第4話 王太后は、余興の値段を見定める
王太后陛下主催の夜会は、日が落ちきる前から始まった。
窓の外には、まだ薄い青が残っている。
けれど、王宮西翼の大広間には、すでに無数の燭台が灯されていた。
天井から吊るされた水晶灯。
壁際に並ぶ銀の燭台。
楽団席のそばに置かれた金の灯火台。
光が多すぎる。
逃げ場がない。
影すら薄くなるほど明るい広間。
なるほど。
見世物を迎えるには、よくできた舞台だった。
「オルネア様」
背後から、マルヴィナの声がした。
「最後に一度だけ確認いたします」
「はい」
「入場後、まず王太后陛下へ一礼」
「ええ」
「次に、カシアン殿下は見ない」
「見ません」
「会場全体を見る」
「見返します」
「首の痕は隠さない」
「隠しません」
「無実は訴えない」
「訴えません」
「笑いすぎない」
「笑いません」
「泣かない」
「泣きません」
「怒鳴らない」
「努力します」
「そこは言い切ってくださいませ」
私は灰青の扇を胸元に当てた。
「怒鳴りません」
「結構です」
マルヴィナは満足そうに頷いた。
私は鏡の中の自分を見た。
灰青のドレス。
首元は開いている。
断頭台の木枠が残した赤い痕は、隠していない。
むしろ、その周囲には何も飾っていない。
宝石も、レースも、首飾りもない。
ただ、傷だけがある。
下手に飾れば、弱さになる。
隠せば、噂になる。
ならば、見せる。
これは私の傷だ。
彼らが勝手に語るためのものではない。
私が持ってきた、最初の証拠だ。
「よくお似合いでございます」
マルヴィナが言った。
「半分は礼儀ですか」
「今日は三分の一ほど」
「残りは?」
「戦装束として、よく整っております」
戦装束。
その言葉は、不思議と胸に落ちた。
そうだ。
これは夜会ではない。
少なくとも、私にとっては。
武器は剣ではなく扇。
盾は微笑みではなく沈黙。
鎧はドレス。
そして、戦場は大広間。
「行きます」
「はい」
扉が開かれた。
廊下の向こうから、音楽が聞こえてくる。
弦楽器の柔らかな旋律。
人々の声。
グラスの触れ合う小さな音。
どれも美しい。
美しいものほど、油断ならない。
処刑場の斧は、あからさまに斧だった。
けれど社交界の刃は、花の香りをまとっている。
私は歩き出した。
足首に鎖はない。
だが、昨夜までの重みを体は覚えている。
がしゃり。
音はしない。
それでも、耳の奥で鎖が鳴った。
大広間の扉の前で、侍従が名を告げる準備をする。
一瞬だけ、息が止まった。
この名で呼ばれる。
オルネア・フォン・オルデンフェル。
レグナルト王国では奪われた名。
アルヴェリス王国で、まだ許されている名。
いいえ。
許されているのではない。
使うのだ。
私は、まだこの名を使う。
侍従が声を張った。
「オルネア・フォン・オルデンフェル侯爵令嬢、ご入場にございます」
広間の音が、薄く止まった。
完全な沈黙ではない。
しかし、人々が一斉に息を詰める気配が分かった。
私は中へ入った。
最初に見えたのは、人の波だった。
百二十名。
正確には、もっと多い気がした。
招待客。
侍女。
従僕。
楽師。
護衛。
見ている者。
見ないふりをしている者。
好奇心を隠さない者。
嫌悪を隠せない者。
そして、笑いたくてたまらない者。
すべての視線が、私の首元へ落ちた。
赤い痕。
断頭台の跡。
それを見た瞬間、会場の空気がわずかに揺れた。
勝手に想像していたのだろう。
可哀想な亡命令嬢を。
あるいは、怯えて縮こまる悪女を。
それとも、王子の愛人めいた女を。
残念ながら、どれも違う。
私は歩いた。
ゆっくりと。
背筋を伸ばして。
顎を引いて。
目を伏せすぎずに。
死ぬ時の礼法は、夜会でも役に立つ。
処刑場から社交界まで、侯爵家の教育はずいぶん便利である。
広間の奥。
一段高い場所に、王太后陛下が座っていた。
銀の髪。
黒真珠の首飾り。
深紫のドレス。
年老いているはずなのに、弱さがまるでない。
むしろ、年齢そのものを武器として磨き上げたような女だった。
その手には、黒い扇。
閉じられている。
閉じたまま、膝の上に置かれている。
見ている。
目だけで。
なるほど。
確かに、カシアン殿下より性格が悪そうだ。
私は王太后陛下の前で足を止め、礼をした。
深すぎず。
浅すぎず。
亡命貴族としての敬意。
罪人としての卑屈ではなく。
侯爵令嬢としての礼。
「オルネア・フォン・オルデンフェルにございます。王太后陛下に拝謁の栄を賜り、恐悦に存じます」
自分の声は、思ったより落ち着いていた。
広間が静まり返っている。
王太后陛下は、しばらく私を見ていた。
長い沈黙。
普通なら、この沈黙に耐えられず、何かを言い足す者がいるのだろう。
私は言い足さなかった。
言葉を重ねるな。
言い訳するな。
沈黙を恐れるな。
断頭台の上で、私はそれを覚えた。
王太后陛下の口元が、わずかに動いた。
「顔を上げなさい」
「はい」
私は顔を上げた。
その瞬間、王太后陛下の視線が、私の首へ落ちた。
赤い痕。
隠していない傷。
王太后陛下は、ほんの少しだけ目を細めた。
「隠さなかったのね」
「はい」
「見られたいのかしら」
「いいえ」
広間のどこかで、小さく息を呑む音がした。
私は続けた。
「見られることを、他人に選ばせたくなかっただけでございます」
王太后陛下の扇が、膝の上でわずかに動いた。
「面白い答えね」
「恐れ入ります」
「褒めてはいないわ」
「はい。存じております」
王太后陛下は、そこで初めて少し笑った。
笑った、というより、刃の角度を変えたような表情だった。
広間の空気が、さらに張りつめる。
私は王太后陛下から視線を外した。
カシアン殿下は見ない。
会場全体を見る。
そう言われていた。
私は、ゆっくりと視線を巡らせた。
貴族たちがいる。
私を見ている。
ならば、私も見る。
ファルケン公爵夫人らしき年配の女性。
鋭い目。
隙のない姿勢。
礼法そのものが人の形をしているような女。
ヴェリアン公爵家の令嬢サビーナ。
栗色の髪。
優しそうな微笑み。
ただし、目がまったく優しくない。
ルクレール公爵家の若い男性。
興味を隠す気がない顔。
その横にいる夫人たち。
令嬢たち。
老貴族。
書記官。
外交官。
彼らは見に来た。
断頭台から買われた悪女を。
ならば覚えてもらおう。
私もあなた方を見た、と。
視線を一巡させる。
誰にも微笑まない。
誰にも怯えない。
誰にも許しを求めない。
最後に、私は王太后陛下へ視線を戻した。
カシアン殿下は、視界の端にいた。
深緑の上衣。
壁際。
こちらを見ている。
私は見なかった。
見ないまま、王太后陛下の前に立った。
「カシアンの方は見ないのね」
王太后陛下が言った。
広間に、わずかな笑いが走りかける。
私は扇を半分だけ開いた。
保留。
昨夜覚えたばかりの合図。
「私は王太后陛下の夜会に招かれました」
「ええ」
「でしたら、最初に見るべきは主催者でございます」
「可愛げのない答えね」
「可愛げで首がつながるなら、処刑場で使っておりました」
今度こそ、広間が揺れた。
誰かが小さく笑い、すぐに黙った。
王太后陛下の扇が、初めて開いた。
黒い扇。
ゆっくりと。
完全には開かない。
半分。
保留。
私と同じだった。
「カシアン」
王太后陛下が、視線だけを動かした。
「あなた、ずいぶん高いものを買ったわね」
広間の端から、カシアン殿下の声がした。
「はい。安く済んだと思っております」
「借款一つを消して?」
「はい」
「あなたの金銭感覚は、父親に似て悪いわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めていないわ」
「存じております」
この二人、血がつながっているのだろうか。
会話の嫌なところが似ている。
私はカシアン殿下を見なかった。
見なくても、彼が楽しんでいるのは分かった。
腹立たしい。
「オルネア嬢」
王太后陛下の声が、再び私に向けられた。
「はい」
「首を落とされる寸前、何を考えていたの?」
来た。
マルヴィナの予想どおり。
広間が一瞬で静まる。
あまりにも露骨な問いだった。
同情ではない。
慰めでもない。
興味。
試験。
あるいは、解剖。
私は扇を閉じた。
ぱちり、と音が響く。
閉じた扇を、胸元に当てる。
拒絶の合図。
広間の空気がわずかに動いた。
王太后陛下の目が、ほんの少しだけ楽しそうに細くなる。
「答えたくない?」
「答えられます」
「では、答えなさい」
「お断りいたします」
沈黙。
重い沈黙。
百二十人以上の人間が、同時に呼吸を忘れたようだった。
私は王太后陛下を見た。
「その問いは、私のものです」
カシアン殿下が昨夜言った言葉。
そのままではない。
けれど、確かにそこから選んだ答えだった。
「私が断頭台で何を考えていたか。何を恐れ、誰を恨み、何を諦めなかったのか。それは、私が語る相手を選ぶべきことです」
王太后陛下は黙っている。
私は続けた。
「今この場にいる皆様がご覧になりたいのは、断頭台から降りた悪女でしょう」
視線が刺さる。
首の痕が熱を持つ。
「ならば、今は首の痕だけで十分かと存じます」
扇を胸元から離し、静かに下ろす。
「中身まで無料でお見せするほど、私は安く買われておりません」
広間が、凍った。
直後。
王太后陛下が笑った。
大きな笑いではない。
喉の奥で、低く、短く。
しかしその笑いで、広間の温度が変わった。
「カシアン」
「はい」
「訂正するわ」
「何をでしょう」
「高い買い物ではなかったようね」
「そう申し上げたはずです」
「生意気な子ね」
「私ですか、彼女ですか」
「両方よ」
王太后陛下は扇を完全に開いた。
受容。
その合図を見て、広間の者たちが一斉に判断を変えたのが分かった。
この場では、少なくとも今夜は、王太后陛下が私を排除しない。
ならば、周囲も私を即座に踏みにじることはできない。
王太后陛下が私に席を与えた。
正式にではない。
けれど、今の扇一つで。
「オルネア嬢」
「はい」
「今夜は、その首の痕をよく見せておきなさい」
「はい」
「ただし、安売りはおやめなさい」
「心得ました」
「よろしい」
王太后陛下は、侍女に目配せした。
すぐに、広間の一角に席が用意される。
高すぎる席ではない。
低すぎる席でもない。
王太后陛下から見える位置。
カシアン殿下の隣ではない。
かといって、隅でもない。
実に嫌らしい配置だった。
誰もが私を見られる。
私も誰かを見られる。
舞台の中央ではない。
しかし、照明は当たっている。
私はそこへ案内された。
歩きながら、ようやくカシアン殿下のそばを通る。
彼は何も言わなかった。
ただ、私にだけ聞こえるほど小さく囁いた。
「よい初手でした」
「採点は不要です」
「では、評価です」
「それも不要です」
「では、観客としての感想を」
「もっと不要です」
カシアン殿下は笑った。
私は彼を見ないまま通り過ぎた。
見れば、たぶん腹が立つ。
そして、少しだけ安心してしまう気がした。
それが一番腹立たしい。
席に着くと、すぐに人々の動きが変わった。
最初に近づいてきたのは、ファルケン公爵夫人だった。
礼法の試験官。
マルヴィナの評は正しかった。
銀髪を高く結い上げ、深い黒のドレスをまとった夫人は、私の前に立つだけで空気を測ってくる。
「オルネア・フォン・オルデンフェル嬢」
「ファルケン公爵夫人」
「私を存じているの?」
「今朝、名を覚えました」
「正直ね」
「嘘で褒めるほど、まだこちらの宮廷に慣れておりません」
夫人の片眉が、わずかに上がった。
「では、慣れたら嘘を使うのかしら」
「必要なら」
「堂々と言うのね」
「処刑されかけた後ですと、多少の社交的失点は小さく見えます」
夫人は扇で口元を隠した。
口元は見えない。
だが、目だけで分かる。
試されている。
「あなた、自分がここでどう見られているか分かっていて?」
「はい」
「悪女」
「はい」
「罪人」
「レグナルトでは」
「王子に買われた女」
「それは事実です」
「恥ずかしくはないの?」
周囲の耳が、こちらに集まる。
鋭い問いだった。
恥。
売られた女。
借款と引き換えの身柄。
傷をえぐるには、実にまっすぐな刃だ。
私は扇を開かなかった。
閉じたまま、膝の上に置く。
「恥ずかしいです」
ファルケン夫人の目が、少しだけ動いた。
「認めるのね」
「はい」
「ならば、なぜ立っていられるの」
「恥ずかしいことと、膝を折ることは別です」
夫人は黙った。
私は続けた。
「私は売られました。ですが、売ったのは私ではありません。買ったのも私ではありません。ならば、私が恥じるべきは、その事実に潰されて自分まで安くすることだと考えております」
沈黙。
夫人の扇が、ゆっくりと動いた。
「……ずいぶん、口が立つこと」
「首がつながったので」
近くで、誰かが小さく噴き出した。
すぐに咳払いでごまかしたが、遅い。
ファルケン夫人の目が、そちらへ一瞬向いた。
それだけで、笑った者は青ざめる。
怖い。
この夫人、普通に怖い。
だが、王国の処刑吏よりはまだましだ。
ファルケン夫人は、もう一度私を見た。
「王太后陛下がお気に召した理由は分かりました」
「お気に召したのでしょうか」
「少なくとも、今夜退場させる気はないようです」
「それは光栄です」
「ただし」
夫人の目が鋭くなる。
「礼法を軽んじるなら、私が追い出します」
「心得ました」
「アルヴェリスの宮廷では、傷は武器になります。しかし、無作法はただの欠点です」
私は、まっすぐ夫人を見た。
「ご指導、感謝いたします」
これは本心だった。
不思議なことに。
彼女は私を甘やかす気はない。
同情もしない。
けれど、今の言葉は侮辱ではなかった。
警告だ。
この宮廷で戦うなら、礼法を武器にしろ。
そう言われた気がした。
ファルケン夫人は、ほんのわずかに顎を引いた。
「明後日、私の茶会へいらっしゃい」
「私が、ですか」
「他に誰がいるの」
「悪女を茶会に招くのですか」
「王太后陛下の夜会で首の痕を見せた悪女を、誰より先に茶会に呼んだ夫人になるのも悪くありません」
この人もなかなかである。
「光栄に存じます」
「服は今日より襟の高いものにしなさい」
「痕を隠せと?」
「いいえ。今夜見せたものを、次の茶会でまた同じように見せるのは安い」
私は息を呑んだ。
なるほど。
同じ手は二度使うな。
それも礼法の一部なのか。
「勉強になります」
「学ぶ気があるなら、生き残れるかもしれないわね」
「努力いたします」
ファルケン夫人は、それだけ言うと去っていった。
入れ替わるように、今度は若い令嬢が近づいてくる。
栗色の髪。
柔らかな笑み。
優しげな目。
ただし、目の奥に針がある。
ヴェリアン公爵家令嬢、サビーナ。
「オルネア様。お会いできて光栄です」
「サビーナ・ヴェリアン様」
「まあ、私の名をご存じですの?」
「今朝、覚えました」
「ふふ。では、私が噂好きだということも?」
「はい」
サビーナの笑みが、一瞬だけ深くなった。
「正直な方は好きですわ」
「私は、噂を扱う方には嘘をつかない方が得策だと考えております」
「なぜ?」
「どうせ美しく歪められるのでしょうから、原型くらいは正確にお渡しした方がよろしいかと」
サビーナは、今度こそ声に出して笑った。
鈴のような声。
周囲の視線が集まる。
この人は、笑い声まで計算している。
噂を扱う者。
なるほど。
危険だ。
「私、あなたのこと気に入りました」
「それは、よい意味でしょうか」
「半分は」
「残り半分は?」
「面白い意味で」
「この宮廷では、それが最上級の褒め言葉なのですか」
「場合によりますわ」
サビーナは私の向かいの席に腰を下ろした。
招かれていない。
だが、その動作があまりに自然で、誰も止めない。
「ねえ、オルネア様」
「はい」
「本当に聖女様を毒殺しようとなさったの?」
直球。
この人、笑顔で斧を投げてきた。
私は扇を半分だけ開いた。
「その質問に、今ここで答える価値はございますか」
「ありますわ。皆、知りたがっていますもの」
「皆様が知りたいことと、私が語るべきことは別です」
「では、語らない?」
「はい」
「無実を訴えないの?」
「訴えません」
「なぜ?」
「ここは裁判所ではなく、夜会です」
サビーナの目が光った。
「では、夜会では何をするの?」
「見られます」
「それだけ?」
「いいえ」
私は会場を見回した。
王太后陛下。
ファルケン夫人。
サビーナ。
カシアン殿下。
そして、私を遠巻きに見る貴族たち。
「見返します」
サビーナは、ゆっくりと瞬きをした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「素敵」
「悪趣味ですこと」
「よく言われます」
「この宮廷では、その返答が流行しているのですか」
「カシアン殿下のせいですわ」
私は少しだけ扇で口元を隠した。
危ない。
笑いそうになった。
あの男の悪影響が宮廷全体に広がっている。
迷惑なことだ。
サビーナは身を乗り出した。
「では、私から一つだけ贈り物を」
「噂ですか」
「ええ」
「代金は?」
「今夜、私の質問を一つかわしたことへの敬意」
彼女は声を少し落とした。
「レグナルト王国の使節が、早ければ十日以内にこちらへ来ます」
私は動きを止めた。
「使節?」
「ええ。正式な抗議のために」
「私の返還を求めるのですか」
「表向きは」
「裏は?」
サビーナは微笑んだ。
「あなたが何を知っているかを、確認するためでしょうね」
胸の奥が冷えた。
私が何を知っているか。
毒殺未遂。
裁判。
証人。
父の幽閉。
兄の国境送り。
母の病。
そして、王国の借款。
私は、何も知らないと思われている。
けれど、私が生きている限り、彼らは不安になる。
なぜなら、死んだ悪女は黙るが、生きた悪女は喋るかもしれないから。
「なぜ、その噂を私に?」
「あなたがどう動くか見たいから」
「本当に悪趣味です」
「はい」
サビーナは悪びれなかった。
「でも、オルネア様。噂は刃物です。持たない者から切られますわ」
そう言って、彼女は立ち上がった。
「明日の朝、もう少し詳しい噂をお届けします」
「代金は?」
「その時に」
嫌な取引である。
だが、断る理由はない。
「お待ちしております」
「ええ。断頭台の悪女様」
サビーナは優雅に一礼し、去っていった。
その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
疲れた。
まだ夜会が始まって間もないのに、すでに処刑場より頭を使っている。
ただ、分かったことがある。
アルヴェリス宮廷は危険だ。
性格の悪い人間ばかりだ。
しかし、少なくともここでは、言葉が武器として機能する。
沈黙も、姿勢も、扇も、視線も、取引になる。
ならば、戦える。
殺されるだけの舞台ではない。
私は水の入ったグラスに手を伸ばした。
その時だった。
広間の入口付近が、ざわめいた。
何かが届いたらしい。
侍従が一人、足早に入ってくる。
その手には、封蝋のついた書状。
赤い封蝋。
レグナルト王国の紋章。
空気が変わった。
早い。
早すぎる。
サビーナは十日以内と言った。
しかし、これはもう届いている。
侍従は王太后陛下のもとへ書状を運んだ。
王太后陛下は封蝋を見て、眉一つ動かさない。
代わりに、カシアン殿下が一歩前へ出た。
「どうやら、幕間には少し早い客が来たようです」
王太后陛下が書状を開く。
広間中が沈黙する。
私は、首の痕が熱くなるのを感じた。
レグナルト王国からの書状。
私を殺そうとした国からの言葉。
王太后陛下は、書状に目を通した。
そして、ゆっくりと扇を閉じた。
ぱちり。
その音が、広間に響く。
「カシアン」
「はい」
「あなたの買い物、さっそく返せと言ってきたわ」
ざわめきが広がった。
私はグラスから手を離した。
返せ。
私を。
売ったものを。
殺そうとしたものを。
今さら。
王太后陛下は、私を見た。
「オルネア嬢」
「はい」
「あなた、返されたい?」
広間中の視線が、私に集まる。
今夜、二度目の試験。
王太后陛下の問いは、いつも人の内側を切る。
私は扇を開かなかった。
閉じたまま、膝に置いた。
「いいえ」
声は、静かに出た。
「私は、売られたことを許しておりません」
広間が静まる。
「ですが、売った者が返せと言うほど、安くもありません」
カシアン殿下が、どこかで笑った気配がした。
王太后陛下の口元が、再び刃のように上がる。
「よろしい」
彼女は書状を侍従へ戻した。
「返事を書きなさい。アルヴェリス王国は、正当に買い受けた外交資産を、無償で返却する趣味はない、と」
外交資産。
また不快な名前が増えた。
だが今は、それでいい。
名前があるなら、存在できる。
存在できるなら、戦える。
私は首の痕に触れなかった。
触れずに、まっすぐ前を見た。
この夜会は、私を見世物にするための舞台だった。
けれど、幕が上がった途端、レグナルト王国が横槍を入れてきた。
ならば、ちょうどいい。
見せて差し上げましょう。
死ななかった悪女が、売った国にどんな値をつけるのか。
私の物語は、まだ誰にも返さない。




