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第3話 断頭台の痕を隠さない悪女

 アルヴェリス宮廷の有力貴族の名前は、想像していたよりも多かった。


 公爵家が三つ。


 侯爵家が七つ。


 伯爵家は、数えるのを途中でやめたくなるほど。


 そのうえ、名前の横には婚姻関係、借財、領地、派閥、王太后陛下との距離、カシアン殿下への好悪まで書き込まれている。


 私は書き物机の前で、頭を抱えた。


「これは家系図ではありませんね」


「はい」


 マルヴィナは、当然のように答えた。


「宮廷の地雷原でございます」


「せめてもう少し柔らかい表現はありませんの?」


「では、花園にいたしましょうか」


「花に毒がありそうです」


「実際、ございます」


「やはり地雷原で結構です」


 私は溜息をつき、目の前の紙を見直した。


 アルヴェリス王国。


 隣国であり、レグナルト王国よりも海運と交易が強い国。


 王都は港に近く、商人の影響力が大きい。


 貴族社会も、レグナルトとは少し違う。


 古い血筋だけでなく、資金力と情報網を持つ家が強い。


 つまり、表面上は優雅でも、中身は帳簿と噂と借用書で動く宮廷だ。


 嫌な国に来てしまった。


 いや、処刑台よりはましだ。


 そこは忘れてはいけない。


 生きているだけで、今の私はかなり得をしている。


 その得を、カシアン殿下に握られているのが非常に腹立たしいだけで。


「まず、この三家は覚えてください」


 マルヴィナが、紙の上に指を置いた。


「ファルケン公爵家。古参貴族筆頭。王太后陛下の実家筋に近く、礼法に厳しい家です」


「私を嫌いそうです」


「かなり」


「言い切りましたね」


「事実でございます」


 マルヴィナの指が、次の名へ移る。


「ヴェリアン公爵家。海運利権を握る家です。新興貴族と商人層に顔が利きます」


「私をどう見ますか」


「値段を見ます」


「人間を?」


「宮廷では珍しくございません」


「嫌な安心感です」


「最後に、ルクレール公爵家。王太后陛下と距離を置きつつ、カシアン殿下に近い家です」


「つまり味方?」


「いいえ」


「違うのですか」


「殿下に近いからといって、オルネア様に近いとは限りません」


 正しい。


 とても正しい。


 私は額を押さえた。


 処刑場から帰ってきて、湯浴みして、医師に診られ、食事を少し口にして、ようやく眠れるかと思ったら、今度は隣国の派閥図である。


 自分の人生はもう少し緩やかに崩壊してほしかった。


「明日の夜会で、私はこの方々に囲まれるわけですね」


「はい」


「断頭台の悪女として」


「はい」


「王子に買われた余興として」


「はい」


「亡命貴族として」


「はい」


「便利な肩書きが多すぎません?」


「多いほど、相手が迷います」


 マルヴィナは静かに言った。


「一つの名で呼べる相手は、扱いやすい。複数の名を持つ相手は、扱いに迷います」


 私は顔を上げた。


 なるほど。


 悪女。


 罪人。


 亡命貴族。


 余興。


 外交資産。


 侯爵令嬢。


 それらは不愉快な呼び名だ。


 けれど、一つに固定されないという意味では、使える。


 王国では、私は「悪女」だけにされた。


 それで殺されかけた。


 アルヴェリスでは、不愉快ではあるが、いくつもの札を与えられている。


 札が多いなら、選べる。


 選べるなら、戦える。


「では、明日はどの名で立つべきでしょう」


「それをお決めになるのが、明日までのお仕事でございます」


「侍女長とは、意地悪を言う職業でしたか」


「宮廷の侍女長とは、主の油断を減らす職業でございます」


「主?」


 私は思わず聞き返した。


 マルヴィナは、少しも表情を変えなかった。


「少なくとも、この客賓宮においては」


 不思議な言葉だった。


 私は罪人だ。


 買われた女だ。


 けれど、この客賓宮において、マルヴィナは私を主として扱う。


 それがカシアン殿下の命令なのか、彼女自身の流儀なのかは分からない。


 ただ、胸の奥に小さな熱が灯った。


 怒りではない。


 感謝でもない。


 たぶん、姿勢を保つための芯のようなもの。


「では、主として命じます」


「はい」


「明日の夜会で、私に最初に声をかけてきそうな方を教えてください」


「三人おります」


「三人も」


「はい。一人目はファルケン公爵夫人。礼法の試験官のような方です」


「怖いですね」


「はい」


「否定してください」


「事実でございます」


 マルヴィナは次の紙を差し出した。


「二人目はヴェリアン公爵家の令嬢、サビーナ様。噂を扱うのがお上手です」


「つまり口が鋭い」


「たいへん」


「やはり否定しないのですね」


「三人目は王太后陛下ご本人です」


 私は、そこで動きを止めた。


「王太后陛下が、最初に?」


「可能性はございます」


「普通、王太后陛下が直々に声をかけるものなのですか」


「普通ではございません」


「では、なぜ」


「面白がっておられるからです」


「この王宮、本当に性格の悪い方が多くありませんか」


「多うございます」


 あまりにも素直に認められると、文句を言う気力が削がれる。


 私は深く息を吐いた。


 王太后。


 カシアン殿下が「私より性格が悪い」と評した女性。


 その時点で、できれば一生会いたくない。


 だが、会わなければならない。


 なぜなら、その人が明日の舞台の主催者だからだ。


「王太后陛下は、私に何を聞くと思いますか」


「無実かどうかは聞かれないでしょう」


「なぜ?」


「それでは面白くないので」


「本当に嫌な宮廷ですね」


「おそらく、こう聞かれます」


 マルヴィナは、少し間を置いてから言った。


「首を落とされる寸前、何を考えていたのか、と」


 私は黙った。


 部屋の中が、少しだけ遠くなった。


 紙の匂い。


 インクの匂い。


 外の庭から入ってくる白薔薇の匂い。


 全部が薄くなる。


 代わりに戻ってくるのは、木の匂い。


 断頭台の板。


 血の鉄臭さ。


 冷たい木枠。


 首に残る圧迫感。


 何を考えていたのか。


 そんなこと。


 考えたくない。


 私は指先で、自分の首の痕に触れた。


 医師は、数日で薄くなると言った。


 だが、明日はまだ残る。


 赤く。


 はっきりと。


「オルネア様」


 マルヴィナの声がした。


「ご無理でしたら、別の答えを用意いたします」


「別の答え?」


「礼儀正しく、感情を薄め、誰にも踏み込ませない答えです」


「たとえば」


「王国に仕える者として、最後まで己の品位を保つことを考えておりました、など」


「つまらないですね」


「はい」


「それを私が言えば、どう見えますか」


「よく教育された亡命令嬢」


「悪女ではなく?」


「はい」


「それは駄目です」


 私は首から手を離した。


 よく教育された亡命令嬢。


 それは安全だ。


 きれいだ。


 誰からも大きく嫌われにくい。


 だが、明日の舞台でそれを選べば、私は一瞬で脇役になる。


 可哀想な亡命令嬢。


 王子に拾われた哀れな女。


 王太后の保護下で再教育されるべき客人。


 そんな役を与えられてしまう。


 違う。


 私は処刑台から降りたのだ。


 死にかけた。


 売られた。


 買われた。


 悪女として。


 ならば、きれいに弱って見せてはいけない。


「王太后陛下に聞かれたら、答えます」


「何と?」


「まだ考えていません」


「それは困ります」


「ええ。だから考えます」


 マルヴィナは、少しだけ満足そうに一礼した。


 この人、やはり意地が悪い。


 私に答えを教えるつもりはない。


 答えを考えさせるつもりなのだ。


 その時、扉が叩かれた。


 三度。


 整った音。


 昨日と同じ。


 この叩き方だけで、相手が分かるようになってしまった自分が腹立たしい。


「入っても?」


 カシアン殿下の声だった。


「お断りした場合は?」


 私は扉へ向かって言った。


「廊下で待ちます」


「いつまで?」


「あなたが根負けするまで」


「それは不法占拠では?」


「王宮の廊下は私の家の一部です」


「ずるい理屈ですこと」


「王族ですから」


 私は目を閉じた。


 入室前から疲れる。


「どうぞ」


 マルヴィナが扉を開けた。


 カシアン殿下は、今日は深い灰色の上衣を着ていた。


 華美ではない。


 だが、どこか目を逸らしにくい。


 この人は本当に、立っているだけで人の注意を奪う。


 王族とはそういうものなのか。


 それとも、この男が特別なのか。


 どちらにせよ腹立たしい。


「勉強は進んでいますか」


「宮廷という名の毒草図鑑を読んでいました」


「よい表現ですね」


「褒めていません」


「分かっています」


「では、なぜ嬉しそうなのです」


「あなたの不機嫌は表現が豊かなので」


 私は紙の束を閉じた。


「殿下は何をしに?」


「明日の確認を」


「王太后陛下から逃げる方法ですか」


「残念ながら、私も知りたい」


「使えない王子ですこと」


「よく言われます」


「言われるのですか」


「王太后陛下に」


 妙に納得してしまった。


 カシアン殿下は、机の上の家系図を眺めた。


「ファルケン夫人、サビーナ嬢、王太后。順当ですね」


「明日の敵ですか」


「敵と決めるのは早い」


「では?」


「観客です」


「またそれですか」


「観客は敵にも味方にもなります。退屈すれば石を投げ、魅了されれば拍手をする」


「私は芸人ではありません」


「ええ」


 カシアン殿下は、私を見た。


「あなたは、明日の演目そのものです」


「最低の言い方ですね」


「ですが、分かりやすい」


「分かりやすく侮辱される身にもなってください」


「あなたなら、侮辱も材料にできる」


 私は黙った。


 そういうところだ。


 この男は、私を傷つける言葉を使う。


 けれど、その言葉の中に、奇妙な信頼を混ぜてくる。


 腹立たしいのに、完全には切り捨てられない。


「明日の夜会で、一つだけ決めておいた方がいい」


 カシアン殿下が言った。


「何をです」


「最初の視線を、誰に渡すか」


「視線?」


「会場に入った瞬間、誰を見るかです」


 私は眉をひそめた。


「そんなことまで意味を持つのですか」


「宮廷では、ため息にも派閥があります」


「生きづらい国ですね」


「社交界とは、どの国でもそういうものです」


 否定できない。


 レグナルトでも、扇を開く角度一つで意味が生まれた。


 ただ、アルヴェリスはそれをさらに商人じみた精度で数えているだけだ。


「誰を見るべきですか」


「王太后陛下」


「それは礼法上当然では?」


「ええ。だからこそ、つまらない」


「つまらないかどうかで決めるのをやめていただけませんか」


「では、政治上当然です」


「急にまともな顔をしないでください。混乱します」


「あなたは王太后陛下の夜会に招かれた。ならば最初の敬意は主催者へ。それを外せば、あなたは礼を知らぬ女になる」


「でしょうね」


「ただし」


 カシアン殿下は、そこで少しだけ口元を上げた。


「王太后陛下を見た後、私を見てはいけません」


「なぜ」


「私の保護下にいる女だと思われる」


「実際、そうでは?」


「違います」


 彼は即答した。


「あなたは私が買いました。だが、私の後ろに隠すためではない」


 私は、少しだけ息を止めた。


 言葉はひどい。


 相変わらずひどい。


 買いました、などと平然と言う。


 でも、その後が違った。


 隠すためではない。


 この人は、私を自分の所有物として隅に置く気がない。


 むしろ、前へ押し出す気なのだ。


 悪趣味なほどに。


「では、王太后陛下の次は誰を見れば?」


「誰も」


「誰も?」


「一度、会場全体を見る」


「全体を?」


「ええ。あなたを見に来た者たちを、あなたが見返す」


 彼の声が、わずかに低くなった。


「見られるだけで始めてはいけない。あなたからも見る。そうすれば、舞台に上がったのが誰か分からせられます」


 私はしばらく彼を見ていた。


 本当に嫌な男だ。


 どうしてこの人は、こういう時だけ正しいのだろう。


 私に必要なことを、私以上に分かっているような顔で言う。


 その顔を殴るわけにもいかない。


 王子なので。


「殿下」


「何でしょう」


「なぜ、そんなことを私に教えるのです」


「余興を成功させるため」


「本当に?」


「もちろん」


「嘘ですね」


「王族ですから」


「またそれですか」


「便利な言葉でしょう」


「ええ。腹立たしいほど」


 カシアン殿下は笑った。


 すると、彼の後ろでマルヴィナが静かに咳払いをした。


「殿下」


「何です、マルヴィナ」


「お渡しするものがあるのでは」


「ああ」


 カシアン殿下は、懐から細長い箱を取り出した。


 黒革の箱。


 銀の留め具。


 彼はそれを机の上に置いた。


「明日、使うといい」


「何ですか」


「扇です」


 私は箱を見た。


 扇。


 社交界の武器。


 令嬢の言葉を隠し、感情を覆い、時には意思を伝える道具。


 レグナルトで私が持っていた扇は、処刑前に没収された。


 白蝶貝に銀の細工を施した、母から贈られたものだった。


 もう戻らない。


 私は箱に手を伸ばしかけ、止めた。


「なぜ、殿下が扇を?」


「必要でしょう」


「どなたの選定ですか」


「私です」


「殿下が?」


「意外ですか」


「かなり」


「開けてみればいい」


 私は慎重に留め具を外した。


 中には、扇が収められていた。


 色は深い灰青。


 私が今着ているドレスに近い。


 骨は黒檀。


 縁には銀の細い線。


 装飾は控えめだが、軽くはない。


 広げると、片面には何も描かれていない。


 無地。


 ただし、光の角度で織り目が微かに浮かぶ。


 まるで、言葉になる前の沈黙のようだった。


「……地味ですね」


「嫌いですか」


「いいえ」


 悔しいことに、嫌いではなかった。


 むしろ、かなり好きだった。


 派手な宝石も、花も、鳥も、天使もない。


 悲劇の令嬢らしい白でも、悪女らしい赤でもない。


 灰青。


 冷えているのに、死んでいない色。


「なぜ、この色を?」


「あなたの首の痕が映える」


 私は扇を閉じた。


「本当に最悪ですわね」


「隠さないのでしょう」


「そうですけれど、言い方があります」


「あなたに似合うと思った」


「最初からそれを言えばよろしいのでは?」


「それでは退屈でしょう」


「私を怒らせたいのですか」


「怒れるなら、生きられます」


 また、その言葉。


 私は扇を握ったまま、彼を見た。


「殿下は、私を怒らせるために余興と呼んだのですか」


 カシアン殿下は笑った。


「さあ」


「答える気は?」


「まだありません」


「まだ?」


「ええ」


 まだ。


 その言い方には、いつか答えるつもりがあるように聞こえた。


 あるいは、そう思わせたいだけかもしれない。


 本当に腹立たしい。


「この扇、いただいても?」


「あなたのために用意した」


「では、受け取ります」


 私は扇を胸元に引き寄せた。


「ただし、これを殿下の好意とは受け取りません」


「では?」


「武器の支給です」


 カシアン殿下の目が、愉快そうに細くなった。


「よい解釈です」


「採点は不要です」


「失礼」


 その時、マルヴィナが淡々と言った。


「オルネア様。扇の開閉にも、アルヴェリス式の合図がございます。今夜中に覚えていただきます」


「今夜中に?」


「はい」


「この地雷原、足元だけでなく手元にもあるのですね」


「宮廷で安全な部位はございません」


 もう笑うしかなかった。


 いや、笑わない。


 明日まで笑いは取っておく。


 あるいは、笑わないことこそ私の武器にする。


「殿下」


「はい」


「王太后陛下に、首を落とされる寸前に何を考えていたかと聞かれた場合、どう答えるべきだと思いますか」


 カシアン殿下は、私を見た。


 それまでの軽い笑みが、少しだけ消えた。


「私に聞くのですか」


「参考までに」


「私なら、答えない」


「なぜ」


「その問いは、あなたのものだからです」


 部屋が静かになった。


 マルヴィナも口を挟まない。


 カシアン殿下は続けた。


「王太后陛下も、私も、他の貴族も、あなたが何を考えたかを知りたがる。だが、それを差し出すかどうかは、あなたが決めるべきです」


「……見世物なのに?」


「見世物だからこそ」


 彼の声は静かだった。


「すべてを見せる者は、すぐに飽きられる」


「また余興の話ですか」


「ええ」


「最低です」


「ですが、役に立つ」


「否定できないのが腹立たしいです」


 彼は微笑んだ。


「あなたが答えたいなら答えればいい。答えたくないなら、答えない理由を美しく見せればいい」


「美しく拒むのも、宮廷の作法ですか」


「最上級の作法です」


 私は扇を見た。


 灰青の扇。


 黒檀の骨。


 何も描かれていない面。


 そうか。


 何も描かれていないものは、空白ではない。


 何を書かせるかを、こちらが選べるということだ。


「分かりました」


「答えは決まりましたか」


「いいえ」


 私は扇を開いた。


 まだぎこちない。


 マルヴィナが視線だけで角度を直す。


 私はそれに従い、もう一度開いた。


 今度は、少しだけましだったらしい。


「でも、明日までには決めます」


「楽しみにしています」


「楽しませるために考えるわけではありません」


「ええ」


 カシアン殿下は、扉へ向かった。


「だから楽しみなのです」


 その言葉を残して、彼は出ていった。


 扉が閉まる。


 部屋には、私とマルヴィナと、机の上の地雷原と、灰青の扇だけが残された。


「マルヴィナ」


「はい」


「アルヴェリス式の扇の作法を教えてください」


「かしこまりました」


「それから、王太后陛下の過去の夜会で、誰が失敗し、誰が生き残ったかの記録も」


「すでに用意しております」


「あなた、本当に侍女長ですか」


「はい」


「参謀ではなく?」


「王宮の侍女長とは、時に参謀より多くを覚えているものです」


 私は深く頷いた。


 この人を敵に回すのは絶対にやめよう。


 その夜、私は扇の開き方を覚えた。


 半分開けば、保留。


 完全に開けば、受容。


 閉じた扇を胸元に当てれば、拒絶。


 口元を隠せば、感情を読ませない合図。


 右手で閉じれば礼儀。


 左手で閉じれば挑発。


 ややこしい。


 非常にややこしい。


 だが、嫌いではなかった。


 言葉にならないものを、仕草で扱う。


 それは、私に向いている気がした。


 断頭台で私は、最後の言葉を持たなかった。


 けれど、明日は違う。


 言葉だけが答えではない。


 立ち方。


 視線。


 首の痕。


 扇の角度。


 すべてが、私の台詞になる。


 夜が更ける頃、私は鏡の前に立った。


 灰青のドレス。


 灰青の扇。


 首元の赤い痕。


 私は扇を開き、自分の顔の下半分を隠した。


 鏡の中で、目だけが見える。


 疲れている。


 怒っている。


 まだ、怖がっている。


 でも、死んではいない。


「首を落とされる寸前、何を考えていたのか」


 私は小さく呟いた。


 王太后陛下がそう聞いたなら。


 私は何と答えるべきだろう。


 無実を訴える?


 王太子を恨んだと言う?


 家族を思ったと言う?


 死が怖かったと認める?


 どれも本当だ。


 どれも嘘ではない。


 でも、それだけでは足りない。


 私は断頭台で、最後の言葉を求められた。


 そして言わなかった。


 言えば、彼らの物語に組み込まれると思ったから。


 泣けば、悪女の最期になる。


 怒鳴れば、反逆者の本性になる。


 命乞いをすれば、王太子の正義が完成する。


 だから、何も言わなかった。


 私の最後の一行を、彼らに渡したくなかった。


 そのことに、私は今さら気づいた。


 気づいた瞬間、背筋が冷えた。


 あの断頭台で、カシアン殿下は何を見ていたのか。


 私の沈黙を、彼はどこまで読んでいたのか。


 私は扇を閉じた。


 ぱちり、と乾いた音が響く。


「まだ、聞くのは早いですね」


 誰にともなく、私は言った。


 あの男の真意を知るには、まだ早い。


 まずは明日。


 王太后の夜会。


 私を見に来る百二十人の貴族たち。


 彼らに見せるのだ。


 断頭台の悪女は、まだ自分の物語を他人に渡していないと。


 私は扇を胸元に当てた。


 拒絶の合図。


 鏡の中の私が、まっすぐこちらを見返している。


 明日、私は無実を訴えない。


 泣かない。


 媚びない。


 許しを乞わない。


 ただ立つ。


 首の痕を隠さずに。


 彼らが私を見るなら、私も彼らを見る。


 舞台に上げられたのが、誰なのか。


 最初に分からせて差し上げる。


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