葦沢と城戸、勉強会。I
「ただいま」
綴ちゃんが、がちゃりと重そうな扉を開いた。私はその後にぴったりと付き、玄関に入る綴ちゃんの後に続く。
「お邪魔しまーす……」
敷居を跨ぎ、足を踏み入れた途端、素朴な匂い――他の人の家だな、という感じの匂いがしてきた。
私は今、はじめて、恋人である葦沢綴ちゃんの自宅に来ていた。
事の発端は昨日の休み時間。
「あー、そういえばそろそろ期末試験じゃん……千歳、ちゃんと勉強してる?」
二人でご飯を食べていると、綴ちゃんが突然そう切り出した。
「うーん、あんまりやってないかも」
「私もだわ……そろそろやんないとマズいなぁ……」
綴ちゃんが大きくため息をつく。
私も内心、結構マズいなと思っている。私も最近成績が下がってきているのだ。
主に綴ちゃんのせいだ。綴ちゃんと付き合いはじめてからというもの、色々趣味が増えたのだ。
今までやらなかったゲームもやるようになったし、漫画も読むようになった。今まで私の趣味といえば、音楽や料理くらいのものだったから、綴ちゃんと関わるようになってから生活が一変した。
暇な時間が本当に無い。
勉強時間が減り、成績が下がるのも必然だった。
私はそれに危機感を覚えていた。
「あっ、そうだ!」
ふといい事を思いつき、私はついつい机を叩きながら勢いよく立ち上がった。
「なに?」
「勉強会しようよ、二人で!」
「あー!いいね、それ」
「でしょ?お互い見張っておけば集中できるんじゃない?」
勉強も捗るし、綴ちゃんと長い時間一緒にいられる。一石二鳥だ。
すると、中々いい事を思いついたなぁ、と悦に浸っていると、綴ちゃんに
「で、どこでやるの?」
と尋ねられた。
「んー、どうしよう」
「カフェとか?」
「せっかくなら二人でやりたくない?」
「あー、そうだね……どうしよう……」
しばらく黙って綴ちゃんは考えこんだ。
ちなみに綴ちゃんは考え込むとき、口が半開きになる癖がある。これが可愛い。
数秒の沈黙ののち、綴ちゃんが顔を逸らしながら、少し恥ずかしそうに切り出した。
「じゃあ……ウチ来る?」
「…………へ?」
――で、今に至る。
「あ、上着そこのハンガーにかけといて」
「う、うん、分かった……」
私は緊張でガッチガチになりながら、制服の上着を脱ぎ、玄関のハンガーにかけた。
綴ちゃんの家に来るのははじめてだった。
私の家に綴ちゃんを招くという事は今までもあったのだが、私が綴ちゃんの家に行こうとすると、恥ずかしいから、とか、親がいて気まずい、とか言われて、拒まれていた。
突然「ウチ来る?」と言われた時は本当に驚いた。どんな心境の変化があったのだろう?
何にせよ、はじめて恋人の自宅にお邪魔しているという事実に、私は酷く緊張していた。
ついに綴ちゃんのパーソナルスペースの奥深くに入れて貰えたという感じがして、何か背徳的な悦びのようなドキドキを、私は絶えず感じていた。
マンションの中は、普通の家、という感じ。
私はあまり他の人の家に行ったことがないから、これが普通なのかどうかはよく分からないが。
「わぁ……綴ちゃんの家だ!」
「ちょっとー、はしゃぎすぎ。今日は遊ぶために来たんじゃないでしょ?」
私が部屋の中を見回すと、綴ちゃんが恥ずかしそうに言う。
「はーい。勉強頑張りまーす」
「偉い偉い。とりあえずそこ座って待ってて。飲み物出すね」
綴ちゃんはダイニングの長机を指さす。
長机には椅子が三つ。綴ちゃんにはきょうだいはいないらしいから、この三つの椅子は綴ちゃんとご両親の分だろう。
私はそのうちの一つに腰掛け、鞄から勉強道具を取り出す。
「カルピスでいい?」
「うん、ありがとう」
キッチンに立ち、冷蔵庫の中を物色する綴ちゃんを背後から眺めていると、なんだか幸せな気持ちになってきた。
もしも綴ちゃんと一緒に住んだらこんな感じだろうか、とついつい考えてしまう。
「じゃ、勉強会始めますか……」
「はーい」
綴ちゃんは私の前にカルピスの入ったコップを置くと、私の隣に座った。問題集とノートを広げ、筆箱からシャーペンを取り出し、机に向かう。
そして、ノートに流暢な、しかし癖のある字で黙々と数式を書き始めた。
私もペンを取り、数学の問題集を解き進めていく――が、しかし、どうも集中ができない。
そりゃそうだ。恋人の家に招かれて、最初にする事が勉強。やる気がでる訳がない。
ペンが止まる度に、私は綴ちゃんの方を見た。
始めの方こそ、勉強の合間に綴ちゃんの横顔を眺める、という感じだったのだが、十分が経ったあたりから、綴ちゃんの横顔を眺める合間に勉強をするというような状態になっていた。
しばらくそうしていると、飲み物を飲もうと顔を上げた綴ちゃんと目が合ってしまった。
綴ちゃんは私の方をじぃっと眺めたのち、失笑するように微笑んだ。
「もー、千歳?ちゃんと集中して」
「無理ぃ……綴ちゃんの方見ちゃう」
「ふふ、勉強会した意味無いじゃん、それじゃ」
綴ちゃんは、困ったような顔で笑った。
「じゃあ千歳。とりあえず二十五分集中してみよう」
「二十五分?」
「そう。なんか、ポモドーロ法って言うらしいんだけど、二十五分集中して、五分休憩して、ってのを繰り返すと、めっちゃ効率良いらしいの」
「へぇ、そんなのがあるんだ」
綴ちゃんは、こういう雑学っぽい知識を豊富に持っていて、よく感心させられる。
「だから、一旦二十五分集中しよ?それで、その後五分はいくらでも構ってあげるから」
構ってあげる、といじらしく言われ、私は少しキュンとしてしまった。
私はもはや感情を全て掌握されてしまっていた。全部が綴ちゃんの手のひらの上だ。
「じゃあ、頑張る」
「偉い偉い。ちゃんと集中してなかったら二十五分最初からにするから、ちゃんと集中してね」
「はーい」
綴ちゃんは私の頭をぽんぽんと優しく撫でると、スマホで二十五分を測り始めた。
私はペンを握り、再び机に向かった。
たった二十五分集中すれば、その後いくらでも構って貰える。そう思うと意外と集中できて、二十五分はあっという間に過ぎた。
「千歳、おいで」
「んー」
タイマーの音が鳴るやいなや、綴ちゃんはすぐに大きく腕を広げて私を受け止める体制を作った。
私は綴ちゃんの上に跨るようにして座り、綴ちゃんの抱擁を受け入れる。
「ちゃんと勉強できて偉いよ、千歳」
「えへへ……ありがとう」
後頭部をほとんど擦るような速度で撫でられる。我慢していたものを解き放つような、乱雑で、綴ちゃんらしくない手つき。
きっとこの五分間を綴ちゃんも待ち望んでいたのだろう。
ぎゅう、と片腕で肩を抱き寄せられる。私は綴ちゃんの肩に顎を乗せ、腰に手を回す。
そうして抱擁を交わしていると耳元で、すぅ、と息を吸うような音が聞こえた。
「ちょっと綴ちゃん……?」
「良いでしょこのくらい。二十五分も我慢してたんだから」
「もー……」
綴ちゃんが私の首筋に顔を埋めて匂いを嗅いでくる感触を、私はただ感じていた。
確かに恥ずかしいが、満更でも無かった。その恥ずかしささえ、却って心地よかった。
そんな甘い悦びに満たされていると、突然、首筋にこれまでとは違った柔らかく、しかし鋭く冷たい感触を覚えた。
唇の感触だった。
「ぅあ……綴ちゃん?」
「嫌だったら言って」
嫌じゃないから、私はただ黙っていることしかできなかった。
何度も何度も、ちゅ、とリップ音が耳の近くで聞こえる。その度に首筋から淡い多幸感が溢れる。吐息が当たり、体温が上がっているような感じがする。
繰り返し口付けをされているうちに、私は我慢できなくなって、言った。
「……するなら、口にして」
綴ちゃんは「えっ」と小さく声を漏らし、首筋から顔を離した。
驚いたような顔で頬を赤らめた、艶っぽい綴ちゃんの顔がこちらを向いている。
私はただ無言で目を閉じた。
すると、温かな気配がしたのち、鼻先が一瞬擦れるように触れ合い、そして、唇に柔らかい感触が。
じゅう、と下唇を吸われる。
私は薄目になって綴ちゃんの顔を見る。綴ちゃんはぎゅうっと目を瞑っていた。
「んっ……はぁ、もう一回」
顔を離した綴ちゃんの方を真っ直ぐ見据え、私はそう強請った。
その瞬間、タイマーが再び鳴った。
「はい、休憩終わり!」
「え〜……?」
スマホから鳴る無機質な音で、雰囲気がぶっ壊れた。
綴ちゃんは照れ隠しのように私の両手を払うと、はぁ、とため息をついてから右手でペンをとった。
「あと一回くらいいいじゃん……」
「駄目。あと一回したら多分戻れなくなるから」
「戻れなくなっちゃおうよー」
「今日は勉強しに来たんでしょ?ほら、席着いて。また二十五分したら構ってあげるから」
「……はーい」
不服ながらも、もう一度二十五分頑張る事にした。
また五分あの時間を過ごせるなら、たった二十五分勉強するくらい良いだろう。
後編の投稿明日以降になります。気に入って下さった方はブクマしてお待ちください。




