交資産です」
「ええ」
「でしたら、資産の意思など不要なのでは?」
王太后陛下は、私を見た。
黒い瞳。
老いてなお鋭い。
その視線は、レグナルト王国の貴婦人たちとは違った。
値踏みしている。
同時に、教育している。
「オルネア嬢」
「はい」
「アルヴェリスでは、高価な資産ほど意思を持つの」
意味が分からないようで、分かった。
船。
商人。
港。
貴族。
外交札。
人はただの物ではない。
使うには、意思の流れを読まなければならない。
無理やり動かせば壊れる。
壊れた札は使えない。
レグナルトは、私を殺して処理しようとした。
アルヴェリスは、私を動かそうとしている。
どちらが優しいかは知らない。
だが、どちらが私の強さを前提にしているかは分かる。
「覚えておきます」
「ええ。覚えなさい」
王太后陛下は侍従へ命じた。
「返書を用意なさい。文面はカシアンに任せます。ただし、最後に一文加えなさい」
「一文、でございますか」
「ええ」
王太后陛下は、私を見たまま言った。
「オルネア・フォン・オルデンフェル侯爵令嬢は、本人の意思により、現時点でレグナルト王国への帰還を望まない、と」
広間にざわめきが広がった。
侯爵令嬢。
本人の意思。
帰還を望まない。
それは、単なる返書ではない。
私の存在を、外交文書の中で認める一文だ。
私は息を止めた。
この方は、私を守ったのだろうか。
いいえ。
違う。
たぶん、それだけではない。
王太后陛下は、私を盤上に置いた。
自分の意思を持つ駒として。
その残酷さと有用さに、私は少し震えた。
「感謝いたします」
私は礼をした。
王太后陛下は小さく笑う。
「まだ早いわ」
「はい?」
「あなたの意思が文書に載るということは、次からは逃げられないということよ」
扇が開く。
黒い扇。
完全に。
「言葉を持った者は、沈黙だけでは済まされなくなる」
その一言が、胸に沈んだ。
言葉を持つ。
私は断頭台で言葉を捨てた。
最後の一行を渡さないために。
だが今、私は自分の意思を口にした。
返らない、と。
それは新しい一行だった。
自分で書いた一行。
ならば、その続きを引き受けなければならない。
「心得ました」
私は答えた。
「よろしい」
王太后陛下は満足そうに頷いた。
その時、ファルケン公爵夫人が静かに進み出た。
「王太后陛下。僭越ながら、ひとつ申し上げてもよろしいでしょうか」
「許します」
「今夜この場で、オルネア嬢の返還拒否の意思が示された以上、彼女の今後の社交上の扱いを定める必要がございます」
来た。
私は背筋を伸ばした。
社交上の扱い。
つまり、私をどの席に置くか。
どの程度の敬称を使うか。
誰の茶会に招けるか。
どの家が挨拶をしてよいか。
どの家が距離を取るべきか。
宮廷において、存在は席で決まる。
王太后陛下が私を見た。
「ファルケン夫人。あなたはどう思うの」
「レグナルト王国における罪状は、我が国において未確定。よって、罪人として扱うのは不適切かと」
広間がざわめく。
ファルケン夫人は続けた。
「一方で、完全な客賓とするには外交上の懸念が大きい。ゆえに、当面は王太后陛下の監督下にある亡命貴族として扱うのが妥当と存じます」
王太后陛下の監督下。
それは保護であり、拘束でもある。
しかし、悪くない。
少なくとも、誰かに雑に扱われる立場ではない。
「そして」
ファルケン夫人の目が私に向いた。
「礼法については、我がファルケン家が一部責任を持ちます」
私は思わず、彼女を見た。
それは、どういう意味だろう。
周囲の反応で理解した。
ファルケン公爵夫人が、私の礼法を見る。
それはつまり、私が社交界で礼を失した場合、彼女の顔にも泥がつくということ。
逆に言えば、彼女の名を使って最低限の席へ出られるということ。
この人は、私に首輪をかけた。
同時に、首輪を理由に他の犬から守る気だ。
本当に怖い。
そして、ありがたい。
「ファルケン夫人」
私は立ち上がり、礼をした。
「ご厚情、痛み入ります」
「厚情ではありません」
「では?」
「珍しい教材です」
この宮廷の人間は、なぜこうも素直に人を傷つける表現を選ぶのか。
「精進いたします」
「当然です」
ファルケン夫人は満足そうに引き下がった。
続いて、サビーナ様が小さく手を叩いた。
ぱち、ぱち、と。
大きな拍手ではない。
しかし、その音をきっかけに、周囲で控えめな拍手が起きる。
誰かが乗る。
また誰かが乗る。
拍手は広がる。
王太后陛下が止めない。
カシアン殿下も止めない。
これは、承認なのか。
それとも、新しい見世物への期待なのか。
たぶん両方だ。
私はその拍手の中で、扇を胸元に当てた。
礼をする。
笑わない。
泣かない。
媚びない。
ただ、受け止める。
拍手とは、優しい音のようでいて、とても怖い。
拍手する者は、次の瞬間には石を投げることもできる。
だから、忘れてはいけない。
これは勝利ではない。
第一幕の着席許可にすぎない。
夜会は再び動き出した。
音楽が、少しだけ明るい曲へ変わる。
侍従たちが飲み物を運び、貴族たちがそれぞれの会話へ戻っていく。
しかし、私の周囲だけは、先ほどまでと違う。
遠巻きに見ていた者たちが、少しずつ距離を測り始めた。
話しかけるべきか。
まだ待つべきか。
誰の後に続くべきか。
私という地雷原の踏み方を、彼らは考えている。
その時、カシアン殿下が近づいてきた。
今度は、私も避けなかった。
「おめでとうございます」
「何がです」
「今夜、あなたは正式に面倒な女になりました」
「それは祝辞ですか」
「最大級の」
「殿下の祝辞は呪いに似ていますね」
「よく言われます」
「誰に?」
「王太后陛下に」
「でしょうね」
彼は、私の隣に立った。
近すぎない。
遠すぎない。
相変わらず、礼儀として許されるぎりぎりの距離だ。
「レグナルトへの返書、本当にあの形でよろしいのですか」
私は尋ねた。
「不満ですか」
「いいえ。むしろ、整いすぎていて気味が悪いです」
「褒め言葉として受け取ります」
「違います」
「では、警戒として受け取りましょう」
「その方が正確です」
カシアン殿下は笑った。
「あなたが返らないと言ったことで、レグナルトは少し困る」
「少し?」
「かなり」
「なら、かなりと言ってください」
「あなたが喜びそうなので」
「喜びます」
「では言いません」
「性格が悪い」
「はい」
あまりにも素直に認められ、私は言葉を失った。
この人は、やはり強い。
最低方向に。
「レグナルトは、なぜそんなに早く私を返せと言ってきたのでしょう」
「あなたが死ななかったからです」
「それは分かります」
「そして、あなたが話す可能性があるからです」
「私は、何も知りません」
「本当に?」
カシアン殿下の銀灰の目が、私を見た。
まっすぐに。
「あなたは知らないと思い込まされているだけかもしれません」
「どういう意味です」
「あなたの裁判は、美しすぎた」
また、それだ。
美しすぎる。
作り物は、時に本物より整っている。
彼は前にも、そんなことを言った。
「殿下は、私の裁判記録を読んだのですか」
「読みました」
「いつ」
「あなたが処刑される前夜」
息が止まった。
処刑される前夜。
つまり、彼は断頭台で偶然私を見て買ったわけではない。
少なくとも、その前から私の事件を知っていた。
「なぜ」
「面白そうだったので」
「またそれですか」
「はい」
「本当にそれだけですか」
カシアン殿下は、私を見た。
答えない。
微笑んでいる。
けれど、その沈黙はいつもの軽さではなかった。
私は扇を握った。
「殿下は、私の無実を知っていたのですか」
「完全には」
「では、疑っていた」
「はい」
「なのに、断頭台まで黙って見ていたのですか」
声が少し低くなった。
怒りが喉に上がる。
「私が処刑される様子を。あの場で。外国使節席から」
「はい」
即答。
私は息を呑んだ。
怒りが、また冷たく澄んでいく。
「最低です」
「そうですね」
「なぜ止めなかったのです」
「止めました」
「刃が落ちる寸前に」
「最も高く買える瞬間でしたので」
私は、扇を折りそうになった。
本気で。
黒檀の骨が手の中できしむ。
「高く、買える?」
「ええ」
「私の命を、競りの品のように?」
「いいえ」
カシアン殿下の声が、ほんの少し変わった。
「あなたの価値を、あの場にいた全員へ見せるために」
私は黙った。
「処刑前に引き取れば、あなたはただの亡命令嬢だった。裁判記録に異議を唱えれば、アルヴェリスがレグナルトの内政に干渉したことになる。あなたの無実を叫べば、王太子は面子のために引けなくなる」
彼は、淡々と言った。
「だが、断頭台の上であなたが最後まで崩れず、レグナルトがその首を落とそうとし、私がその瞬間に借款免除を出せば、話は変わる」
「何が変わるのです」
「あなたは、王国が殺そうとした女ではなく、王国の借金より高く買われた女になる」
私は言葉を失った。
「残酷なやり方です」
「はい」
「私が途中で泣き叫んだら?」
「それでも買いました」
「命乞いしたら?」
「買いました」
「醜態を晒したら?」
「買いました」
「なら、なぜ」
カシアン殿下は、少しだけ目を細めた。
「あなたが、そうしないと思ったからです」
胸の奥に、何かが触れた。
やめてほしい。
そういう言い方は。
余興と言えばいい。
外交資産と言えばいい。
最低な男でいればいい。
なのに、時々こうして、私の奥に触れる言葉を落とす。
「買いかぶりです」
「そうでしょうか」
「私は怖かった」
「でしょうね」
「膝も震えていました」
「見えていました」
「死にたくなかった」
「でしょうね」
「なら、なぜ崩れないと思ったのです」
カシアン殿下は、答えなかった。
その代わり、私の首元を見た。
赤い痕。
断頭台の跡。
「あなたは、最後の言葉を求められて『ございません』と答えた」
「ええ」
「あの時点で、私は確信しました」
「何を」
「あなたは、最後の一行を他人に渡す気がない女だと」
呼吸が止まった。
広間の音が遠ざかる。
音楽も、声も、拍手の残響も。
すべてが薄くなった。
この男は。
あの断頭台で。
私が自分でもまだ言葉にできていなかったことを、読んでいたのか。
泣けば、悪女の最期になる。
怒鳴れば、反逆者の本性になる。
命乞いすれば、王太子の正義が完成する。
だから、言わなかった。
誰にも、私の最後の一行を書かせないために。
私は今朝、それに気づいたばかりだった。
なのに。
この男は、あの時点で。
「……不愉快です」
私はようやく言った。
「なぜ」
「私より先に、私のことを分かったように言わないでください」
「失礼」
「謝らないでください。それも不愉快です」
「難しい方だ」
「買ったのは殿下です」
「ええ」
カシアン殿下は、少しだけ笑った。
「今のところ、後悔はありません」
「こちらはあります」
「何を?」
「売られたことと、買われたことと、あなたに読まれたことです」
「三つも」
「もっと増える予定です」
「楽しみです」
「楽しみにしないでください」
それでも、私の怒りは少しだけ形を変えていた。
消えたわけではない。
許したわけでもない。
ただ、理解が混じった。
理解が混じると、怒りは面倒になる。
まっすぐ燃えない。
胸の奥で、別の熱に変わろうとする。
それが嫌だった。
とても嫌だった。
その時、王太后陛下の声が広間に響いた。
「皆様」
会場が静まる。
王太后陛下は、黒い扇を手に立ち上がった。
「今夜は少々、退屈しない夜となりました」
誰も笑わない。
笑ってよいのか分からないのだ。
「レグナルト王国からの書状については、後ほど正式に返書を出します。今この場で一つだけ申し上げておきましょう」
王太后陛下の視線が、広間をゆっくりと巡る。
「我がアルヴェリス王国は、一度対価を支払って引き受けた者を、相手の都合で無償返却するほど、商売が下手ではありません」
数人が、扇で口元を隠した。
笑いをこらえたのだ。
「そして、当人が帰還を望まぬ以上、こちらから差し出す理由もございません」
私の胸が、小さく鳴る。
当人。
私。
この場で、私の意思が王太后陛下の口から語られた。
「よって、今夜よりオルネア・フォン・オルデンフェル侯爵令嬢は、王太后である私の監督下にある亡命貴族として扱います」
広間が静まり返る。
「異論のある者は?」
誰も言わない。
言えるはずがない。
王太后陛下の黒い扇が、ゆっくりと閉じられる。
ぱちり。
その音が、決定だった。
「よろしい。では、夜会を続けなさい。せっかくの余興を、書状一枚で終わらせるには惜しいでしょう」
この国の王族は、本当に性格が悪い。
だが今だけは、その悪さに少しだけ救われた。
音楽が再び明るくなる。
会話が戻る。
しかし、もう今夜の意味は変わっていた。
私はただの見世物ではなくなった。
王太后監督下の亡命貴族。
レグナルトが返還を求める女。
カシアンが高く買い、王太后が席を与え、ファルケン夫人が礼法を引き受けた女。
面倒だ。
非常に面倒だ。
だが、立てる場所がある。
カシアン殿下が、私の隣で低く言った。
「ようこそ、アルヴェリス宮廷へ」
「歓迎の言葉としては遅いです」
「正式な席が決まったのは今ですから」
「では、返礼いたします」
「どうぞ」
私は扇を開いた。
完全に。
受容。
ただし、目は彼を見たまま。
「殿下。私を買ったこと、後悔なさいませんように」
「しませんよ」
「早すぎます」
「あなたは?」
「何がです」
「買われたことを後悔していますか」
私は答えようとして、止まった。
後悔。
している。
もちろんしている。
売られたくなどなかった。
買われたくなどなかった。
余興になどされたくなかった。
だが、もし買われなければ、私は今ここにいない。
首は落ちていた。
言葉は終わっていた。
私の物語は、悪女の処刑で閉じられていた。
「まだ判断中です」
私は言った。
「それはよかった」
「なぜ」
「あなたが完全に後悔しないよう、私も働く理由ができます」
また。
また、この男は。
「殿下」
「はい」
「そういう言い方をするのは卑怯です」
「王族ですから」
「便利な言葉で逃げましたね」
「ええ」
「いつか逃げられなくします」
カシアン殿下は、楽しそうに笑った。
「それもまた、楽しみです」
私は扇で口元を隠した。
笑ってはいけない。
今笑えば、負けた気がする。
だが、ほんの少しだけ、口元が緩んだのを自覚した。
腹立たしい。
とても腹立たしい。
夜会はまだ続く。
レグナルト王国への返書が書かれる。
ファルケン夫人の茶会が待っている。
サビーナ様の噂の代金も、いずれ支払わねばならない。
王太后陛下は、私を監督下に置いた。
カシアン殿下は、私の最後の一行を読んでいた。
そして私は、帰らないと答えた。
もう、断頭台の上の沈黙だけでは済まされない。
私は言葉を持った。
ならば、その続きを書かねばならない。
売ったものを返せとは、厚かましい。
けれど、それ以上に厚かましく生きてやろう。
悪女として。
亡命貴族として。
王国の借金より高く買われた女として。
そしていつか。
私自身の名で。




