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第6話 最初に笑った令嬢が、最初に黙った

 夜会が終わったのは、月が王宮の尖塔より高く昇った頃だった。


 長かった。


 本当に長かった。


 断頭台の階段より長かった。


 処刑場から馬車までの道より長かった。


 百二十人の貴族に見られ、測られ、値踏みされ、噂の中へ投げ込まれる夜は、斧を待つ時間とは別種の疲労を連れてくる。


 断頭台は一瞬で終わる。


 夜会は、終わらない。


 少なくとも、終わった後も頭の中で続く。


「オルネア様。足元を」


「ありがとうございます」


 客賓宮へ戻る階段で、マルヴィナが小さく声をかけた。


 私は一段だけ踏み外しかけていた。


 疲れている。


 かなり。


 灰青のドレスは乱れていない。


 首の痕も隠していない。


 扇も手から落としていない。


 けれど、身体の芯は鉛のように重かった。


 湯浴みしたい。


 眠りたい。


 できれば、今日だけは誰にも見られず、何も考えず、寝台に倒れ込みたい。


 だが、宮廷はそんなに優しくない。


 客賓宮の応接室には、すでに書類が置かれていた。


 銀盆に載せられた封書。


 その横に、淡い香草茶。


 そして、見慣れてきた黒革の書類箱。


 私はそれを見て、足を止めた。


「これは?」


「明朝、サビーナ・ヴェリアン様より届けられるはずだった噂の前払いでございます」


「早いですね」


「夜会の最中に、使いの者が」


「彼女は私を休ませる気がないのですか」


「おそらく、ございません」


 正直な侍女長である。


 私は椅子に腰を下ろした。


 座った瞬間、体が少しだけ沈む。


 ああ。


 座れる。


 人間とは、椅子一つでこれほど救われる生き物だったのか。


 王侯貴族の文明を一つ選べと言われたら、今夜の私は迷わず椅子と答える。


「今、読むべきですか」


「お休みになってからでも」


「マルヴィナ」


「はい」


「そう言う時は、大抵、今読むべきものですね」


「はい」


「あなたもなかなか意地が悪い」


「宮廷の侍女長ですので」


「納得したくないのに、納得してしまいます」


 私は封書を手に取った。


 封蝋はヴェリアン家のもの。


 海鳥と波。


 商船で富を築いた家らしい紋章だ。


 封を切る。


 中には、短い文が一枚。


 そして、小さな名簿が一つ。


 私はまず文面を読んだ。


> オルネア様へ。

> 今夜、最初にあなたの首元を見て笑った令嬢の名をお贈りします。

> リゼット・ファルネ伯爵令嬢。

> 彼女は笑いました。

> けれど、おそらく明日の朝には泣くことになります。

> 理由は名簿を。

> 代金は後ほど。

> サビーナ・ヴェリアン。


 私は黙って名簿を広げた。


 そこには、ファルネ伯爵家の取引先、借入先、縁戚、出入りの商人、王宮での後ろ盾が書かれていた。


 細かい。


 恐ろしく細かい。


 噂というより、商業調査書である。


 ファルネ伯爵家。


 中堅貴族。


 海運で失敗。


 ヴェリアン公爵家から間接的に借財あり。


 ファルケン公爵夫人の茶会へ過去二度招かれ、一度は失言により遠ざけられた。


 王太后陛下との直接の縁は薄い。


 カシアン殿下には近づこうとして失敗。


 リゼット・ファルネ。


 十八歳。


 噂好き。


 軽率。


 しかし、自分が軽率だと気づいていない。


 私は名簿から顔を上げた。


「……恐ろしいですね」


「サビーナ様が、でございますか」


「はい」


「ヴェリアン家は情報を扱う家ですので」


「噂好きの令嬢ではなく、諜報網の窓口ですね」


「それに近うございます」


 やはり。


 あの笑顔で斧を投げてくる令嬢は、ただの噂好きではない。


 彼女は人の口を港のように使う。


 入ってくる噂。


 出ていく噂。


 積み荷の中身。


 誰が何を運んだか。


 誰が何を隠したか。


 全部見ている。


「それで、リゼット・ファルネ嬢はなぜ明日泣くのですか」


 私は名簿を見直した。


 マルヴィナは静かに言った。


「今夜、彼女はオルネア様の首元を見て笑いました」


「ええ。覚えています」


 覚えている。


 入場直後。


 首の痕を見た視線の中に、一つだけ軽い笑いがあった。


 扇で隠し損ねた、若い令嬢の笑い。


 目が細くなり、唇が歪んだ。


 その瞬間、隣にいた年配の女性が青ざめていた。


 おそらく母親か、付き添いの親族だろう。


「あれは失礼でしたが、夜会ではよくあることでは?」


「相手がただの亡命令嬢ならば」


「今の私は?」


「王太后陛下監督下の亡命貴族で、カシアン殿下が高額で買い受け、ファルケン公爵夫人が礼法を見ると宣言した方です」


「肩書きが長い」


「長い肩書きは、短い侮辱を高くつかせます」


 私は、思わず扇で口元を隠した。


「それは名言ですね」


「恐れ入ります」


「では、彼女は何を失敗したのですか」


「笑う相手を間違えました」


 単純。


 そして、宮廷では致命的。


 私は書類に視線を戻した。


 リゼット・ファルネ嬢。


 彼女は今夜、私を見て笑った。


 その時点では、私はまだ場の中心ではあるが、扱いが定まっていなかった。


 けれど、その後に王太后陛下が私を監督下に置き、ファルケン公爵夫人が礼法を見ると宣言した。


 つまり、夜会の初めに私を笑ったリゼット嬢は、結果として王太后陛下の判断とファルケン公爵夫人の顔に泥をつけたことになる。


 こわい。


 社交界、こわい。


 悪意ある笑い一つで、借財より重くなるのか。


「私は、何かすべきでしょうか」


「何もしなくても、明日の朝にはファルネ家から謝罪の打診があるかと」


「謝罪?」


「はい」


「私に?」


「はい」


 私は思わず首の痕に触れかけ、やめた。


 昨日まで、私は王国で謝罪など受ける立場ではなかった。


 悪女。


 罪人。


 断罪される者。


 だが、ここでは違う。


 笑われた私は、笑った者を謝罪に来させる立場になり得る。


 立場とは、なんて面倒で、なんて強力なのだろう。


「受けるべきですか」


「受け方によります」


「つまり?」


「ここで寛大すぎれば、軽く見られます。厳しすぎれば、復讐に飢えた悪女と見られます」


「ちょうどよく踏むべき地雷ということですね」


「はい」


「その表現、やはり花園に戻しませんか」


「毒花の花園でございます」


「どちらにしても死にますね」


 私は香草茶に手を伸ばした。


 温かい。


 苦い。


 落ち着く。


 不思議なことに、アルヴェリスへ来てから飲むこの苦い茶が、少しずつ体に馴染んできている。


 敵国の味に慣れる。


 それもまた、生きるということかもしれない。


「マルヴィナ。明日の対応案を」


「三つございます」


「早い」


「想定済みですので」


「あなた、私が笑われることまで想定していたのですか」


「はい」


「……ありがとうございますと言うべきでしょうか」


「お任せします」


 マルヴィナは淡々と続けた。


「第一案。謝罪を受け入れ、以後不問とする」


「弱いですね」


「はい。慈悲深くは見えますが、アルヴェリス宮廷では足元を見られます」


「第二案は?」


「謝罪を拒否し、正式抗議とする」


「強すぎますね」


「はい。悪女らしさは出ますが、王太后陛下の夜会を私怨の場にしたと見られる恐れがございます」


「第三案」


「謝罪を受けたうえで、ファルネ嬢本人をファルケン公爵夫人の茶会に同席させるよう求める」


 私はしばらく黙った。


「……それは、どういう意味になりますか」


「公の処罰ではなく、礼法の再教育」


「私への謝罪ではなく?」


「彼女の無作法を、礼法の問題へ移すことができます」


 なるほど。


 私を笑った罪。


 それを私怨ではなく、夜会における無作法として処理する。


 そしてファルケン公爵夫人の茶会へ同席させる。


 これは優しいようで、優しくない。


 あの礼法の化身のような夫人の前で、リゼット嬢は自分の失敗を理解させられる。


 しかも、私の前で。


 恥をかかせるのではない。


 恥の扱い方を学ばせる。


 それは処罰より長く効く。


「第三案で」


 私は言った。


「よろしいかと存じます」


「ただし、条件を一つ」


「何でしょう」


「リゼット嬢が心から謝罪する必要はありません」


 マルヴィナが、ほんの少しだけ目を細めた。


「と、申しますと」


「私も彼女の心までは要りません。欲しいのは、今後私を笑う者が何を失うかを周囲に知らせることです」


「では、謝罪は形式でよい、と」


「ええ。むしろ形式を完璧に」


 私は扇を机の上に置いた。


「心のない謝罪ほど、社交界では形が問われるのでしょう?」


 マルヴィナは、深く一礼した。


「その通りでございます」


 その時だった。


 扉が叩かれた。


 三度。


 私は目を閉じた。


「まだ来るのですか」


「殿下でございますね」


「分かっています」


 あの叩き方は、もう覚えた。


 腹立たしい。


 返事をしなければ廊下に居座るだろう。


 そして、王宮の廊下は自分の家の一部だと言い張る。


 私は息を吐いた。


「どうぞ」


 扉が開く。


 カシアン殿下が入ってきた。


 夜会用の礼装から、少し簡素な上衣に替えている。


 しかし、疲れた様子はない。


 この男の体力はどうなっているのだろう。


 人を腹立たせると回復する仕組みなのか。


「お疲れのところ失礼します」


「お疲れだと思うなら、明日にしていただきたかったです」


「明日では遅い話なので」


「なら仕方ありません」


「素直ですね」


「今は疲れておりますので、無駄な抵抗を省略しています」


「よい判断です」


「採点は不要です」


「では、心配として受け取ってください」


「それも怪しいです」


 カシアン殿下は笑い、机の上の名簿を見た。


「サビーナから届きましたか」


「ご存じだったのですか」


「ええ」


「殿下の差し金ですか」


「違います。彼女は勝手にします」


「厄介な方ですね」


「ええ。だから便利です」


 便利。


 この宮廷では、人間を便利かどうかで分類しがちだ。


 私もその分類に入っているのだろう。


 腹立たしいが、否定しきれない。


「リゼット・ファルネ嬢の件ですか」


 カシアン殿下が言った。


「はい。謝罪の打診が来ると予想されています」


「来ます」


「断言なさるのですね」


「ファルネ伯爵は借金が多い」


「それもご存じで」


「ええ」


「殿下は、貴族名鑑を丸呑みしているのですか」


「失礼な。噛んでいます」


「そこではありません」


 私は名簿を畳んだ。


「第三案にしようかと」


「ファルケン夫人の茶会に同席させる?」


「本当にご存じなのですね」


「おそらくマルヴィナがそう言うと思いました」


 マルヴィナは表情を変えなかった。


 この二人、やはり長い付き合いなのだろう。


 腹立たしいほど呼吸が合っている。


「どう思われますか」


「最善です」


「採点は不要です」


「では、異論なしです」


「それなら結構です」


 カシアン殿下は椅子に腰かけず、立ったまま私を見た。


 その視線に、夜会での軽さはなかった。


「ただし、一つだけ」


「何でしょう」


「ファルネ嬢を潰しすぎない方がいい」


「なぜです」


「彼女は軽率ですが、軽率な者は時々よく喋る」


 私は眉を寄せた。


「使える、と?」


「はい」


「私を笑った令嬢を?」


「笑ったからです」


 カシアン殿下は、机の上に指を置いた。


 リゼット・ファルネ嬢の名の横。


「あなたを最初に笑った者は、あなたを侮った者です。侮った者は、油断します」


 私は黙った。


「今後、レグナルト王国側から宮廷へ噂が流れるでしょう。あなたを貶めるもの、同情を誘うもの、聖女エルシャを称えるもの。そういう時、軽率な者ほど早く反応する」


「つまり、彼女を観測点にする」


「ええ」


「嫌な使い方です」


「宮廷ですから」


「便利な言葉ですね」


「でしょう」


 私は扇を手に取った。


 閉じる。


 開く。


 半分。


 完全。


 昨夜覚えた動きを、無意識に繰り返す。


「私は、復讐に向いているのでしょうか」


 ふと、そんな言葉が出た。


 マルヴィナが動きを止める。


 カシアン殿下も、ほんの少しだけ目を細めた。


「なぜ、そう思うのです」


「自分でも嫌になるほど、計算しています」


 私は扇を見た。


「私を笑った令嬢への謝罪をどう利用するか。彼女を潰すか、残すか。どちらが得か。そんなことを、当然のように考えている」


 少し前までの私は、こうではなかった。


 いいえ。


 本当に?


 侯爵令嬢として、社交界で生きていた私は、もっと清らかだっただろうか。


 婚約者である王太子の隣に立つために、言葉を選び、視線を読み、席順を気にしていた。


 人の好意と悪意を測っていた。


 ただ、それに「復讐」という名前を付けていなかっただけかもしれない。


「オルネア嬢」


 カシアン殿下の声が落ちた。


「復讐に向いているかどうかは、まだ分かりません」


「そうですか」


「ですが、殺されかけた人間が、相手の手を読むのは当然です」


「当然」


「ええ。あなたは悪くなったのではありません。生き延びるために、見えるものが増えただけです」


 私は顔を上げた。


 カシアン殿下は、私をまっすぐ見ていた。


 余興を見る目ではない。


 外交資産を見る目でもない。


 少なくとも、その瞬間は。


「見えるものが増えると、人は自分を汚れたと思いがちです」


「殿下も?」


「私は最初から汚れていますので」


「台無しです」


「事実です」


 私は呆れて、少しだけ息を吐いた。


 本当に、この人は。


 触れたくないところに触れてから、自分で台無しにする。


 優しいのか、悪趣味なのか、分からない。


 たぶん両方だ。


「殿下は、私に復讐してほしいのですか」


「いいえ」


「では、何を?」


「あなたに、自分の物語を取り戻してほしい」


 言葉が止まった。


 扇を持つ手が、ほんの少し震える。


 この男は、時々。


 本当に時々。


 余興という仮面の下から、ひどく静かな本音を落とす。


 だから困る。


「それも、余興ですか」


「ええ」


「嘘ですね」


「王族ですから」


「最低です」


「はい」


 彼は微笑んだ。


 私はそれ以上聞かなかった。


 聞けば、何かが変わってしまう気がした。


 まだ早い。


 あの男の真意を、全部知るには。


「それで、明日の朝の謝罪ですが」


 私は話を戻した。


「リゼット嬢を潰さず、観測点にする」


「はい」


「そのためには、彼女が私を恐れすぎてもいけない」


「ええ」


「では、どうします?」


 カシアン殿下は楽しそうに笑った。


「あなたが決めるべきです」


「殿下は助言しに来たのでは?」


「しました」


「中途半端です」


「全部教えれば、あなたの答えではなくなります」


 腹立たしい。


 だが、正しい。


 いつもそうだ。


 この男は、扉の前までは連れてくる。


 しかし開けさせるのは私だ。


 檻に入れるのではなく、舞台に上げる。


 守るのではなく、立たせる。


 助けるのではなく、選ばせる。


 私は目を閉じた。


 考える。


 リゼット嬢は私を笑った。


 軽率。


 借金のある家。


 噂好き。


 おそらく、私を深く憎んでいるわけではない。


 ただ、流行に乗った。


 断頭台の悪女を笑ってよい空気だと思った。


 そして、その空気が変わった後に慌てる。


 ならば。


「謝罪は受けます」


 私は言った。


「ただし、彼女に一つ頼みます」


「何を?」


「今夜、私を見て笑った理由を正直に言ってもらいます」


 カシアン殿下の目が、わずかに動いた。


「面白い」


「褒めないでください」


「では、続けて」


「彼女が私を笑った理由は、おそらく単純です。悪女が無様だったから。首の痕が滑稽だったから。王子に買われた女が珍しかったから」


「でしょうね」


「その理由を、彼女自身の口で言わせます。ただし、責めるためではなく、ファルケン夫人の茶会で礼法の教材にする」


「それで?」


「その後、私は彼女に言います。次に私を笑うなら、もっと上手に笑いなさい、と」


 マルヴィナが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


 笑ったのかもしれない。


 カシアン殿下は、はっきり笑った。


「よい」


「採点は不要です」


「失礼。しかし、本当に良い」


「理由は?」


「彼女を潰さず、恥を与え、観測点として残し、同時に周囲へ警告できる」


「警告?」


「あなたを笑うな、ではない」


 カシアン殿下は楽しそうに言った。


「笑うなら、命懸けで上手にやれ」


 私は扇を閉じた。


 ぱちり。


「その表現は物騒です」


「宮廷向きです」


「否定できません」


 マルヴィナが静かに一礼した。


「では、その方針で準備いたします」


「お願いします」


「なお、明日の衣装ですが」


「衣装?」


「ファルネ家の使者が来る可能性を考え、朝の応接用の装いを整える必要がございます」


 私は額に手を当てた。


「私は眠れるのでしょうか」


「三時間ほどは」


「それは睡眠ではなく仮死です」


「断頭台よりはましかと」


「比較対象がひどい」


 カシアン殿下が笑った。


「では、私はそろそろ失礼します」


「それがよろしいかと」


「追い出されましたか」


「はい」


「正直ですね」


「疲れていますので」


 彼は扉へ向かった。


 だが、出る直前に立ち止まる。


「オルネア嬢」


「何でしょう」


「今夜、あなたはよく立っていました」


 私は返事に詰まった。


 そういうことを、不意に言わないでほしい。


 腹立たしい。


 とても腹立たしい。


「……評価は不要です」


「これは評価ではありません」


「では?」


「事実です」


 そう言って、カシアン殿下は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 私はしばらく、扉を見つめていた。


 本当に、腹立たしい。


 言葉の刃を振り回すくせに、時々こうして支える。


 余興と言いながら、私が折れない距離を測っている。


 最低だ。


 最低なのに。


 少しだけ、息がしやすくなる。


「オルネア様」


 マルヴィナの声で、私は我に返った。


「湯浴みの支度を」


「はい。お願いいたします」


「それから、明朝の応接についてですが」


「湯浴みの後で」


「かしこまりました」


 その夜、私は湯の中で眠りかけた。


 マルヴィナに起こされ、寝台へ運ばれるようにして移動した。


 情けない。


 だが、今日だけは許したい。


 寝台に入ると、身体が深く沈んだ。


 目を閉じる。


 暗闇。


 処刑場の木枠が浮かぶ。


 首の圧迫感。


 民衆の声。


 王太子ラウレンツの安堵した顔。


 聖女エルシャの涙。


 そして、カシアン殿下の声。


 あなたは、最後の一行を他人に渡す気がない女だと。


 勝手に読むな。


 そう思う。


 でも、読まれたことが、少しだけ私を支えている。


 誰もが私の罪を読んだ日。


 彼だけが、私の沈黙を読んでいた。


 その事実が、眠りに落ちる直前まで胸に残った。


 翌朝。


 私は、三時間どころか二時間半で起こされた。


 宮廷は本当に容赦がない。


 マルヴィナは悪びれもせず、淡い朝の光の中で言った。


「ファルネ伯爵家より、謝罪の打診がございました」


「……早いですね」


「はい」


「リゼット嬢本人は?」


「来ております」


「もう?」


「はい。客賓宮の控え室で、たいへん青ざめておいでです」


 私は寝台の上で、しばらく天井を見つめた。


 昨日、私は断頭台の悪女として夜会に立った。


 今朝、私を笑った令嬢が謝罪に来ている。


 人生の振れ幅が大きすぎる。


「起きます」


「かしこまりました」


 用意された朝の衣装は、淡い青灰のドレスだった。


 夜会より簡素。


 しかし、手を抜いてはいない。


 襟は少し高く、首の痕を完全には隠さない。


 見せびらかさず、忘れさせもしない。


 ファルケン公爵夫人に言われたとおり、同じ手を二度使わない装い。


 マルヴィナの選定だろう。


 やはりこの人を敵に回してはいけない。


「リゼット嬢をこちらへ」


「はい」


 応接室に座る。


 香草茶が置かれる。


 扇は膝の上。


 昨夜とは違う。


 ここは私の客賓宮だ。


 少なくとも、この部屋では私が迎える側。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、若い令嬢だった。


 金に近い淡い茶の髪。


 昨日は華やかな桃色のドレスを着ていたが、今日は薄い灰色。


 明らかに反省を示す色だ。


 顔色は悪い。


 目元も赤い。


 眠れなかったのだろう。


 リゼット・ファルネ伯爵令嬢。


 昨日、最初に私を見て笑った令嬢。


 彼女は私の前で深く礼をした。


「オルネア・フォン・オルデンフェル様。このたびは、昨夜の夜会にて、私の無作法によりご不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」


 声が震えている。


 私は答えなかった。


 すぐに答えるな。


 沈黙を恐れるな。


 沈黙は、断頭台で得た数少ない武器だ。


 リゼット嬢の肩が、わずかに震えた。


 付き添いの女性、おそらく母親か伯母が青ざめている。


 部屋の空気が重くなる。


 私は、ようやく口を開いた。


「お顔を上げてください」


 リゼット嬢が顔を上げる。


 目が合った。


 昨日とは違う目。


 恐れている。


 私を。


 いや、私の後ろにある王太后陛下と、カシアン殿下と、ファルケン公爵夫人の影を。


「謝罪は受け取ります」


 リゼット嬢の表情に、安堵が浮かびかけた。


「ただし、一つ伺っても?」


 安堵が凍る。


「は、はい」


「昨夜、私を見て笑われましたね」


「……はい」


「なぜ笑ったのですか」


 部屋が凍った。


 付き添いの女性が息を呑む。


 リゼット嬢の唇が震えた。


「そ、それは……私が浅はかで……」


「それは謝罪の言葉です。理由ではありません」


 私は扇を開かなかった。


 閉じたまま、膝に置く。


「正直に」


 リゼット嬢は、泣きそうな顔をした。


 だが、泣かなかった。


 意外にも。


 彼女は唇を噛み、声を絞り出した。


「……滑稽だと、思いました」


 付き添いの女性が目を閉じた。


 私は静かに続きを待った。


「断頭台から助かったと聞いて、どんな方なのかと。きっと、もっと恐ろしい方か、あるいは泣き崩れている方だと……でも、首に痕を残したまま、堂々と入ってこられて」


「それが滑稽だった?」


「いいえ」


 リゼット嬢は首を振った。


「私が……そう思いたかったのです」


 私は目を細めた。


「思いたかった?」


「はい」


 彼女の声は、震えていた。


「そうでなければ、怖かったからです」


 怖かった。


 その言葉は、予想していなかった。


「何が怖かったのです」


「処刑されかけた方が、あんなふうに立てることが」


 彼女は、目を伏せた。


「私は、昨日まで、レグナルトの悪女が隣国王子に買われたという噂を、面白い話として聞いていました。可哀想とも、恐ろしいとも思いました。でも、実際にオルネア様を見た時……」


 言葉が詰まる。


 私は黙って待った。


「首に痕があるのに、背筋を伸ばしていらした。誰にも泣きつかず、王太后陛下の前でお答えになった。それを見て、私は……自分が恥ずかしくなりました」


「だから笑った?」


「はい」


 リゼット嬢の目に涙が浮かぶ。


「笑えば、軽くできると思いました。あの方は滑稽だと。私は安全な場所にいるのだと。そう思いたかったのです」


 私は、しばらく彼女を見ていた。


 軽率。


 確かに軽率だ。


 しかし、愚かさの奥にある感情は、単純な悪意ではなかった。


 恐怖。


 自分が安全な側にいると思いたい欲。


 断頭台の痕を見て、笑うことで距離を取る弱さ。


 それは、醜い。


 だが、人間らしい。


「分かりました」


 私は言った。


 リゼット嬢が顔を上げる。


「謝罪を受け取ります」


「あ、ありがとうございます……」


「ただし、明日のファルケン公爵夫人の茶会に同席してください」


 リゼット嬢の顔が、みるみる青ざめた。


 付き添いの女性も、明らかに固まった。


 ファルケン公爵夫人。


 礼法の試験官。


 社交界の厳格な門番。


 そこに呼ばれる意味を、彼女たちはよく知っているのだろう。


「それは、処罰でしょうか」


 リゼット嬢が震える声で尋ねた。


「いいえ」


「では」


「練習です」


「練習……」


「次に誰かを笑う時は、もっと上手に笑いなさい」


 リゼット嬢が目を見開いた。


 私は続けた。


「ただし、笑う相手と場を間違えないこと。笑いは刃です。下手に振れば、自分の手を切ります」


 静寂。


 私は扇を半分だけ開いた。


「そして、もし私を笑うなら」


 リゼット嬢が息を呑む。


「私が笑い返した時に、立っていられるだけの覚悟を持ってください」


 リゼット嬢の涙が、一粒だけ落ちた。


 けれど、彼女は泣き崩れなかった。


 深く礼をする。


「……はい。心得ました」


 私は彼女を見た。


 昨日、彼女は私を笑った。


 今朝、彼女は謝罪した。


 そして、少なくとも今は、私の言葉を聞いた。


 潰す必要はない。


 むしろ、残した方がいい。


 彼女は軽率だ。


 だが、軽率な者は時々、誰より早く空気の変化を運ぶ。


「リゼット様」


「はい」


「昨日、あなたが私を見て怖かったように」


 私は、少しだけ声を落とした。


「私も怖かったです」


 リゼット嬢が、はっと顔を上げた。


「今も」


 言った瞬間、自分でも少し驚いた。


 なぜ、そんなことを言ったのか。


 分からない。


 けれど、言ってしまった。


「ですが、怖いからといって膝を折ると、誰かがその姿を私の物語の一行にしてしまいます」


 私は扇を閉じた。


「だから立っています」


 リゼット嬢は、今度こそ涙をこらえるように唇を噛んだ。


「……私、昨日、本当に失礼なことをいたしました」


「はい」


「申し訳ございませんでした」


「受け取りました」


 それで、この件は終わった。


 少なくとも、表向きは。


 リゼット嬢はもう一度深く礼をし、付き添いの女性と共に部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 私は息を吐いた。


 疲れた。


 夜会よりは短かったが、これはこれで疲れる。


 マルヴィナが静かに香草茶を注ぎ足した。


「見事でございました」


「評価は不要です」


「これは事実でございます」


「皆さん、それを便利に使いますね」


「よく使われます」


 私は茶杯を手に取った。


 口をつける前に、マルヴィナが言った。


「ただ、最後の一言は予定外でございましたね」


「私もそう思います」


「なぜ言われたのですか」


「分かりません」


 私は茶の湯気を見た。


「彼女が、怖かったと言ったからでしょうか」


「怖かったことを認めるのは、弱さではございません」


「そうでしょうか」


「少なくとも、今のオルネア様にとっては武器になりました」


 武器。


 怖かったことが。


 私は苦い茶を飲んだ。


 温かさが喉を通る。


「マルヴィナ」


「はい」


「私は少し、悪女らしくなれたでしょうか」


「いいえ」


「そうですか」


「ただし」


 マルヴィナは、ほんの少しだけ微笑んだ。


「宮廷で生きる女には、なってこられました」


 その言葉は、思ったより嬉しかった。


 悪女ではなく。


 宮廷で生きる女。


 その方が、今の私には必要だった。


 窓の外では、朝の光が庭の白薔薇を照らしている。


 今日も、戦いは続く。


 明日はファルケン公爵夫人の茶会。


 リゼット嬢が同席する。


 そしておそらく、サビーナ様はどこかでこの顛末を笑っている。


 カシアン殿下は、きっと「よい初手です」と言う。


 だから、先に言っておこう。


 採点は不要です、と。


 私は扇を手に取り、もう一度開いた。


 半分。


 保留。


 完全。


 受容。


 閉じる。


 拒絶。


 仕草一つで、意味が変わる。


 言葉一つで、立場が変わる。


 笑い一つで、謝罪が生まれる。


 なんて面倒な世界だろう。


 けれど、断頭台よりはずっといい。


 私は、まだ選べるのだから。


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